真面目な話。
2011年3月、ある批評家が東京を脱出。彼はそこで海外の新聞に日本の希望について書き、最近はダークツーリズム運動を先導している。チェルノブイリや福島を風化させないためのラディカルな手段だ。
あのとき、何人かの知識人が東京から逃亡したという。ぼくはそれを非難しようとは思わない。むしろ、生きることに必死でいる姿は、当時のぼくの目に尊くさえ映った。
しかしながら、どうしても東京から西日本へ移動することができない人たち(例えば病人や障害者、金銭的余裕のない人)に寄り添ってあえて東京に残った人もまた存在していた。
これはその人の価値観の問題であり、生き方の問題だ。だからその是非は問わない。ただ、東京から脱出した人間が、その後ダークツーリズム運動に関与しているのを知るとき、ぼくは違和感を拭うことができない。いや嫌悪感と言ってもいい。もちろん、彼の行為に論理的な破綻はないだろう。このことについて何とも思わない人間も多いだろう。しかし、ぼくは違う。
彼の倫理観、道徳観について思う。いや、ここでぼくは彼を人だとか言って謗るつもりは当然ない。そうではなく、何かを書くとき、彼は内省することがあるのだろうかと、ただ疑問に感じてしまうのだ。あるいはこう言ってもいい。自らの倫理観を文章に反映させているのかと。
そもそも自分の道徳観や倫理観を文章に反映させる必要は全くない。実際、ぼくの論文にはそうした要素は一切ない。ただ論文と批評との違いはその点にこそあるとも感じる。研究論文というのが対象について語るものだとしたら、批評というのは対象を通して自分を語ることではないかと。ぼくの最近の論文は余りに客観的に過ぎ、ぼくという人間の主体性が全く見えてこないらしい。そしてそれは論文として評価されないらしい。このことについてしばらく考えていたけれど、たぶんそのような論文だけがぼくにとっての論文なのだ。ぼくは自ら進んでそのような主体性のない論文を書くことを選んだのだ。なぜかと言えば、ぼくは自分について語り過ぎてしまうから。そしてそれはきっと論文としてまとめることはできないから。
ぼくは自分について語りたい。つまり、自分の倫理観を文章に反映させたい。自分の経験、それを踏まえた認識、思想。そういったものを書き出さなければ、ぼくはある作品について本当に論じることはできない。そうではない批評は、どこか虚しく感じられてしまう。
あくまでこれは「ぼく」の話だ。先の批評家の行為に嫌悪感を抱いてしまうのは、ぼくが「批評」と「倫理」との間に密接な関係を見出しているからだろう。もちろんそんなものは初めから前提されているようなものでは決してない。でもぼくは、批評には「人間性」が必要だと思ってしまう。
ここまで書いてきても、たぶん誤解している人がたくさんいると思う。それは当然ぼくの責任だ。倫理とか道徳とか人間性とか、安易な言葉を使い過ぎたかもしれない。あるいは単にぼく自身の頭の中が整理しきれていないせいでもあるだろう。今はこんなふうにしかこの問題について言及できない。けれどもこれは切実な問題なのだ。
いよいよぼくは選択しなければならない。
2011年3月、ある批評家が東京を脱出。彼はそこで海外の新聞に日本の希望について書き、最近はダークツーリズム運動を先導している。チェルノブイリや福島を風化させないためのラディカルな手段だ。
あのとき、何人かの知識人が東京から逃亡したという。ぼくはそれを非難しようとは思わない。むしろ、生きることに必死でいる姿は、当時のぼくの目に尊くさえ映った。
しかしながら、どうしても東京から西日本へ移動することができない人たち(例えば病人や障害者、金銭的余裕のない人)に寄り添ってあえて東京に残った人もまた存在していた。
これはその人の価値観の問題であり、生き方の問題だ。だからその是非は問わない。ただ、東京から脱出した人間が、その後ダークツーリズム運動に関与しているのを知るとき、ぼくは違和感を拭うことができない。いや嫌悪感と言ってもいい。もちろん、彼の行為に論理的な破綻はないだろう。このことについて何とも思わない人間も多いだろう。しかし、ぼくは違う。
彼の倫理観、道徳観について思う。いや、ここでぼくは彼を人だとか言って謗るつもりは当然ない。そうではなく、何かを書くとき、彼は内省することがあるのだろうかと、ただ疑問に感じてしまうのだ。あるいはこう言ってもいい。自らの倫理観を文章に反映させているのかと。
そもそも自分の道徳観や倫理観を文章に反映させる必要は全くない。実際、ぼくの論文にはそうした要素は一切ない。ただ論文と批評との違いはその点にこそあるとも感じる。研究論文というのが対象について語るものだとしたら、批評というのは対象を通して自分を語ることではないかと。ぼくの最近の論文は余りに客観的に過ぎ、ぼくという人間の主体性が全く見えてこないらしい。そしてそれは論文として評価されないらしい。このことについてしばらく考えていたけれど、たぶんそのような論文だけがぼくにとっての論文なのだ。ぼくは自ら進んでそのような主体性のない論文を書くことを選んだのだ。なぜかと言えば、ぼくは自分について語り過ぎてしまうから。そしてそれはきっと論文としてまとめることはできないから。
ぼくは自分について語りたい。つまり、自分の倫理観を文章に反映させたい。自分の経験、それを踏まえた認識、思想。そういったものを書き出さなければ、ぼくはある作品について本当に論じることはできない。そうではない批評は、どこか虚しく感じられてしまう。
あくまでこれは「ぼく」の話だ。先の批評家の行為に嫌悪感を抱いてしまうのは、ぼくが「批評」と「倫理」との間に密接な関係を見出しているからだろう。もちろんそんなものは初めから前提されているようなものでは決してない。でもぼくは、批評には「人間性」が必要だと思ってしまう。
ここまで書いてきても、たぶん誤解している人がたくさんいると思う。それは当然ぼくの責任だ。倫理とか道徳とか人間性とか、安易な言葉を使い過ぎたかもしれない。あるいは単にぼく自身の頭の中が整理しきれていないせいでもあるだろう。今はこんなふうにしかこの問題について言及できない。けれどもこれは切実な問題なのだ。
いよいよぼくは選択しなければならない。