goo blog サービス終了のお知らせ 

天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

川柳から短歌に転向した友よ

2021-10-05 02:37:17 | 文芸

今は亡き愛犬ハナといとう岬

以下に掲載するものは、いとう岬ブログ「ひまじんさろん」(10月2日)からの引用である。題して「文芸行脚」。

**************************************************
どんな文芸も、作者個人の志向違いがあって、誰もが自分の考えが一番だと思う傾向がある。
かく言うぼくも、そうした呪縛から逃れえられずいる。
川柳を30年ほどやってきたが、川柳は座の文芸ということもあり、選者から抜かれる(選ばれる)句が最良であり、選から外れたものは没句として抹殺される。
では、選者の眼が絶対かといえば競選(複数の選者)をすればほぼバラバラの句が選ばれる。(同じ句に選が集まるのも、また問題ではあるが…)絶対的基準など無きに等しいのだ。
といってもそれは当然だ。
文芸だけでなく、芸術は鑑賞する人それぞれの生き方やそのときの感情、指向が何よりの価値観となる。それでも、何々賞を獲ったといえばそこに視線が集まるのが人間の性、弱さでもあろう。
そうした屁理屈をブツブツ述べながら、最近は短歌を書くことが多くなったが、やはり川柳時代とかわらないジレンマに振り回されながら、ボツボツ書いている。
 
 
喃語こそ王さまことば我らみな言葉のしたにかしづくばかり
「喃語」を広辞苑は、1)べちゃべちゃしゃべること、2)男女が睦まじくささやき語ること、3)嬰児の、まだ言葉にならない段階の声、と解説する。ここでは3)の意味で使っているのではないか。作者が吃音であることを旧友の小生は知っている。喃語のままならぬ思いがそれを「王さまことば」と称えたのではなかろうか。「かしづくばかり」の背景に声高な物言いの暴力的側面をみているのが作者らしい。

 
箱あれば箱の形に身をなして猫は自在にこの世を生くる
上の句の「箱あれば箱の形に身をなして」はうまい。続く文言もこれをうまく受けて猫の生態を活写するとともに作者の心情を込めている。

 
母に手をひかれ幼子あいた手を振りつ振り向く子犬のやうに
前の作もそうだが、「幼子あいた手を振りつ」という目の効いた表現が光る。写生が冴えると後は流れるように展開する。

 
夜更けまで歌をつくりて潜り込む吾の布団に加齢の匂ひ
川柳から足を洗っても何か書きたいんだよね。じっくり言える五七五七七の世界はいまの岬さんの心境に叶っているのでは。生活感と自分が存分に出ている。

 
老いの手が老いの手を曳く街角に明日なるわが身うつすら見やる
こういう自嘲的な把握がいとう岬の真骨頂。わが身にテーマを引き寄せるのは情念川柳で鍛えた成果。

 
たはむれに菜花の蕊を吸うてみよ蜜のありかは仄かに昏し
作者は小生より年上だが性への関心は旺盛。「昏し」としたのが彼のエロティシズムの根源。

 
食卓の卵をとりて掌のなかのゆるき丸みは生命のかたち
「ゆるき丸み」がいい。穏やかな性格の作者の地味に見つめた卵が見える。

 
名刹の廊下いつしか減りへこみ吾また減らすひとりならむ
この自嘲も岬さんならではのもの。たぶん自分が運転する車の排気が地球温暖化の一因であり、アスファルトにこびりつくタイヤも地球を汚染すると考えて悩む人。

 
もう少し港の船を見ていようチャペルの鐘の鳴り終へるまで
「チャペルの鐘」を出したのはちょっと気取っているがまあいいだろう。ぼくたち世代は西郷輝彦の「♪……チャペルに続く白い道」が流行ったのである。

 
テントには死にゆく生と眠る生ビルの谷間にいのち枯れゆき
これは今まで見て来たものと比べてかなり難解。このテントは難民のテントと読んだが「ビルの谷間に」がニューヨークや新宿とは思えない。もしかして難民でなくて新型コロナウイルスに感染した人の野戦病院みたいなことか。「ビルの谷間にいのち枯れゆき」がいまいち観念的でテーマをしかと提示できないうらみがある。

 
寂れたる郷にも月の現れしみな寝静まるときを輝よふ
これはこのとおりであろうが俳句でいう「ただごと」。「寂れたる郷」は伊那市のことだが、ぼくはそう「寂れ」ていると思わない。彼自身、身障者支援の仕事をしていてそれなりの活気を創造しているのではないか。


集落を語ることばのやわらかく纏わりつきし棘もときどき
「集落を語ることば」がわかりにくいが、「纏わりつきし棘もときどき」は言い得て妙。伊那の人間関係の東京にはない親密さ、それゆえに村のしきたり、習慣等を無視する人破る人への辛辣さを言っている。前半をもっとうまく言えばさらに生き生きする内容となるだろう。

 
テレビには笑へぬ芸の流れたる退屈なうた連ぬるわれも
いわゆる「お笑い芸人」と称する諸君。たしかに彼らだけ笑って見るほうが白けることが多い。それに自分の短歌を重ねていて、おもしろくまた切ない。


******************************************
短歌に小生の感想ないし批評をつけた。
小生が50歳のときから約10年、いとう岬と川柳をやった。当時いとうの生業は印刷であり、文芸誌と銘打って『旬』を発行していた。
『旬』は川柳を中心に俳句、小説、散文、詩となんでもあるおもしろい雑誌で、小生は川柳や散文を載せてもらった。
そこで知ったいとうたちの川柳は、時事川柳、サラリーマン川柳とは違った。彼らは風刺、揶揄、当てこすりや滑稽を意図するのではなく、「穿ち」は人間の隠しておきたい心理や人間存在の意味へ向いていた。いとうは時実新子に「私淑」していて、かなり情念の強い傾向であり難解な句もあった。
いわば彼の人間探求の穿ちが低迷していた小生の俳句に刺激となり、小生の鷹新葉賞、鷹星辰賞受賞へつながったのではないかと今思っている。季語のない五七五との格闘で季語の意義がだいぶわかったように思う。
小生が60歳ころ、いとうは雑誌『旬』を発行する気力、体力を失っていき、生業を印刷から、福祉事業「障がい者就労継続支援B型 信州こころん」経営と転じそれに専念するようになった。文芸から足を洗ったはずであるが、文芸好きの血が短歌に向かうようになったらしい。微笑ましい。



撮影:いとう岬
天竜川右岸の高台から東を見た景色。中央の大きな山塊の一番高いところが仙丈ヶ岳。
小生は大学時代100日小屋番をした藪沢小屋が中腹にある。いとうも1度は登っている山である。
この写真を撮れるところに住んでいるいとう岬が羨ましい。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時実新子の思い出

2021-04-10 06:42:29 | 文芸



一つの家に二世帯住んでいて7月に一人増える。隙間を作るため妻が音頭を取って妻と小生の持ち物をできるかぎり廃棄し、家の中の物を移動している。その過程で懐かしい文書が出来した。
「週刊朝日」が連載した「川柳新子座」がそれである。川柳新子門下生Мにそそのかされて川柳新子選に二人で挑戦し入選回数を競うことになった。2001年小生が50歳のときのことである。Мには自分は門下生であるから俳人などには負けないという自負があり、小生はその高慢ちきな鼻をへし折ってやろうと思った。
以下が小生の入選作。「米倉ひさき」という別名で出した句である。


2001・1.5‐12
題【来る】
ごうごうと夜は戸口に森が来る
[評] 戸口に森?怖い。私は森が怖い。戸口にそんなものが来たら私は死ぬわ。
いつだったか、浜名湖のホテルの屋上から下を見たら森があって、私は怖くて泣いた。死にたくない、と。あんなにつよく思ったことはない。「死」は一枚の布なの、森じゃないのよ。「森とか風の音です」なんて言っても駄目。お日さま早く昇って来て!


2001・3.9
題【流れる】
洟をかむ脳みそ流れ出はせぬか
[評] ちょっとしめっぽくなったので、カカカと笑わせてもらいましょう。「脳みそ流れ出はせぬか」って、あなた、そんなにきつく洟をかんではいけませんわ。片方を押さえて、そう、そう、片方ずつかむのよ。なんてヘリクツくそくらえ!
脳みそは流出します。洟をかむたんびにやさしいアホになれる。ほんとに楽しみです。


2001・4.27
題【痛い】
パリの医者どう痛いのか聞くのだが
[評] 困りましたね。英語ならカタコトぐらいできるのだけど、ここはパリ。それに痛みは複雑で、日本語でさえ表現しがたいものだから。
困りましたね。パリの医者とあなたの身ぶり手ぶりが見える。あなたがとりあえず痛みを止めてほしくて腕をクロスさせる。するとパリの医者は診察拒否かと思って別室へ。困りましたね。おや、治りましたね。


2001・6.15
題【鳴る】
手が見えて深窓に鳴るオルゴール
[評] 「手が見えて」が妖しく楽しい。「ジュリエット!」「ロミオさま!」ならずとも、深い窓は憧れを誘う。
それにしても「手が見えて」という発想は体験からしか出てこないと思うとき、作者の姿がいきいきと動きはじめる。「実は高枝切りバサミを使っていて」なんて言わないでね、今ステキなストーリーを考え中ですから。


2001・7.20
題【赤】
火の粉火の粉火のつきそうな消防車
[評] いやまあ、これは赤いですね、熱いですね。私はかなり長じてからも消防車を私の味方だと思っていました。ぱっと火がつくセルロイド(古いわね)のような性格でしたので、何度も消防車のお世話になりました。斜め前が消防署で左隣が町のポンプ車置き場だったことも神様の配慮かも。火消しから戻った赤い車は水をかけられてジュッと言っていました。


2001・8.10
題【抜ける】
ジャック老ゆ雲を抜けたる豆の木に
[評] 豆の木はどんどん伸びていった。遂に雲を抜けた。ジャック少年は頬を紅潮させて言った。「どうだい! 夢は叶うんだよ」。とたんにジャックは「川柳くん」に捕えられた。「そんなこたぁないのさ」。
ドリームランドは、実は平凡な現実なのだ。夢は現実の痛みの中に存在する。老いたジャックも浦島太郎も、ここからが夢である。


9月以降12月までの入選作が散逸していた。たしか1年で10回入選したような気がする。Мも10回であり引き分けを悔しがったことが可笑しかった。
50代に川柳をかなり熱心にやったことが俳句に役立ったと思っている。特に季語がどういう役目を果たすか季語の入らない川柳で深く知る機会になった。
「赤」の題詠でこの字を入れずに「赤」の意味を解釈して句を書いた。これは俳句では許されない題詠のこなしかたである。川柳と俳句で題詠のとらえ方に違いがあるのはおもしろいが題詠はやはり字を入れる、読み込みでないと散漫になるだろう。
時実新子が割合はやくこの世を去ってМは川柳をやめた。残念である。
一方、藤田湘子が没し鷹を小川軽舟が鷹を継いで大部分がやっている。時実新子一代の栄光という気がして残念に思っている。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩佐なを詩集『ゆめみる手控』

2021-03-30 04:55:19 | 文芸


岩佐なをさんから詩集が届いた。ぼくより4歳下の66歳だから早稲田図書館勤務は終わっているかなあ、とまず思った。
なをさんはWikipediaが人物紹介をするほど知名度のある方で、ざっと以下のように紹介されている。
銅版画で蔵書票(エクスリブリス)を多数創作。小川洋子の『完璧な病室』(福武書店、1989年)の装幀、装画をはじめほかの装幀、装画も多数。
1995年、詩集『霊岸』で、第45回H氏賞を受賞。
2013年、詩集『海町』で、第24回富田砕花賞を受賞。
2016年、銅版画家・詩人としての全業績に対して第54回藤村記念歴程賞を授賞される。
一方ではプロボクシングおよび競艇ファンとしても知られ、詩人仲間の渡邊十絲子と共に競艇同人誌『確定!!』(1-19号, 1997-2003)を作っていたこともある。
(Wikipediaから抜粋、要約した)
知名度のある詩人とぼくがなぜ知り合いなのかおぼろだが、たぶん文化出版局にぼくが勤めていたとき『銀花』が銅版画の特集を組んだことに関係するのではないか。
詩についてはちんぷんかんぷん。だから、なをさんから詩集をいただくと嬉しい反面おおいに困った。
褒めようにもよく内容がつかめないのである。藤村、中也、犀星くらいは親近感があったが最近の詩人の作品には呆然とすることが多かった。俳句、短歌、川柳なら何か言うことができるが詩についてはよさも悪さも書くのが至難なのだ。でも今回の詩集はいままで頂いた中ではいちばん感想を伝えやすかった。
次のようなことを書いた。
**********************************************************************

なをさん、ご無沙汰しています。
詩集が来て、ああ、なをさんは生きていたんだと思いました。
今回の詩集は一つずつがどれも前のものより短く、だいたい同じ分量で、俳句と近い感じで親しめました。
ベスト5は、
粘土
てん
お昼
夜も
喫茶
です。
**********************************************************************

粘土

粘土を手にして
お題が「自由」となれば
だれしもがうんちをつくる
テクあるものはちんぽをつくる
はずかしくないあたりまえのことぞ
粘土はもまれて心底よろこんでいます
きゃうきゃう

すかっと心浮く文言が満ちています。飄逸です。「テクあるものはちんぽをつくる」「粘土はもまれて心底よろこんでいます」とかいったことや、ほかの文言も意表をついて楽しいです。「きゃうきゃう」なんてよく出てきたなあ、と感激しました。俳句でも擬態語は効果があるのですが難しいのです。


**********************************************************************
てん

てんてん付
てんてん付
剃りあげられた陰毛の丘に
付箋を重ねる
ここで起きた謀反を
歴史に訴えますね

「剃りあげられた陰毛の丘に」から「付箋を重ねる」のワープが冴えました。まるで映画「Back to the Future」で車が時空を超えるような感じでした。謀反を歴史に訴える、なんて体操のウルトラFの着地ではありませんか。


**********************************************************************
お昼

お昼寝をするときは
なるべく死んだときの表情を心がけています
ですますくといってもいいよふうに
邯鄲の夢
覚めるけれど
しゃっくりがでる
ためいきでとめる
息の根

「ためいきでとめる」「息の根」にぼくはむかし作った川柳を思ってニンマリしました。すなわち「心臓を止めるが死だよナイフ刺す」というの、脳死が話題になったころの時事川柳です。今、○○の根というのにずうっと凝っていて、「岩根(いわがね)」で一句つくりたいと願望が下敷きにあり反応しました。


**********************************************************************
夜も

夜もふけて
明朝のおかずを調えようと
重い甕を台所で開けば
粗塩にぎっしり蒼い髪が漬けられている
残してくれて捨てられぬもの
神女の簪のほのかなゆらぎを光であらわして

最後の「神女の簪のほのかなゆらぎを光であらわして」は冗漫に思えましたが、「粗塩にぎっしり蒼い髪が…」の発想が良かったです。
**********************************************************************
喫茶

喫茶店にて
カヘオレというと
アイスですかホットですか
おっと
なんとなくでもカフェオレのホットが出る
運のいい一日だった
ざっといきていきたい

なんといっても「ざっといきていきたい」は座右に置きたい名言と思いました。詩でも俳句でも人生訓みたいなことを言うと鼻持ちならぬのですが、これには身震いいたしました。

************************************************************
なをさんから返信が来た。
「親の面倒などなど私事が煩雑でなかなか時間が自由になりません。で、家事などをしながらパッ思いついたらちょろっと書けるのは短詩だったわけです。ちょろっと書いて後で幾分かは考えるわけではありますが。」
ああ、そういう事情であったか。



なをさんから頂いた銅版画(一部)


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉遊びをおおいにしよう

2021-01-20 08:21:51 | 文芸


小冊子「銀河」№.242に『川柳研究』令和2年12月号から引用した一文があり目を引いた。佐道正さんの書いたもの。

======================================

駄(×)洒落川柳
佐道 正

 川柳マガジンで「駄(×)洒落川柳」の選を受け持っている。これは川柳研究の前代表津田暹顧問の後を受けたもので、津田顧問も川研797号の巻頭言で駄(×)洒落川柳の意義について述べられている。それを踏まえ私の考えを述べてみたい。
 和歌の世界では掛詞という形で、駄洒落が取り入れられている。小野小町の「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」には「ふる」が“降る”と“経る”の、「ながめ」が“長雨”と“眺め”の掛詞、つまり「駄洒落」になっている。ただ、小野小町は単に掛詞で言葉遊びをしようとしたわけでなく「物思いに耽っている間に、花の色は空しく失せてしまった」という自らの心境を歌おうとしたのであって、そこに長雨をもってくることによって、鬱々とした雰囲気を句に込めている。つまりは駄洒落が表現の一種として使われているのである。
 一方よく悪い例として出されるサラ川の「いい家内十年経ったらおっ家内」などは言いたいことは「家内」と「おっかない」の駄洒落そのもので、「十年もたつと妻も怖くなる」という句意の部分は付け足しのようなものになっている。つまり駄洒落を言うことが目的の川柳であり、そうなるとさすがに文芸とは言えず、受け入れることはできないと私も思う。しかし、自らの思いや考えを表現するための一技法として、比喩やリフレインなどと同様に、川柳の表現方法の一つとしての「駄洒落」と考えれば、かたくなに排斥することはないのではないかと思うのである。
 例えば、川柳マガジンの入選句、「イマジンを今人類に聴かせたい」(富岡桂子)「休止して球史に残る甲子園」(山本吐思尾)などはコロナ禍の現状を、駄洒落を一技法として用いて巧みに表現しながら、自らの思いや考えがしっかり述べられており、文芸としての川柳に立派に仕上がっていると思うのだがいかがだろう? 
 「退職金もらった瞬間妻ドローン」「ドットコムどこが混むのと聞く上司」など駄洒落のための川柳が幅を利かすサラリーマン川柳ではあるが、こうした良質の駄(×)洒落川柳をきっかけに数多いサラ川ファンの目をこちら側に向けることも可能ではないかと思っている。
======================================

俳句を小説並みの文芸とまで思っていない小生には、佐道さんが駄にわざわざ×をつけたりすることなど川柳を生真面目に考えているのがおもしろかった。佐道さんが評価する
イマジンを今人類に聴かせたい 富岡桂子
休止して球史に残る甲子園 山本吐思尾
これは巧いなあとぼくも感じ、彼が×をつけている
退職金もらった瞬間妻ドローン
ドットコムどこが混むのと聞く上司
も嫌ではない。おもしろい。とくにドットコムの方は前の2句と遜色のない出来ではないか。

「駄洒落」というより「地口」という表現の方が誤解を招かないだろう。「同音または音声の似通った別の語をあてて、違った意味を表す洒落」という技法。
俳句ですぐ思い出すのが、
大阪に大阪城のある残暑 加藤静夫
褒美の字放屁に隣るあたたかし 中原道夫
加藤句の「ある残暑」の裏に「あるざんしょ」という俗な物言いがあって掛けているのではないか。中原句のほうは発見でありオーソドックスな面白みである。
そぼろ飯ぼろぼろこぼれ駅寒し 天地わたる
情けないほど冷たくて箸より匙が欲しかった。冬の駅弁のそぼろ飯はよくないと痛感した。これも語呂合わである。

地口は楽しい。なぞなぞを考えるように頭脳が活性化するだろう。
今読んでいる逢坂剛の『バックストリート』(毎日新聞社)に以下の語呂合わせがあってニンマリした。
理屈という靴を脱ぎなさい…そして、ぶったまげたという下駄をはきなさい
言葉もなにもかもユーモアが大切と思うこのごろである。

写真:氷穴付近(1月13日)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「のぞみ」と「ひかり」にしびれた

2020-09-15 04:25:42 | 文芸


朝日新聞1面に鷲田清一さんの「折々のことば」というコラムがある。9月23日の朝、Мマリンさんからの突然の要望で当ブログで「朝日俳壇を読む」をやることになって新聞を買った。
そこに、写真に載せた文言があって、感電したようにしびれたのであった。


★☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
のぞみはありませんが
ひかりはあります

       新幹線の駅員さん
千葉・本妙寺の掲示板にあった言葉(江田智昭著『お寺の掲示板』所収)。臨床心理家・河合隼雄が残したジョークから引かれた文言。河合が新幹線の切符を買おうとしたら、駅員にこう言われた。瞬間、この言葉の深い含蓄に感激し、同じ言葉を大声で返すと、駅員は「あっ、『こだま』が帰ってきた」とつぶやいたという。希望をなくしても仏様の光はずっと人を照らしている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆★


これがコラムの全文である。「あっ、『こだま』が帰ってきた」という落ちも極上である。
正直いってこの日朝日新聞で読んだどの俳句よりも感銘を受けたのであった。こんな深みのある文言に遭遇すると生きていてよかったという気さえする。
吟行は言葉を探す営為であり、道端の破れた花も欠けた石もとにかく見て何かを引っ張り出そうとする。一方言葉は人によってすでにあらわになっているものもありこれに気づくことも嬉しい。
書かれていた言葉でかくもすばらしいものにお目にかかることは稀有。去年よりも小説を読んでいるがこれほど感動した言葉はない。
京極夏彦『ヒトでなし』の内容が、ひとことで言えば「のぞみはありませんがひかりはあります」であろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする