2009年発行/徳間書店
【あらすじ】高校卒業後の進路を決めていなかった平野勇気は、卒業式終了後に担任から就職先を決めておいたと言われ、母親からは恥ずかしいポエムを暴露すると半ば脅される形で家を追い出され、どんな仕事をさせられるのかも分からないまま、三重県の神去村へとやってくる。
列車を乗り継いで着いた先は、見渡す限り山が続く、ケータイの電波も届かない田舎。勇気が就職することになったのは、中村林業株式会社。山仕事に関しては天才的な才能を持つ飯田ヨキの家に居候しながら、ベテラン社員に付いて現場に出た勇気を待っていたのは、広大な山の手入れ。過酷な山仕事に何度も逃げ出そうと試みるもあえなく失敗、ヒルやダニとの戦い、花粉症発症など、辛いことはたくさんあれど、それらを凌駕する雄大な自然に勇気は次第に魅了されていく。さらに勇気は、神去小学校の美人教師・直紀に高望みの恋心を抱き、玉砕しても諦めずに想い続ける。そして、神去村で48年に一度行われる神事オオヤマヅミに、勇気も参加することになる。
題名に惹かれて手に取った。
神去は「かむさり」で、「なあなあ」は「ゆっくり行こう」「まあ落ち着け」というニュアンスを持つ三重県美杉村の方言か。これに「日常」なる言葉が〆として絶妙に効く。だいたい題名を見て中身が想像できるのがうれしい。
本の装丁を写真で掲げた。
その装画において、奥の青い山と手前の緑の山の間の抜けてしまったような白い空間は何かはじめわからなかったが、中ほどまで読むと以下の記述があって納得した。そこが神去山なのである。
「神去山の山頂から、白い雲がいっせいになだれ落ちていた。いや、雲じゃなく霧だ。すごく濃い霧が波のように斜面を下り、瞬く間に集落まで押し寄せていく。」挿画の金子恵氏はおそらく本書の135ページを読み、土地の人々の崇める「神おろし」を表現したと思われる。
これからもわかるように本書は浪漫性満点である。
村のただ一人の子供が失踪する事件を「神隠し」と描いたのは過剰な情念でありリアリズムの方向で描いて欲しいと思ったが、作者の山を尊ぶ気持ちが全体を浪漫的に仕立てたには納得した。
今わが国の第一次産業は瀕死の危機にある。
余談だが、ぼくの実家は山林を3ha所有していたが知る限り山林が利益を生んだのは二度だけ。30年ほど育てた建築材を父が伐って売ったことによる。その額は息子が大学へ入る入学金を賄えるほどの微々たるものであった。
いま実家を経営している次兄(78歳)が父の死後、山へ入って作業したとは思えない。村の里山はほぼ管理されずほったらかされているだろう。おカネにならなくてもいいという奇特な人が趣味的に山林作業することはあっても生業として村人が山に入ることはなくなっている。
作者はそうした事態を踏まえて日本の林業で身を立てている方々へエールを送っている。浪漫的に描くしかないというところに林業の置かれている句境をひしひしと感じる。