天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

全会派一致は怖い

2016-06-15 07:44:13 | 身辺雑記


本日の讀賣新聞は1面で「枡添不信任 全会派一致」という見出しを掲げている。
枡添さんが人格全般にわたって信用を失墜させたことが致命傷であり知事の地位に就いていても何ひとつ仕事はできないだろう。
よって辞めるしかないとは思うのだが百人が百人一致して辞めさせるという動きは不気味である。
自民党、公明党は支持したわけだし、ぼくも彼に一票入れてしまった。
都議会の何人かはあくまで枡添知事を支え続けてほしい。百人が同じ色で結集するのは暴力にきわめて近い。

そう思うと先日の土曜日、俳句甲子園神奈川大会で上げた旗の色がほかの4人とそろって赤一色、白一色となったケースが気になってくる。
旗を上げて2句に優劣をつけることははなから乱暴なのである。
しかしこの乱暴をもとにしたイベントはおもしろく、ぼくら審査員も大会関係者も引率の教師も父兄も、そして参加している生徒たちもほぼ全員興奮してしまうのである。
誰か一人でも違う色の旗を上げていると、「ええまじかよ」と思いつつ「よかった」とも安堵したものだ。
旗の色が3-2に割れたときは豊かな安定した気持ちになった。
けれどこの仕組みに加担したことはまぎれなく、5-0になる暴力を支持していたことになるのである。
ここでの勝ち負けはプロレスの勝ち負けくらいに思う遊びこころを生徒たちに持ってほしい。指導者も勝ち負けに熱狂しないでプロレスマインドを生徒たちに語って欲しい。

だからかもしれない。ぼくが「鑑賞点」、つまりディベートを重視するのは。
この討論では自分の作品を擁護できるのである。むろん、「こういう意味で作りました」などというのは句の否定ゆえナンセンスであるが、ほかの表現で自己を主張できる場なのである。
相手を攻めるというより自分の作品のよさをしかと認識して自分を主張してほしいと思うのである。
俳句甲子園で憂慮するのは、自我が極度に肥大し増殖すること。私は偉い誰よりも優れている、優れたい、勝ちたいという意識が先鋭化することである。
俳句はそんなに肥大し自我を載せられる器ではないだろう。漱石は「菫程な小さき人に生れたし」と書いて肥大する自我と戦い静かな生を見据えようとしている。

今度の土曜日に成人たちの対面句会がある。
ぼくが指導する。互選で点を入れ会ったのちぼくの選を披露する。一応ぼくがセンセイでありセンセイの選に入ることを喜んでくれる人が集まっている。
俳句の集まりは赤旗白旗を上げるよりこちらのほうがまっとうと思う。
できればセンセイの発言に異を唱えたりして揺さぶりをかける姿勢を持って欲しい。

京極夏彦著『百鬼夜行 陽』の中で次の一節がしみる。

戸板もないような掘っ建て小屋に肩を寄せ合って暮らしていても、暮らしがある限り其処には世間がちゃんとあるものだ。

掘っ建て小屋かいわいの小さな世界で楽しむことのできるのが俳句である。マスコミで報道されなくても、広い世間に喧伝されなくても句会の3時間が楽しい、だからまた来たい、ということがいいのである。
ただし井戸端会議はなしですよ。俳句そのもののにまつわる意見を戦わして詩を楽しむのですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする