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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

姿見の池で一休み

2024-08-16 03:10:18 | 自然



きのうはいつもと違う気分で姿見の池を見ていた。姿見の池の背後の雑木林を散策してすこし秋の気分がした。
それは萩にちらほら花が出たことであった。

細道や腕にさらりと萩の花
萩の小花がちらほら、ああ秋か。萩は最盛期になってもそう派手な感じがしない。それがこの花のいいところ。

ちらちらとさざなみ見ゆる木下闇
雑木林の中から池が見える。暗いことろから明るいところ、水面を見るのは爽快。森を出ると暑いが3000歩歩いて池の端へ。
池のそばを川が流れているがそれが池を満たすのでなく地下水が湧いて池になっていると思う。川も200m先の暗渠から突如出現する。
恋ヶ窪は水が湧く窪地である。






鯉涼し沈まぬほどの鰭使ひ
真鯉が3匹ほど、緋鯉が同じくらい。暑いのか鯉の動きが鈍い。鯉の大人はヒトの大人同様せかせかしないらしい。しようがないから鰭を動かすかといった感じ。鴨が2羽いて子鴨を連れている。生まれたらしい。もう完全に定着した鴨である。

緋鯉撥ね入道雲を乱しけり
緋鯉は花がある。ときに激しく動くと雲とごっちゃになる。水面はカオスである。





ゆつくりと白鯉浮かぶ秋の風
額に紅があるほかほとんど白い鯉が1匹。白い鯉はたくさん色がある鯉より存在感がある。白、黒は無彩色というが色ではないと聞いたことがある。

あをみどろどろどろ動く暑さかな
鯉が動くとあおみどろが動く。そのとき暑さを感じるが鎮まったあおみどろは涼しげ。涼しいあおみどろも書いてみたい。

病葉が水面の雲に落ちにけり
ときおり散る木の葉が静かな水面のアクセント。

泡燦燦緋鯉入りたる水草(みくさ)より
緋鯉の立てる泡は豪華で美しい。

一顧無し夏鴨と鯉すれ違ふ
鴨は水の上、鯉は水中にて目を交わすことはない。両者はその存在を感じているだろうが邪魔とは思っていない様子。






腿ほどに太りし鯉や秋暑し
太った鯉はいつも食いたいと思う。鯉は何年生きるのかふと考える。

夏霞沼吐く気泡そこかしこ
水面に水輪が絶えずできる。空から何か落ちたのでもなくあめんぼでもない。池の底から泡が出ている。へどろが溜まっているのではなくても何か泡立つ。ああ、まだ暑さが続くと泡を見て思う。



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見えていて遠い葛の根

2024-08-07 10:12:19 | 自然

西国分寺駅


夏、葛の葉がはびこる。線路の両側の斜面は葛の世界である。西国分寺駅も葛が繁茂している。Wikipediaは葛について、
「温帯および暖帯に分布し、北海道から九州までの日本各地のほか、中国からフィリピン、インドネシア、ニューギニアに分布している。世界の侵略的外来種ワースト100選定種の一つである。山野の林内や林縁、土手、河原などに自生しており、山の斜面や道端[、荒れ地に多く、人手の入った薮によく繁茂する。」という。
草の中でずば抜けて繁茂している葛。見るたびに葛の根が地中でどのように生育しているのか気になる。
しかし、近くて手の出せない世界である。鉄道の敷地内であるからだが、かりに荒地であっても葛の根を探し出すのは至難である。
けれど調べるとそれを掘っている人がいる。そういう人がいるから葛の根が商品になっているのであるが、小生は探してそれを掘る気力がない。食べるまでにかかる労力が半端ではない。掘って地中を探すのはえらくたいへん。
西国分寺駅構内の葛は秋、業者が草刈機をでもって刈り倒してきれいにする。しかし彼らが土を掘って根を掘っているのは見たことがない。ということは何十年もかけて根が太っているののではないか。写真の葛の根のように。
それは商品になるのではないか。そんなことを思って見る葛の群落。
葛の葉を見るだけで暑い日々である。


こんな巨大な葛の根があるのか。怪奇映画の動物を思わせる


ここから食べるまでに持っていく労力もたいへん

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夏を寿ぐ緑たち

2024-07-22 05:37:03 | 自然


高尾山。
「地球は青かった」はソ連の宇宙飛行士ガガーリンが1961年に遺した言葉である。宇宙から見る地球は青いのだろうが
陸に住む我々は夏、緑をいきいきと感じる。緑も青というのであるが。

高尾山へ行って「万緑」をひしひしと感じた。特に樹木の織り成す緑に圧倒された。「翠嵐(すいらん)」といういかめしい漢語をかつて「鷹」の俳句で見たことを思い出した。みどりに映えた山の気、という意味。小生も使いたくなり
翠嵐に気触れさうなり滴れり
としてみた。行っているのかいないのか作者はわからない。あまり考えず緑の曼陀羅に気を放つのがよさそう。






賃仕事をしているアパートの庭。
かつてドクダミが繁茂していた。抜いても抜いてもドクダミが生えたが、ある時やけに少なくなった。
見ると、地衣類というのか、違う緑が密集していた。小さなものが密集したさまを美しいと感じるのが不思議である。







黒鐘公園の池。
夏、緑に変色する。きれいな緑でなくいろいろな物が腐った緑である。もう少しきれいなときおたまじゃくしがいた。
エネルギーに満ちていていろいろな生物が元気である。
三伏や亀のひしめく緑沼






恋ヶ窪駅近くのとある農家。
毎年、箒木が生える。このふっくらとした緑が好きでよく眺める。酒処の玄関を飾る酒林も丸い立体感であるが緑はすぐ消えて茶になってしまう。
これを引っこ抜いて飾ってもいいのではと思う。







多摩川河川敷。
草が繁茂している。草の葉は千差万別。見ていて飽きない。
捕虫網千種の緑きらめきぬ







大垣産さんの庭の隅。
うちから一軒おいたところに大垣さんが住む。10年ほど前に奥さんを亡くし一人住まい。
家のペンキ塗りなどこまごましたことをよくやる。しかし、庭の隅の苔はむしらない。小生同様ここに美を感じているのかもしれない。
徹底的に草むしりしない人と見た。そういう人とは友人になれそう。







都立武蔵国分寺公園。
樹下がたくさんあり全く日を受けないで歩けるのでよく来る。一角に芭蕉が立っている。
あまたある葉の中で、5月の朴若葉とこの芭蕉の葉は美しい双璧と思っている。光の透け具合が絶妙。芭蕉の下で句会をしたい。







真姿の池湧水群。
本多さんの家を支える石垣。それが川をも支えている。結がバシャバシャ水を飛ばして駆けるところ。
石という無機質は見たところ生物がいそうもないが菌類がいっぱいいるようだ。中に葉緑素を持つやつがいて彩ってくれる。






吉祥寺の動物園。
大樹の幹はほかの蔓性植物の生きるよすがになる。蔓草は垂直に己がテリトリーを黙々と広げる。







姿見の池。
ここをあおみどろが好む。鴨と鯉が棲んでいるがあおみどろはもっと元気。あおみどろは水雲(もずく)みたいで食べられそうだがスーパーに出ていないところを見ると美味くないのか。ここに一匹いる白鯉が潜っては水泡を立てる。
あをみどろおどろおどろし五月闇






お鷹の道。
真姿の池湧水群に関連してお鷹の道がある。水の湧くところから300mほど下流。細い川が埋まるほど水草が茂っている。
その光沢と質感にうっとりする。生命の躍動を光を放って表現している。あっぱれである。







翠富士(みどりふじ)。
彼は番外の緑。前頭十枚目。身長171.0cm、体重117.0kgと体に恵まれないが中日、竜電をあざやかな下手出し投げで屠って5勝3敗。
夏の桑の葉のように黒みがかった緑のこくを彼に感じる。


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ああ胡桃が芽を出した

2024-04-19 05:04:43 | 自然
           


おとといのこと、黒鐘公園の森で腐らせていた胡桃の回収をした。3回目である。400個くらいのうち50個ほどから芽がぞくぞく出てしまっていた。
あたたかくなるとなにもかも芽吹く。いままで胡桃は野に放置して外側を腐らせて回収してきたがこんなに芽が出たのははじめて。置いた場所が胡桃の発芽に適していたのであろう。
芽が出た一角は手をつけなかった。
彼らが彼らのために蓄えたエネルギーを使い始めた。それがどうなるか見ていたい。芽が出てもあと伸びてゆくのは至難。まわりは他の植物たちが占めていて新参者の成長を簡単に許さない。それでも何本か生存競争を生き抜くかもしれない。
胡桃の1個1個が戦っている。



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2キロ圏内の春を詠む

2024-03-14 03:41:46 | 自然



3月になったが雨が降り寒いなあと思っていた。が、きのうは風が強かったものの春の日差しを感じた。朝9時図書館へ行き、プールへ自転車を駆ったとき、もう辛夷が咲いていた。カメラを持っていなかったのでそれを取りに引き返した。たまには大相撲以外の素材で、ブログを作ろうと思い立った。

花辛夷青天風を奏でをり
このところ風が強い。用がなければ外へ出たくないほど。

烈風にほころびし初めし花辛夷
辛夷は風を歓迎しているのかいないのか。風が強引に蕾を開かせようとしている。

清廉な空潔白な花辛夷
風が強い。晴れた空と白い辛夷を見ていて、「清廉潔白」という言葉が空に浮かんだ。







国分寺市の農家は「こくベジ」なるブランドで野菜を売っている。黒鐘公園わきにもある農家の掘っ立て小屋があって、そこで平日10時から正午まで野菜を売る。小屋のわきが畑で今、菜の花が盛りである。
菜の花に油絵具をこねてゐる

貧血の少女めくらむ花菜かな

息苦しどわんどわんと花菜風
菜の花の匂いを胸の奥に吸い込んで煙草に噎せた昔を思い出した。











畑の横に雨水がたまっている。茣蓙が濡れているのはたぶんクルマの滑り止めに敷いたのであろう。
ふわふわと羽毛越えゆく春の泥
草の綿毛や羽毛がどこからか来て何処かへ去る。

藁も茣蓙もことごとく飲み春の泥
春泥、特に赤土の泥はマグマのように飲み込む。

春泥にちりちりと日や急かさるる
泥に日が反射するのを見ると、もう春だ働け、と言われている気分。






この豪華な花は遠くにいても目に付く。毎年、豪華だなあと思っていたが花の名を知らない。今回、図鑑を調べて、「ハナズオウ」だと思った。春の季語になっている。この季語に挑戦した。
花魁の緞子のごとし花蘇枋
花魁は安易かもしれぬがそういう感じの豪華さである。

歩を止めて旅人うるほふ花蘇枋
立ち止まって見たくなる花、そして活力を呉れる花。

花蘇枋奥へ奥へと誘へり
大きな木で奥行を感じる。花の威光が木の下、木の奥まで続いている。花蘇枋のそばが空地でいろいろな草が生えている。目につくのがナズナ。











戦火無しぺんぺん草の小さき花
屈んでこの花を見てふいに東京に戦争がないと思った。ウクライナ、パレスチナでないことをありがたく感じた。
花薺選り好みせず貧土にも

花薺日を肯うてむくむくと
土があり太陽と大気、水があればどこにも咲く。ナズナの強いこと。ナズナと一緒に咲いているのはホトケノザか。これも健気な花を咲かせる。

花薺見つけし今日を寿ぎぬ
ブログを長いこと作ってきた。できるだけ独自のものを作ろうとしてきて、独自なもの、オリジナル(original)など到底無理と思うようになった。起源、元、orijinなどどこに存在するのか。そう思って創り出したとしても借り物であるのがほとんどである。小生も含めて人は、第2次作品、第3次作品、第4次作品……と複製をこしらえているに過ぎない。薺の花を人は作ることができない。薺が咲いていてくれるのでそれを書くことができる。 頭を垂れて花を愛でるばかりである。

閑人の閑居の庭の花薺


句友南骨さんの指摘でヒメオドリコソウではなくホトケノザのようです。

コメント (4)
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