
今は亡き愛犬ハナといとう岬
以下に掲載するものは、いとう岬ブログ「ひまじんさろん」(10月2日)からの引用である。題して「文芸行脚」。
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どんな文芸も、作者個人の志向違いがあって、誰もが自分の考えが一番だと思う傾向がある。
かく言うぼくも、そうした呪縛から逃れえられずいる。
川柳を30年ほどやってきたが、川柳は座の文芸ということもあり、選者から抜かれる(選ばれる)句が最良であり、選から外れたものは没句として抹殺される。
では、選者の眼が絶対かといえば競選(複数の選者)をすればほぼバラバラの句が選ばれる。(同じ句に選が集まるのも、また問題ではあるが…)絶対的基準など無きに等しいのだ。
といってもそれは当然だ。
文芸だけでなく、芸術は鑑賞する人それぞれの生き方やそのときの感情、指向が何よりの価値観となる。それでも、何々賞を獲ったといえばそこに視線が集まるのが人間の性、弱さでもあろう。
そうした屁理屈をブツブツ述べながら、最近は短歌を書くことが多くなったが、やはり川柳時代とかわらないジレンマに振り回されながら、ボツボツ書いている。
喃語こそ王さまことば我らみな言葉のしたにかしづくばかり
「喃語」を広辞苑は、1)べちゃべちゃしゃべること、2)男女が睦まじくささやき語ること、3)嬰児の、まだ言葉にならない段階の声、と解説する。ここでは3)の意味で使っているのではないか。作者が吃音であることを旧友の小生は知っている。喃語のままならぬ思いがそれを「王さまことば」と称えたのではなかろうか。「かしづくばかり」の背景に声高な物言いの暴力的側面をみているのが作者らしい。
箱あれば箱の形に身をなして猫は自在にこの世を生くる
上の句の「箱あれば箱の形に身をなして」はうまい。続く文言もこれをうまく受けて猫の生態を活写するとともに作者の心情を込めている。
母に手をひかれ幼子あいた手を振りつ振り向く子犬のやうに
前の作もそうだが、「幼子あいた手を振りつ」という目の効いた表現が光る。写生が冴えると後は流れるように展開する。
夜更けまで歌をつくりて潜り込む吾の布団に加齢の匂ひ
川柳から足を洗っても何か書きたいんだよね。じっくり言える五七五七七の世界はいまの岬さんの心境に叶っているのでは。生活感と自分が存分に出ている。
老いの手が老いの手を曳く街角に明日なるわが身うつすら見やる
こういう自嘲的な把握がいとう岬の真骨頂。わが身にテーマを引き寄せるのは情念川柳で鍛えた成果。
たはむれに菜花の蕊を吸うてみよ蜜のありかは仄かに昏し
作者は小生より年上だが性への関心は旺盛。「昏し」としたのが彼のエロティシズムの根源。
食卓の卵をとりて掌のなかのゆるき丸みは生命のかたち
「ゆるき丸み」がいい。穏やかな性格の作者の地味に見つめた卵が見える。
名刹の廊下いつしか減りへこみ吾また減らすひとりならむ
この自嘲も岬さんならではのもの。たぶん自分が運転する車の排気が地球温暖化の一因であり、アスファルトにこびりつくタイヤも地球を汚染すると考えて悩む人。
もう少し港の船を見ていようチャペルの鐘の鳴り終へるまで
「チャペルの鐘」を出したのはちょっと気取っているがまあいいだろう。ぼくたち世代は西郷輝彦の「♪……チャペルに続く白い道」が流行ったのである。
テントには死にゆく生と眠る生ビルの谷間にいのち枯れゆき
これは今まで見て来たものと比べてかなり難解。このテントは難民のテントと読んだが「ビルの谷間に」がニューヨークや新宿とは思えない。もしかして難民でなくて新型コロナウイルスに感染した人の野戦病院みたいなことか。「ビルの谷間にいのち枯れゆき」がいまいち観念的でテーマをしかと提示できないうらみがある。
寂れたる郷にも月の現れしみな寝静まるときを輝よふ
これはこのとおりであろうが俳句でいう「ただごと」。「寂れたる郷」は伊那市のことだが、ぼくはそう「寂れ」ていると思わない。彼自身、身障者支援の仕事をしていてそれなりの活気を創造しているのではないか。
集落を語ることばのやわらかく纏わりつきし棘もときどき
「集落を語ることば」がわかりにくいが、「纏わりつきし棘もときどき」は言い得て妙。伊那の人間関係の東京にはない親密さ、それゆえに村のしきたり、習慣等を無視する人破る人への辛辣さを言っている。前半をもっとうまく言えばさらに生き生きする内容となるだろう。
テレビには笑へぬ芸の流れたる退屈なうた連ぬるわれも
いわゆる「お笑い芸人」と称する諸君。たしかに彼らだけ笑って見るほうが白けることが多い。それに自分の短歌を重ねていて、おもしろくまた切ない。
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短歌に小生の感想ないし批評をつけた。
小生が50歳のときから約10年、いとう岬と川柳をやった。当時いとうの生業は印刷であり、文芸誌と銘打って『旬』を発行していた。
『旬』は川柳を中心に俳句、小説、散文、詩となんでもあるおもしろい雑誌で、小生は川柳や散文を載せてもらった。
そこで知ったいとうたちの川柳は、時事川柳、サラリーマン川柳とは違った。彼らは風刺、揶揄、当てこすりや滑稽を意図するのではなく、「穿ち」は人間の隠しておきたい心理や人間存在の意味へ向いていた。いとうは時実新子に「私淑」していて、かなり情念の強い傾向であり難解な句もあった。
いわば彼の人間探求の穿ちが低迷していた小生の俳句に刺激となり、小生の鷹新葉賞、鷹星辰賞受賞へつながったのではないかと今思っている。季語のない五七五との格闘で季語の意義がだいぶわかったように思う。
小生が60歳ころ、いとうは雑誌『旬』を発行する気力、体力を失っていき、生業を印刷から、福祉事業「障がい者就労継続支援B型 信州こころん」経営と転じそれに専念するようになった。文芸から足を洗ったはずであるが、文芸好きの血が短歌に向かうようになったらしい。微笑ましい。

撮影:いとう岬
天竜川右岸の高台から東を見た景色。中央の大きな山塊の一番高いところが仙丈ヶ岳。
小生は大学時代100日小屋番をした藪沢小屋が中腹にある。いとうも1度は登っている山である。
この写真を撮れるところに住んでいるいとう岬が羨ましい。