批評するとは向き合うことだ。だから、批評を忘れてしまうとは、向き合うことを忘れてしまうということでもある。ここで選んだ対象を論じながら、私は、その対象へと自らを導いてくれた人の記憶を重ねていた。その思いは作中に響いているかもしれない。
その人たちに向き合うことが、彼らの背後にあるものに向き合うことになり、そして、それさえ超えて行った。私の批評文は、よく、狂っているとか、もはや対象とは別物だと言われるのだが、きっとそれが私にとって、真剣に向き合うということなのだろう。
――大澤信亮「あとがき」『神的批評』238頁
先程この文章を読みながら、昨夜自分が書いたメールの文面を思い出していました。そこでぼくは、自分の好きなもの・大事なものに「向き合う」ことを大切にしたいと記しました。そして今日、『神的批評』を読み終える際にこの文章に出会い、自分の直感は正しかったのだと認識しました。
自分の直感。大澤氏の新著を書店で立ち読みしながら、ぼくはそこに自分の精神との親近性を感じました。「批評」というものに対する考え方が近いと思った。そして彼はその「批評」を実践してみせている。彼の著作を読むことは、ぼくに何らかの啓示を授けてくれるのではあるまいか。二週間前に彼の初の単著『神的批評』を図書館で借りてきました。
一冊の本を読了するのに実に二週間もかかってしまいましたが、しかし直感は正しかった。ぼくは彼と近い。その彼は、批評行為を自己を問う行為と同一視していた。彼は、徹底的に考えていた。書きながら考え、考えながら書き、その実践が批評になっていた。ああそうか、これでいいのだ。
ぼくは彼が批評文の中で出した結論に必ずしも同意するわけではないのだけど、でも彼の実践には完全に共感する。思うに、彼は批評の中を生きている。書くという行為の中を生きている。それは、まず存在している「考え」を後で「文章」にすることを推奨したショーペンハウエルの文章術とは根本的に異なっている。明晰な論旨で鮮やかな結論を導出する学術論文とも違う。大澤氏は、「自己」を表出しながら、悩みながら、苦しみながら、そして喜びながら書いている。このような批評は対象に関して書くという行為ではなく、対象と対話する行為、つまり対象と向き合う行為だ。
そうなんだ。そうなんだ。彼の著書によって、ぼくの進むべき道は照り映える。
その人たちに向き合うことが、彼らの背後にあるものに向き合うことになり、そして、それさえ超えて行った。私の批評文は、よく、狂っているとか、もはや対象とは別物だと言われるのだが、きっとそれが私にとって、真剣に向き合うということなのだろう。
――大澤信亮「あとがき」『神的批評』238頁
先程この文章を読みながら、昨夜自分が書いたメールの文面を思い出していました。そこでぼくは、自分の好きなもの・大事なものに「向き合う」ことを大切にしたいと記しました。そして今日、『神的批評』を読み終える際にこの文章に出会い、自分の直感は正しかったのだと認識しました。
自分の直感。大澤氏の新著を書店で立ち読みしながら、ぼくはそこに自分の精神との親近性を感じました。「批評」というものに対する考え方が近いと思った。そして彼はその「批評」を実践してみせている。彼の著作を読むことは、ぼくに何らかの啓示を授けてくれるのではあるまいか。二週間前に彼の初の単著『神的批評』を図書館で借りてきました。
一冊の本を読了するのに実に二週間もかかってしまいましたが、しかし直感は正しかった。ぼくは彼と近い。その彼は、批評行為を自己を問う行為と同一視していた。彼は、徹底的に考えていた。書きながら考え、考えながら書き、その実践が批評になっていた。ああそうか、これでいいのだ。
ぼくは彼が批評文の中で出した結論に必ずしも同意するわけではないのだけど、でも彼の実践には完全に共感する。思うに、彼は批評の中を生きている。書くという行為の中を生きている。それは、まず存在している「考え」を後で「文章」にすることを推奨したショーペンハウエルの文章術とは根本的に異なっている。明晰な論旨で鮮やかな結論を導出する学術論文とも違う。大澤氏は、「自己」を表出しながら、悩みながら、苦しみながら、そして喜びながら書いている。このような批評は対象に関して書くという行為ではなく、対象と対話する行為、つまり対象と向き合う行為だ。
そうなんだ。そうなんだ。彼の著書によって、ぼくの進むべき道は照り映える。