情けない気持ち、やるせない気持ち、ぞーっとする怖さでいっぱいである。
この国の人々の一斉に同じ方向へ靡く心性が、昔も今もなにひとつ変わっていないことに絶望している。
新型コロナウイルスよりもそれをめぐる人々の騒ぎを見て困惑し、絶望し、あきれている。
こんな行動しか採れなかったら、日本はすぐまたかの太平洋戦争を起こしてしまうだろう。それに気が付いた人が何人いることやら。
まず首相の根拠のない学校閉鎖宣言である。
10代の人の罹患率がいちばん低いというデータがあるにも関わらず、誰の意見を聞いたわけでもなく宣言してしまう。
するとそれをほとんどの地方自治体の長がのんで従う体質。根拠を問うこともなく上からきた通達には従う体質。
ぼくはこういう体質が嫌で俳句の場においても指導者に対して意見を言うことを奨励してきた。句会が全員横並びで誰に対しても発言できる環境をつくってきたという自負がある。8年そのスタンスでやってきたが未だに十分だとは思っていない。
今度の付和雷同のトイレットぺーパー騒動も全国津々浦々まで人が浮足立っていることから起きている。ここに個人がしかと物を考えようという姿勢があるだろうか。俺は俺の道を行くという気概があるだろうか。なぜ人の尻馬に乗って動くのか…理解に苦しむ。自分が自分のために生きるということからなぜ逸れて行くのか。
政治だけでなくてマスコミもひどい。
テレビはどこをつけても新感染者のことばかり伝え、結果的に政府の姿勢を追認するように思える。ここにも物事の本質に切り込む叡智というものを感じない。報道機関は一般の人が思いつかないようなアイディアを提供するのも仕事かと思うが頭を使っていない。
ウイルス怖いを前面に出す報道ばかりで全国民を煽っている。これは太平洋戦争をはじめた前とそう変わらないだろう。
あの戦争は軍部が先導して起こしたというけれど、本当は日本国民全体が浮かれて起こしたものである。マスコミも戦時でない今は戦争批判はする、憲法改正批判はするけれど、あの時は軍部や政府に同調して戦意高揚記事を出していた。信用できない。
この国は憲法でいくら戦争放棄を謳っても、本質はそれにとらわれない心性である。言葉など吹けば飛ぶようなものである。
なにかあるとすぐに一丸となる。個人を捨てて全体に身をささげる体質がある。ゆえに国家は「君が代」なのか。
一
君が代は ちよにやちよに
さゞれいしの 巌となりて
こけのむすまで うごきなく
常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ
二
君が代は 千尋(ちひろ)の底の
さゞれいしの 鵜のゐる磯と
あらはるゝまで かぎりなき
みよの栄を ほぎたてまつる
君が代は ちよにやちよに
さゞれいしの 巌となりて
こけのむすまで うごきなく
常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ
二
君が代は 千尋(ちひろ)の底の
さゞれいしの 鵜のゐる磯と
あらはるゝまで かぎりなき
みよの栄を ほぎたてまつる
ぼくかこの歌詞が嫌いである。嫌いであるが日本を象徴するとも思っている。怖い我らの心性を象徴しているのではないか。
鷹主宰が世の中の自粛ムードをものともせず、月例の鷹中央例会を続けていることを評価する。彼は東日本大震災が起こった年の3月も大会を中止しなかった。柔和な表情のなかに秘めた気骨と胆力が彼の魅力である。
先日、多喜窪公会堂に来た3名の男を評価する。君たちの気骨を。そのときぼくは次の句を思っていた。
今を在る者が愛弟子冬木の芽 湘子
皆さん、もっと、四股を踏んで、浮足立たないことを覚えたらいかが。こういう心性は危ないですよ。
撮影地:国分寺市、武蔵国分尼寺跡