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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

美人漫画家の視線

2015-05-22 12:06:18 | 言葉

オーサ・イェークストロムさんと彼女の著作

今朝NHKの7時からのニュースで「外国人の見た日本」を話題にした。
そこでアナウンサーが当然のように「目線」「目線」を連発しテロップも「目線」と出た。
NHKだけでなく信頼できると思っていた作家さえも「目線」と書くようなありさまである。
外国人の一人として登場したスウェーデン出身のオーサ・イェークストロムさん(31)がきちんと「視線」と言ったとき全身に涼しい風が吹いたような気がした。
北欧美人漫画家をかのジャンヌ・ダルクのように思った。

「目線」が流行りはじめたころ藤田湘子はこの言葉をことのほか嫌った。湘子のあと鷹を継いだ小川軽舟も当時、違和感があり自分からは使いたくない、と言った。
鷹は正しい言語感覚で主宰のバトンタッチが行われたと深く満足したのだが、われら視線派はどんどん劣勢になっている。

外国から来て日本文化を学ぼうとする優秀な人に正しい日本語を引き継いでいってほしい。大相撲も強さの核はモンゴル勢である。
大相撲も日本人が軟弱で、日本語(和語)もまた下手をするとわれわれ日本ネイティヴが損ねているようなありまさまだ。
NHKは日本代表放送みたいな顔をして新手の妙な言葉に飛びついて悪貨が良貨を駆逐するようなことをやっている。
俳句の読みではときどき変なところで切って気になる。

こんど鷹主宰にお目にかかったらまだ視線派であることを確認したい。
「いや、私も目線でいいと思いますよ」などといった発言を聞いたら鷹を辞めるかもしれない。
主宰と湘子と視線についてなつかしみたいなあと思った朝である。
オーサ・イェークストロムさん、正しい和語を学んでいってください。
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上から目線に粛粛と

2015-04-08 00:02:53 | 言葉

6日の菅官房長官と沖縄県の翁長知事との会談に注目した。
まさか翁長知事から「粛々と進める」という表現に対して「上から目線だ」というような発言がなされるとは思いもせず唖然とした。

いま世の中のいたるところで「上から目線だ」と言って相手を批判することが流行っている。それがよもや政治の交渉の場で出るようになるとは思いもしなかった。
こういったものは小学校のホームルームの話題にふさわしいのであって、冷酷・狡猾・非情な政治という舞台でテーマになるものだろうか。
政治は具体的な内容のみに言辞を尽くせばいい。言いかたが気に障ったからあなたは悪い人というのは色恋や井戸端会議やPTAのレベルであろう。それでは政治にならない。

沖縄が本土に対してその安全保障のために土地を提供して犠牲になっていることはわかる。が、そこの首長が上から目線というような<泣き虫根性>で政治家として一流なのか疑問に思ってしまった。「上から目線」にははじめから卑屈・矮小・ひがみ根性がしみついていないか。
政治家は最初から負け犬であってはならない。遠いところから吠えている感じを与えては相手に馬鹿にされるだけだ。

ぼくは人を批判するのに「上から目線」を使うのが嫌でたまらない。
そう言った瞬間自分は弱さの砦に両手両足でからみついていて離れようとしていない姿を思ってしまうのだ。
そういう類型的な弱者の姿勢に溺れるのではなくて、自分らしい表現で相手の傲慢を突き崩す言葉がないのだろうか。

一方、「粛々と進める」も類型的である。
粛粛は広辞苑によると
1.つつしむさま
2.静かにひっそりしたさま
3.ひきしまったさま
4.おごそかなさま
であり、類型的ではあるそう傲慢な意味は持っていない。
菅氏は記者会見で「不快な思いを与えたなら使うべきではない」と説明したそうだが、<泣き>のない菅氏がじんわり翁長氏をいたぶっている感じがする。

政治家の資質としては菅氏のほうが上なんだろうな、きちんと立っている分。
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手の散歩と引用の散歩

2015-01-03 16:48:18 | 言葉


元日に歩くこと書くことが生活の2本立てと書いたところ、Yさんの年賀状に「手の散歩」という文章がありはっとした。歩くこと書くことを凝縮したみたいな表現で気が利いている。

心掛けているのは五体の散歩。朝、目が覚めてもすぐには起きない。寝床の中で三十分ぐらい何か楽しいこと、面白いことはないか。あれこれ空想して頭の散歩をする。次は「足の散歩」。毎朝、冬場は家の近所、それ以外の季節は定期券を買って丸の内へ散歩のためだけに出勤する。「手の散歩」は主に家事。料理などはできるだけ自分でやる。目・耳・口にも散歩がある。畑以外の人たちと集まりおしゃべりをする機会をもつ。よその人と話すから、「へえ」と新鮮な気持になれるのです。これが私の健康の秘訣。(外山滋比古 91歳)

Yさんの心掛けかと思い感心しながら読んできたら(外山滋比古 91歳)とありびっくり。そのように外山さんがおっしゃっているので私も見習いたいとかいう文言は一切ない。
この引用は240字ほどで年賀状にうまくはまっていた。ぶっきらぼうの効果もあった。

悪友Мのブログも引用が多い。
しかも彼は引用を5000字もやることがある。
5000字も引用したらもうМのブログとは思えない。
とにかく現代はコピー&ペーストが横行している。パソコンはひとことでいうとコピペによる単純増殖文化といえる。言葉横流し文化である。

Мの引用を批判する小生も引用はよくやる。
特に書評を書くようなとき当該図書の気に入った箇所をかなり引用する。引用しながらやりすぎているなあとしばしば思う。
図書というのはすてきな言葉の宝庫である。
だから本にひかれて読む。
自分が使っている言葉、表現よりも優れた何かがあるので本を読む。よって引用したくなるのは当然の心理である。
書評を書くときほどこちらの言葉が貧弱なのを感じるときはない。簡単にいえば、「川上未映子の『ヘヴン』はすばらしいです、ぜひお読みください」、といったことになってしまうがそれではあまりに芸がないので何かしてその魅力を伝えようとする。
物語はあらすじを書くわけにはいかない。そんなに悩んで本について金にもならぬ雑文を書いてどうなるんだという気もするが、書くのは息をするようなものなのだ。

藤田湘子には「自分の言葉で書け」とよく叱咤されたが、裏で冷静に、先生そんなこと言っても言葉なんて自分のものは一つもないでしょ、みんな公共のものですよ、だから通じ合えるわけでしょ、などと思い反発していた。
悪友Мもそういったことをしかと理解して引用ばかりしているのなら許してもいいが、あれはただ安易にやっている。

今年も「自分の言葉」という幻想に向かってあがくことになりそうである。
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日本人の早期英語教育は疑問

2014-12-30 11:35:17 | 言葉

2020年の東京オリンピックのための関係者の英会話特訓が話題になっている。日本語を使わない空間に受講生を閉じ込めて英語漬けにするようなことをするらしい。
オリンピック関係者で成人ならそれもよかろう。
しかし昨今は早期英語教育をすべきという風潮がこの国を覆ってきて、3歳からの英語スクールなども出てきている。
うちの孫などもどこかで英語を学んでいるとかで、
「じじ、りんごを英語でなんというか知ってる?」と聞く。
「アッ・プル」というと「ちがう、アップーー」と口をこれ見よがし動かす。
こしゃくな口は洗濯バサミではさんでやろか。

はい、sとthの差を完璧に出し切れませんしrとlの区別もできていませんよ、たぶん。
しょうがないんだよ、日本人なんだから。
むかし国連の事務次官をやっていた明石康さんが英語のスピーチをするのを何度かテレビで見たが、お世辞にもうまい英語、完璧な発音とは言い難かった。


しかし彼の英語はあれでよかった。
きちんと中身のあることを確実に伝えていた。
最近ではノーベル賞を受賞したの物理学者の方々もきちんと内容のある話を英語でされた。発音なんて少しくらいおかしくても人は内容を聴いてくれるのだ。

若いころ何度もヨーロッパを旅した。
その際英語を使うのだがだいたい用足しはカタコトでいい。単語の羅列でも用は足りる。旅を初めて3日もたつとだいぶ英語感覚が身にしみてきて町の人と気軽に会話が弾むようになる。
いつだったかモンゴル空港で飛行機を待っていたときテルアビブから来た人に話しかけられた。
ぼくを日本人とわかったのか、東京へ行くなら季節はいつがいいか、見ものは何か、といった話題であり、ここまではすらすら答えることができた。
そのうち彼の話題はむつかしくなった。
彼は農業関係の学者らしく日本の抱える農業問題とは何か、自給率はどうなっていて日本は今後どういう食糧計画を考えているのか、といったふうに展開した。
もう降参、ギブアップ! 便所へ立つふりをしてその場から逃げた。
そんな深い案件について日本の有数の政治家でもどこまで真剣に悩み熟慮しているのか。

でも外国人が日本人と会って話したいのはこういったレベルのことだろう。
ハワユー、サンキュー、グッバイ、駅はどこ、あなたの名前は、私寿司が好き、あなたチャーミング……のレベルじゃあないだろう。
話す内容のある日本人になるべきだろう。
英語は内容を伝える一つのツールである。
日本人はまず日本語という原初のツールがあるのだからそれを陶冶すべきではないのか。
日本人が日本語で考えるということをしなかったらどうなるのか。
寒くないか。

ぼくは中学校のころから英語のとりこになった。えらく興味を持ち高校生になったときイギリスやアメリカの英語で書く作家のものを手当たり次第読んで高校時代を過ごした。
単語は2万語以上覚えだいたいのものはそのころは辞書なしで読めるように鍛えた。それが受験勉強でもあった。
ただし会話をする機会はなく紙の上での英語であった。
それでも海外へ出かけて行って3日もすれば英語の日常会話くらいはこなせる。

それより大事なことは英語で話す何が自分の中にあるかではないのか。
天候と自分の名前を言ったらもう終わりでは寒くはないか。
この感覚は故郷へ行って村道でおばさんと会って「寒いですねえ」「からだ大切にしてくださいね」といったらもう話題が続かないのに似ている。

『若き数学者のアメリカ』、『国家の品格』などの著者、藤原正彦氏は子どもが英語を早期から学ぶのに反対している。

「小学校はすべての知的活動の基礎となる母国語をしっかりと学ぶべき時期で、母国語が固まる前に外国語を学ばせるのは理解できない。授業時間が週100時間あるなら別だが、現実には二十数時間であり、人間として最も大切な読み、書き、そろばん(算数)だけで手いっぱい。英語を教える余分な時間は全くない」
「英語は手段にすぎないからだ。英語を100万時間勉強しても、話す内容は生まれてこない」
「英語ができれば国際人になると思っている親が多いが、とんでもない。内容のないことを英語でペラペラと話すと必ず軽蔑される。どこに行っても人間として信頼され、尊敬されるのが国際人だ。母国語を身につけ、自ら本に手を伸ばす子供を育て、読書によって教養と大局観を得ることが、国際人を育てる一番のカギとなる」

この見解にぼくも同調する。
海外で向こうの方々と接してみてこれは痛感した。

藤田湘子もそのへんを危ぶみこんな句を作っている。

日本語半端英語カタコト成人す 湘子


日本語で読み、感じ、読み、悩むことがわれわれの発達の基礎であると思う。以下の句の響きと調べのよさ、それに係り結びという古典文法を駆使した技巧のすばらしさはっとしてを感じ取ることのできる日本人でありたい。

春暁や人こそ知らね木々の雨 日野草城
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カッコウは競技場へ来て鳴くのか

2014-09-18 06:48:01 | 言葉

本日付の毎日新聞3面の「転換期のアジア大会」をみて驚いた。
その記事は「閑古鳥が鳴いていた」といって始まるのである。

第17回アジア大会が韓国・仁川で19日から開かれるがチケットが思うほど売れず開催都市の負担となっている。よって次回の開催都市が未定である。
開催に先だって行われた男子サッカーの日本―イラク戦の4万人収容できる客席の大半が空席だった、という。
そこで「閑古鳥が鳴いていた」というのである。

ほんとうにカッコウ(閑古鳥)が競技場へ来て鳴いたのかなあ……と数秒考えてしまった。
そしてたぶんカッコウが実際に鳴いたのではなくて、閑寂なさま、物寂しいさまをいう慣用表現であろうと推察した。
新聞の導入の文言としてこれは困る。記事の中盤で使うならまだしも冒頭で使われると人心をはなはだ迷わせる。
この記事は全体としてよく取材した事実を踏まえての<意見記事>であり納得できる。
全体が悪くないだけに導入のこの手垢のついた言い回しはなんとかならなかったか。

「閑古鳥が鳴く」なんて野鳥をテーマにしていないかぎり使わないほうがいい表現だと思う感性と英知が欲しい。
新聞やテレビはこういった慣用表現をそうとう好んでいてほかにも
「災害の爪痕がなまなましい」だの、
「季節の風物詩である柿すだれが日に照り映えています」だのは
気になる悪癖三例だろう。

報道という事実に即した言葉が要求される場所で慣用表現に溺れていては物を見る目が衰弱する。
そういう記事を読んでそれがいいと思う市井の人々はたくさんいて
その結果が俳句にも如実に反映される。
「夫なくて閑古鳥鳴く秋思かな」
「水害の爪痕癒えず肌寒し」
「これはこの風物詩なる柿簾」
「銀杏散る日にとつぷりと染まりつつ」

こういうような慣用に毒された句の添削に苦慮しながら新聞の用語の鈍さに思いを馳せる。
課題は朝日新聞だけではないだろう。
あらゆる事実と遠い表現をひとつひとつ検証していかないかぎり物に即した観察はできない。

ぼくは「日本海に浮く佐渡ヶ島」という表現も疑っていて自分の書くものでこの表現は大学卒業時からしていない。島はキューピーのように水に浮かぶものなのか。地球とつながっているのではないか。
広辞苑は「奥底にあるものごとが表面に姿を現す」として認めているのであるが言葉の原初をいつも考える必要があるのではないか、と思っている。
コメント (1)
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