「生物多様性オフセット」、「生物多様性バンキング」といった用語には馴染みがありませんでしたが、その概念自体はけっこう前から知っていました。
詳しくは↓
http://www.bdcchiba.jp/cooperation/kigyou/100618seminar04.html
今朝の朝日新聞に、里山を守る新しい実験的な取り組みとして紹介されていました。
10年くらい前、里山とか生物多様性とかに関心があって、少しはそれ関連の本も読んだりしていたのですが、近年はそういった分野から遠ざかっていました。でも、興味は完全に失われてしまったわけではありません。
このブログに書いたことがあったかどうか忘れてしまいましたが(たぶん一度は書いていると思うのですが)、10年ほど前にぼくはNPOの森林保全セミナーに参加したり、実際に泊まりがけで林業を体験したり、そして大学を休学するか中退するかして田舎へ移り住む決意を固めていたりしていたのでした。もちろん、この決意は親や大学関係者の説得にあって打ち砕かれ、今に至るわけですが。
しかし、それほど熱心に環境保全活動に情熱を注いでいたのですから、今でもこの手の話題が新聞に載っていたりすると、気になってしまいます。
で、本題。この「生物多様性オフセット」という概念には、ぼくはどうしても違和感を抱いてしまう。要するに、「里山A」を破壊した代償に、「里山B」を復元・保全するという考え方で、これを更に推し進めて、金銭で対価を支払う(その金銭で別の里山を復元・保全してもらう)ことを「生物多様性バンキング」と言うわけですが(不正確な言い方かもしれませんので、詳しくはネットを検索して下さい)、これは本当に法制化すべきなのか。二酸化炭素排出量取引も同様の仕組みなのかもしれませんが、これに対しても反対意見がありましたね。
取材した記者も、「この制度を導入するのは現状からやむを得ない」といった歯切れの悪さを見せていました。もろ手を挙げて賛成というわけではないのです。やはり、何か引っかかる。確かに、「緑の総量」は変わらないかもしれないし、むしろ増えるかもしれない。でも、倫理的な違和感とでも言うべきものに捉われてしまう。
常緑広葉樹を伐採して代わりに針葉樹を植える、といったトンチンカンなことはしないと思いますが、それでも、生態系というのは余りに複雑ですから、別の土地で完全に同じ生態系を再現することが可能なのでしょうか。また、里山というのは「人と自然」とが一体化した様式をそう言うわけで、里山Aが破壊されてしまったら、仮にその生物多様性を里山Bに完全に再現することが可能だったとしても、Aを構成していた一人ひとりの人間たちはどのように「代償」されるのでしょうか。自然に関わってきた人たちの暮らしはいかにして守られるのでしょう。Aの文化がなくなって、Bの土地にAの文化が新しくできるのでしょうか。かつてぼくがある里山を訪れたとき、農家のおじさんに、正月にまた来なさいと言われたことがありました。お餅を御馳走してあげよう、と。そのときぼくはおじさんの田んぼに水をやるのを手伝ったのですが、その稲から米を取り、そしてお餅にするのでしょう。こういった人々の営みは、AからBへと移設されるべきものではありません。絶対に何物にも換えることができない、唯一無二のものです。
しかしぼくの倫理的な違和感の根っこにあるのは、自然そのものの代償不可能性です。人間に代償が効かないように、実は木々や草々も代償が効かないのではないか。仮に生命の目的が種の保存であったとしても、個体というものへの軽視に、違和感を抱いてしまう。木を伐る。代わりに木を植える。なるほど合理的だ。-1+1=0. でも、その伐られた木はもうこの世に存在しないのです。なるほどこれは感傷かもしれません。しかしこの感傷を蹂躙する権利は誰も持っていないはずです。
生物多様性を考える際には、神社やお寺の敷地内にある緑を軽視することはできません。例えば神社をAからBへと移したとしても、意味ないと思うのです。Aで祀られていた神様をBで祀る。ちょっと都合よすぎやしませんか。
大木がある。伐採する。その代わりに別の土地に別の木を植える。ちょっと都合よすぎやしませんか。ぼくはアニミズムを信奉しているわけではないし、木の一本一本、葉の一枚一枚に神が宿っていると真剣に考えたことはありませんが、しかし、「-1+1=0」から零れ落ちてしまうものが余りに多すぎる気がするし、そしてそれこそが大事な気がするのです。
こういう感覚、いや感傷と言ってもいいのかもしれませんが、それは多くの日本人が共有しているのか、それとも少数派のものなのか、ぼくには分かりません。でも「生物多様性オフセット」を法制化してはならないとぼくは思う。里山を守るとは、単に生物多様性を守ることを指すのではありません。そこで生きている人間の暮らし、文化、精神を守ることです。「オフセット」がそれらを守ることができるのか。そもそも、ある地点で生命を殺した代償に別の地点で生命を育めばいいという発想が、ぼくは嫌だ。センチメンタルな嫌悪?いや、倫理的な嫌悪なのです。
詳しくは↓
http://www.bdcchiba.jp/cooperation/kigyou/100618seminar04.html
今朝の朝日新聞に、里山を守る新しい実験的な取り組みとして紹介されていました。
10年くらい前、里山とか生物多様性とかに関心があって、少しはそれ関連の本も読んだりしていたのですが、近年はそういった分野から遠ざかっていました。でも、興味は完全に失われてしまったわけではありません。
このブログに書いたことがあったかどうか忘れてしまいましたが(たぶん一度は書いていると思うのですが)、10年ほど前にぼくはNPOの森林保全セミナーに参加したり、実際に泊まりがけで林業を体験したり、そして大学を休学するか中退するかして田舎へ移り住む決意を固めていたりしていたのでした。もちろん、この決意は親や大学関係者の説得にあって打ち砕かれ、今に至るわけですが。
しかし、それほど熱心に環境保全活動に情熱を注いでいたのですから、今でもこの手の話題が新聞に載っていたりすると、気になってしまいます。
で、本題。この「生物多様性オフセット」という概念には、ぼくはどうしても違和感を抱いてしまう。要するに、「里山A」を破壊した代償に、「里山B」を復元・保全するという考え方で、これを更に推し進めて、金銭で対価を支払う(その金銭で別の里山を復元・保全してもらう)ことを「生物多様性バンキング」と言うわけですが(不正確な言い方かもしれませんので、詳しくはネットを検索して下さい)、これは本当に法制化すべきなのか。二酸化炭素排出量取引も同様の仕組みなのかもしれませんが、これに対しても反対意見がありましたね。
取材した記者も、「この制度を導入するのは現状からやむを得ない」といった歯切れの悪さを見せていました。もろ手を挙げて賛成というわけではないのです。やはり、何か引っかかる。確かに、「緑の総量」は変わらないかもしれないし、むしろ増えるかもしれない。でも、倫理的な違和感とでも言うべきものに捉われてしまう。
常緑広葉樹を伐採して代わりに針葉樹を植える、といったトンチンカンなことはしないと思いますが、それでも、生態系というのは余りに複雑ですから、別の土地で完全に同じ生態系を再現することが可能なのでしょうか。また、里山というのは「人と自然」とが一体化した様式をそう言うわけで、里山Aが破壊されてしまったら、仮にその生物多様性を里山Bに完全に再現することが可能だったとしても、Aを構成していた一人ひとりの人間たちはどのように「代償」されるのでしょうか。自然に関わってきた人たちの暮らしはいかにして守られるのでしょう。Aの文化がなくなって、Bの土地にAの文化が新しくできるのでしょうか。かつてぼくがある里山を訪れたとき、農家のおじさんに、正月にまた来なさいと言われたことがありました。お餅を御馳走してあげよう、と。そのときぼくはおじさんの田んぼに水をやるのを手伝ったのですが、その稲から米を取り、そしてお餅にするのでしょう。こういった人々の営みは、AからBへと移設されるべきものではありません。絶対に何物にも換えることができない、唯一無二のものです。
しかしぼくの倫理的な違和感の根っこにあるのは、自然そのものの代償不可能性です。人間に代償が効かないように、実は木々や草々も代償が効かないのではないか。仮に生命の目的が種の保存であったとしても、個体というものへの軽視に、違和感を抱いてしまう。木を伐る。代わりに木を植える。なるほど合理的だ。-1+1=0. でも、その伐られた木はもうこの世に存在しないのです。なるほどこれは感傷かもしれません。しかしこの感傷を蹂躙する権利は誰も持っていないはずです。
生物多様性を考える際には、神社やお寺の敷地内にある緑を軽視することはできません。例えば神社をAからBへと移したとしても、意味ないと思うのです。Aで祀られていた神様をBで祀る。ちょっと都合よすぎやしませんか。
大木がある。伐採する。その代わりに別の土地に別の木を植える。ちょっと都合よすぎやしませんか。ぼくはアニミズムを信奉しているわけではないし、木の一本一本、葉の一枚一枚に神が宿っていると真剣に考えたことはありませんが、しかし、「-1+1=0」から零れ落ちてしまうものが余りに多すぎる気がするし、そしてそれこそが大事な気がするのです。
こういう感覚、いや感傷と言ってもいいのかもしれませんが、それは多くの日本人が共有しているのか、それとも少数派のものなのか、ぼくには分かりません。でも「生物多様性オフセット」を法制化してはならないとぼくは思う。里山を守るとは、単に生物多様性を守ることを指すのではありません。そこで生きている人間の暮らし、文化、精神を守ることです。「オフセット」がそれらを守ることができるのか。そもそも、ある地点で生命を殺した代償に別の地点で生命を育めばいいという発想が、ぼくは嫌だ。センチメンタルな嫌悪?いや、倫理的な嫌悪なのです。