Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

逃亡者の倫理

2013-08-12 23:34:11 | Weblog
真面目な話。

2011年3月、ある批評家が東京を脱出。彼はそこで海外の新聞に日本の希望について書き、最近はダークツーリズム運動を先導している。チェルノブイリや福島を風化させないためのラディカルな手段だ。

あのとき、何人かの知識人が東京から逃亡したという。ぼくはそれを非難しようとは思わない。むしろ、生きることに必死でいる姿は、当時のぼくの目に尊くさえ映った。

しかしながら、どうしても東京から西日本へ移動することができない人たち(例えば病人や障害者、金銭的余裕のない人)に寄り添ってあえて東京に残った人もまた存在していた。

これはその人の価値観の問題であり、生き方の問題だ。だからその是非は問わない。ただ、東京から脱出した人間が、その後ダークツーリズム運動に関与しているのを知るとき、ぼくは違和感を拭うことができない。いや嫌悪感と言ってもいい。もちろん、彼の行為に論理的な破綻はないだろう。このことについて何とも思わない人間も多いだろう。しかし、ぼくは違う。

彼の倫理観、道徳観について思う。いや、ここでぼくは彼を人だとか言って謗るつもりは当然ない。そうではなく、何かを書くとき、彼は内省することがあるのだろうかと、ただ疑問に感じてしまうのだ。あるいはこう言ってもいい。自らの倫理観を文章に反映させているのかと。

そもそも自分の道徳観や倫理観を文章に反映させる必要は全くない。実際、ぼくの論文にはそうした要素は一切ない。ただ論文と批評との違いはその点にこそあるとも感じる。研究論文というのが対象について語るものだとしたら、批評というのは対象を通して自分を語ることではないかと。ぼくの最近の論文は余りに客観的に過ぎ、ぼくという人間の主体性が全く見えてこないらしい。そしてそれは論文として評価されないらしい。このことについてしばらく考えていたけれど、たぶんそのような論文だけがぼくにとっての論文なのだ。ぼくは自ら進んでそのような主体性のない論文を書くことを選んだのだ。なぜかと言えば、ぼくは自分について語り過ぎてしまうから。そしてそれはきっと論文としてまとめることはできないから。

ぼくは自分について語りたい。つまり、自分の倫理観を文章に反映させたい。自分の経験、それを踏まえた認識、思想。そういったものを書き出さなければ、ぼくはある作品について本当に論じることはできない。そうではない批評は、どこか虚しく感じられてしまう。

あくまでこれは「ぼく」の話だ。先の批評家の行為に嫌悪感を抱いてしまうのは、ぼくが「批評」と「倫理」との間に密接な関係を見出しているからだろう。もちろんそんなものは初めから前提されているようなものでは決してない。でもぼくは、批評には「人間性」が必要だと思ってしまう。

ここまで書いてきても、たぶん誤解している人がたくさんいると思う。それは当然ぼくの責任だ。倫理とか道徳とか人間性とか、安易な言葉を使い過ぎたかもしれない。あるいは単にぼく自身の頭の中が整理しきれていないせいでもあるだろう。今はこんなふうにしかこの問題について言及できない。けれどもこれは切実な問題なのだ。

いよいよぼくは選択しなければならない。

こんな授業

2013-08-12 00:16:22 | お仕事・勉強など
暑いな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

備忘録的に。
国語の授業とはいかにあるべきか、という定見は持ち合わせていないぼくではあるけれど、こんな授業もありではないか、という提案を書いてみる。

国語(とりわけ現代文)というのは、もしかしたら細かい受験テクニックのようなものもあるのかもしれないけれど、でも結局のところ生徒がどれほど本を読んでいるか(読んできたか)という経験が成績に反映されるものだと思っています。つまり、日々の授業のみで生徒の国語の学力を上げることは極めて難しい。

本をよく読んでいる生徒には教師が指導する必要はほとんどないのではないかと思われる一方で、本を全く読んだことのないような生徒には指導する術がほとんどないように感じられます。では現代文の教師の目的とは何かと言えば、生徒が自ら本を読むように仕向けることにあると思います。いわゆる自学自習の勧め。

そこで、こんな授業はどうかという提案。
とにかく生徒に日本語の文章を読ませたい。そのためには、まず題材がおもしろくなければいけないでしょう。興味の対象は十人十色でしょうが、でも多くの生徒が食い付きそうなテーマとして、ちょっと安易ですがマンガやアニメを用いたい。どういうふうに用いるかと言えば、最初にマンガを生徒に読ませます。あるいはアニメを上映します。次に、そのマンガないしアニメについて書かれた評論を生徒に読ませます。その評論は長かったり難しかったりしてはいけません。場合によったら映画祭か何かの審査員の短評でもよいと思います。その上で、この評論と自分の意見とを比較するように促してみてはどうでしょうか。「いま自分が読んだ/観た作品に対して、人はどういうことを言っているのだろう」という興味をうまく引き出せたら、文章を読んでくれそうな気がするんですが、いかがなもんでしょうね。ある映画を観たとき、それに対する皆の感想が知りたいっていう気持ちと同じだと思うのです。人によっては他者の感想をむさぼり読むわけです。そういう好奇心を国語の勉強に結び付けられたらなあ、と。

で、どういうマンガやアニメがよいか、という話。ちなみにこの授業は先生自身がそういったものに対して愛着を覚えていた方がやりやすいと思います。
鉄板なのはやはりジブリ作品。作品は奥深いものが多いし、評論の類も非常に多いので。次に映画祭で上映される作品。映画祭の講評目当てです。メディア芸術祭なんかがいいんじゃないかと思います。短編作品はパッケージ化されていないものが多いのが難点ですが。あとメジャーな監督の作品だったら大抵その評論が存在するので、そういうところを攻めるといいと思います。マンガはぼくはよく分からないです。ただ呉智英の『現代マンガの全体像』(及びそこで扱われているマンガ)なんかは使いやすいテキストだと思います。
もちろん、マンガやアニメだけでなく、実写映画でもいいし、音楽でもいい。テレビドラマだっていい。とにかくいきなり文章を読ませるのではなくて、まずはそれ以外のメディアに接触させて、それからそれについて書かれた文章を読ませる。そうすれば、文章を読む際の意欲・モチベーションが違うと思うのです。こうして知的好奇心を刺激して、いわゆる知る楽しさみたいなものを育んでいけたらいいんじゃないかと思うのです。


上記の授業とは別に、もう一つ提案(ってほどのものじゃないけどさ)。
本を読まない生徒っていうのは、この世にはどういう本があるのか、というのを知らないと思います。そこで、やや珍奇な文学作品を読ませてみる、というのはどうでしょう。例えば、ユアグローやハルムスといった作家の超短編。もちろん日本にも超短編を書いている作家はいるし、星新一のショートショートでもいいと思います。殊外国語文学に関しては、日本語で読める評論の少ないのが難点ですが、この点に関しては専門家に協力を求めてもいいと思うのです。中学高校の教師が大学の教師と連絡取り合ったっていいじゃないか。それから、視覚的に訴えてくる詩。ダダイズムの詩などがいいでしょうね。あと、シュルレアリスムの奇怪な絵画を見せて注意を引きつけ、次いでそのメンバーたちの書いた不可解な詩を読ませてみる。「なんじゃこりゃ」で終わってしまう可能性もありますが、絵画と文学の相同性について書かれた評論を読ませてみればおもしろいかもな、なんて。

まあ、教育実習以外では一度も教壇に立ったことのないド素人の妄想に過ぎないのですが、生徒の知的好奇心をいかに引き出すかが重要で、そして知的好奇心は日本語を通して満たされる、という点は正しいんじゃないかと思います。たぶんね。