天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

季語を自分勝手に使うな

2024-06-23 05:56:58 | 俳句

プレイステーションの青いかりん



「ひこばえネット」6月例会に以下の句が出た。

意識無き母に寄り添ふみどりの夜 松田晩夏

作者を慮って若干語彙を変え作者名を仮名にしたがテーストは一緒。
採ったZさんが、
「ご心配ですね。緑さす、緑夜、みどりの夜、ともに深みのある今時分の季節を表す言葉と思います。」との評を寄せた。
句評に「ご心配ですね」は蛇足。作品のことのみ書けばいい。
小生は採らずに拒否のコメントを出した。
「<みどりの夜>で作者が何を言いたいか見えない。この季語はまるで効いていない。小生なら<沙羅の花>とか<草雲雀>など付ける。作者は死にゆく母をはかなんでいるわけでしょう。ならばそれがわかる季語にすべきでは。

 すると作者が
「ただひとりの母を亡くしました。三年半の闘病でした。わたしにとっての季語はこれなのです。」
と反論した。ならば日記の端に書いておけばいいたぐいの季語ではないか。

小生はまず「みどりの夜」なる季語を胡乱だと感じた。Оさんの指摘した「緑さす」から転じたものかと思うが「緑さす」にも好感を持っていない。それを調べると、歳時記は新緑の反映であるとし、「新緑」から派生したという。ならば「新緑」でいいじゃないか。
最近どうでもいい季語が梅雨茸みたいに増えている。
調べると以下のような作例がある。
  みどりの夜子は一本の眠れる矢 高野ムツオ
  みどりの夜寝てより身体大きくす 和田耕三郎
  紛れなき両手両足みどりの夜 藤井冨美子
いずれも新緑の生命力を前提に詠んでいる。この季語は生命を謳歌するというのが本意のようだ。
死にゆく人の見取り正反対である。逆であって不意打ちで季語が生きる場合があるが母の見取りに「みどりの夜」はそぐわないと思った。この季語で見取りに励む自分に耽溺しているかのニュアンスさえ出ている。季語はそれだけの味を出すのである。

見取りの句では、
  螢火や疾風のごとき母の脈 石田波郷
をすぐ思い出す。この句は自分が介護しいことはまったく書いてなく、母の状況のみ活写している。危篤の母がいきいきと見える佳句である。付き添う自分でなく母を書いたからいいのである。
これに比べ晩夏さんの句は肝心の母のことより付き添った自分を書いている。それが読み手に事柄、報告という感じを与えてしまう。つまり付き添った私は大変だったのよ、偉かったでしょう、というトーンになってしまって本末転倒している。私の苦労は日記の隅に書いておけ、なのだ。
それでも季語を「沙羅の花」か「草雲雀」にしたら母の存在感は浮上し句の質はアップする。
季語とはそういうものである。

晩夏さんは「わたしにとっての季語はこれなのです。」と凄むがこれもあさはかである。この意識を乗り越えないと新しい句境はやってこないだろう。
季語は個人が自分勝手に使えるものではないのである。季語は歴史のうえにある。えんえんと続いた来た俳句文化のうえにある。
つまり山岳に新たに道を開いても当初は誰も通りたくない。歩きにくいから。それを何年もかかり大勢の人が通ることで道らしくなり歩きやすくなり堂々とした登山道になっていく。
大勢が踏み固めて道がある。つまり季語とはそういうものであり日本民族の共有財産である。共有財産は総意というものがありそれを季語の本意と呼ぶ。
俳句が連句から離れて個人のものになったとはいえ、欧米の詩と異なり俳句に絶対自由の個人は存在しない。俳人は基本的に自由ではないのである。
季語を用いるかぎりそれを築いてきた無数の先達の意識を引き継いでいる。ゆえに季語を使うとき半分は自分、半分は共同体の意思を意識しないといけないのである。その塩梅がうまくいったとき佳句が出来する。
共同体の中の自分、そこで許される自由は何か考える。季語を使うというのはそういうことなのである。

コメント (2)
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