暑いな。
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備忘録的に。
国語の授業とはいかにあるべきか、という定見は持ち合わせていないぼくではあるけれど、こんな授業もありではないか、という提案を書いてみる。
国語(とりわけ現代文)というのは、もしかしたら細かい受験テクニックのようなものもあるのかもしれないけれど、でも結局のところ生徒がどれほど本を読んでいるか(読んできたか)という経験が成績に反映されるものだと思っています。つまり、日々の授業のみで生徒の国語の学力を上げることは極めて難しい。
本をよく読んでいる生徒には教師が指導する必要はほとんどないのではないかと思われる一方で、本を全く読んだことのないような生徒には指導する術がほとんどないように感じられます。では現代文の教師の目的とは何かと言えば、生徒が自ら本を読むように仕向けることにあると思います。いわゆる自学自習の勧め。
そこで、こんな授業はどうかという提案。
とにかく生徒に日本語の文章を読ませたい。そのためには、まず題材がおもしろくなければいけないでしょう。興味の対象は十人十色でしょうが、でも多くの生徒が食い付きそうなテーマとして、ちょっと安易ですがマンガやアニメを用いたい。どういうふうに用いるかと言えば、最初にマンガを生徒に読ませます。あるいはアニメを上映します。次に、そのマンガないしアニメについて書かれた評論を生徒に読ませます。その評論は長かったり難しかったりしてはいけません。場合によったら映画祭か何かの審査員の短評でもよいと思います。その上で、この評論と自分の意見とを比較するように促してみてはどうでしょうか。「いま自分が読んだ/観た作品に対して、人はどういうことを言っているのだろう」という興味をうまく引き出せたら、文章を読んでくれそうな気がするんですが、いかがなもんでしょうね。ある映画を観たとき、それに対する皆の感想が知りたいっていう気持ちと同じだと思うのです。人によっては他者の感想をむさぼり読むわけです。そういう好奇心を国語の勉強に結び付けられたらなあ、と。
で、どういうマンガやアニメがよいか、という話。ちなみにこの授業は先生自身がそういったものに対して愛着を覚えていた方がやりやすいと思います。
鉄板なのはやはりジブリ作品。作品は奥深いものが多いし、評論の類も非常に多いので。次に映画祭で上映される作品。映画祭の講評目当てです。メディア芸術祭なんかがいいんじゃないかと思います。短編作品はパッケージ化されていないものが多いのが難点ですが。あとメジャーな監督の作品だったら大抵その評論が存在するので、そういうところを攻めるといいと思います。マンガはぼくはよく分からないです。ただ呉智英の『現代マンガの全体像』(及びそこで扱われているマンガ)なんかは使いやすいテキストだと思います。
もちろん、マンガやアニメだけでなく、実写映画でもいいし、音楽でもいい。テレビドラマだっていい。とにかくいきなり文章を読ませるのではなくて、まずはそれ以外のメディアに接触させて、それからそれについて書かれた文章を読ませる。そうすれば、文章を読む際の意欲・モチベーションが違うと思うのです。こうして知的好奇心を刺激して、いわゆる知る楽しさみたいなものを育んでいけたらいいんじゃないかと思うのです。
上記の授業とは別に、もう一つ提案(ってほどのものじゃないけどさ)。
本を読まない生徒っていうのは、この世にはどういう本があるのか、というのを知らないと思います。そこで、やや珍奇な文学作品を読ませてみる、というのはどうでしょう。例えば、ユアグローやハルムスといった作家の超短編。もちろん日本にも超短編を書いている作家はいるし、星新一のショートショートでもいいと思います。殊外国語文学に関しては、日本語で読める評論の少ないのが難点ですが、この点に関しては専門家に協力を求めてもいいと思うのです。中学高校の教師が大学の教師と連絡取り合ったっていいじゃないか。それから、視覚的に訴えてくる詩。ダダイズムの詩などがいいでしょうね。あと、シュルレアリスムの奇怪な絵画を見せて注意を引きつけ、次いでそのメンバーたちの書いた不可解な詩を読ませてみる。「なんじゃこりゃ」で終わってしまう可能性もありますが、絵画と文学の相同性について書かれた評論を読ませてみればおもしろいかもな、なんて。
まあ、教育実習以外では一度も教壇に立ったことのないド素人の妄想に過ぎないのですが、生徒の知的好奇心をいかに引き出すかが重要で、そして知的好奇心は日本語を通して満たされる、という点は正しいんじゃないかと思います。たぶんね。
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備忘録的に。
国語の授業とはいかにあるべきか、という定見は持ち合わせていないぼくではあるけれど、こんな授業もありではないか、という提案を書いてみる。
国語(とりわけ現代文)というのは、もしかしたら細かい受験テクニックのようなものもあるのかもしれないけれど、でも結局のところ生徒がどれほど本を読んでいるか(読んできたか)という経験が成績に反映されるものだと思っています。つまり、日々の授業のみで生徒の国語の学力を上げることは極めて難しい。
本をよく読んでいる生徒には教師が指導する必要はほとんどないのではないかと思われる一方で、本を全く読んだことのないような生徒には指導する術がほとんどないように感じられます。では現代文の教師の目的とは何かと言えば、生徒が自ら本を読むように仕向けることにあると思います。いわゆる自学自習の勧め。
そこで、こんな授業はどうかという提案。
とにかく生徒に日本語の文章を読ませたい。そのためには、まず題材がおもしろくなければいけないでしょう。興味の対象は十人十色でしょうが、でも多くの生徒が食い付きそうなテーマとして、ちょっと安易ですがマンガやアニメを用いたい。どういうふうに用いるかと言えば、最初にマンガを生徒に読ませます。あるいはアニメを上映します。次に、そのマンガないしアニメについて書かれた評論を生徒に読ませます。その評論は長かったり難しかったりしてはいけません。場合によったら映画祭か何かの審査員の短評でもよいと思います。その上で、この評論と自分の意見とを比較するように促してみてはどうでしょうか。「いま自分が読んだ/観た作品に対して、人はどういうことを言っているのだろう」という興味をうまく引き出せたら、文章を読んでくれそうな気がするんですが、いかがなもんでしょうね。ある映画を観たとき、それに対する皆の感想が知りたいっていう気持ちと同じだと思うのです。人によっては他者の感想をむさぼり読むわけです。そういう好奇心を国語の勉強に結び付けられたらなあ、と。
で、どういうマンガやアニメがよいか、という話。ちなみにこの授業は先生自身がそういったものに対して愛着を覚えていた方がやりやすいと思います。
鉄板なのはやはりジブリ作品。作品は奥深いものが多いし、評論の類も非常に多いので。次に映画祭で上映される作品。映画祭の講評目当てです。メディア芸術祭なんかがいいんじゃないかと思います。短編作品はパッケージ化されていないものが多いのが難点ですが。あとメジャーな監督の作品だったら大抵その評論が存在するので、そういうところを攻めるといいと思います。マンガはぼくはよく分からないです。ただ呉智英の『現代マンガの全体像』(及びそこで扱われているマンガ)なんかは使いやすいテキストだと思います。
もちろん、マンガやアニメだけでなく、実写映画でもいいし、音楽でもいい。テレビドラマだっていい。とにかくいきなり文章を読ませるのではなくて、まずはそれ以外のメディアに接触させて、それからそれについて書かれた文章を読ませる。そうすれば、文章を読む際の意欲・モチベーションが違うと思うのです。こうして知的好奇心を刺激して、いわゆる知る楽しさみたいなものを育んでいけたらいいんじゃないかと思うのです。
上記の授業とは別に、もう一つ提案(ってほどのものじゃないけどさ)。
本を読まない生徒っていうのは、この世にはどういう本があるのか、というのを知らないと思います。そこで、やや珍奇な文学作品を読ませてみる、というのはどうでしょう。例えば、ユアグローやハルムスといった作家の超短編。もちろん日本にも超短編を書いている作家はいるし、星新一のショートショートでもいいと思います。殊外国語文学に関しては、日本語で読める評論の少ないのが難点ですが、この点に関しては専門家に協力を求めてもいいと思うのです。中学高校の教師が大学の教師と連絡取り合ったっていいじゃないか。それから、視覚的に訴えてくる詩。ダダイズムの詩などがいいでしょうね。あと、シュルレアリスムの奇怪な絵画を見せて注意を引きつけ、次いでそのメンバーたちの書いた不可解な詩を読ませてみる。「なんじゃこりゃ」で終わってしまう可能性もありますが、絵画と文学の相同性について書かれた評論を読ませてみればおもしろいかもな、なんて。
まあ、教育実習以外では一度も教壇に立ったことのないド素人の妄想に過ぎないのですが、生徒の知的好奇心をいかに引き出すかが重要で、そして知的好奇心は日本語を通して満たされる、という点は正しいんじゃないかと思います。たぶんね。
善悪の判断や同情,共感といったことを伝えるのは簡単なのですが,美的な判断や歴史的意味を伝えるのはなかなか難しくて,「趣味の押しつけ」とみなされてしまったりもします。
世間にあまり知られていない作品も,やはり「個人的趣味の押しつけ」として拒まれます。ドストエフスキーやトルストイの話をしても,「文学は趣味の問題だから学校で扱うべきでない」などと言われてしまったりするのですが。
偏差値の高くない生徒の中には、本どころかテストの問題文すら読まない人がいる、という話を聞きました。つまり、文章を全く読まない。そして自分で考えようとしない。そういう生徒たちにどうやって読解力や思考力を身に付けさせるかといえば、まずはやはり何かの文章を読ませることだと思うのです。そしてそのために、そこで書かれている対象について興味を持ってもらうことが大切だと思います。その対象というのは、例えばアニメーションであり、マンガであり、絵画であり、音楽であったりします。ここで言う評論というのは、したがって抽象的な言説を弄する類のものではなく、作品に即した言説、ある種の解説文のことです。もっと言えば誰かの感想文でもいいと思います。
つまり、美的な判断を下すように生徒に促すのではなく、文章を通してただ共感を促したいのです。あるいは逆に反発を引き起こしたいのです。何かを鑑賞して興味をそそられる。それからそれについて書かれた文章を読んで、共感/反発する。文章を通して知的好奇心が満たされるということ、あるいはより渇望すること。そういう経験をしてもらいたいなあと思います。
現場のことは分かりませんが、個人的趣味を押し出して何が悪いのだろうと不思議に感じます。文学=趣味=不要という主張には、何とか抗う必要があるのではないでしょうか(自分にそれが可能かどうかは分かりませんが)。
「趣味」がダメなのは、それが実社会で役に立たないことを、学生が知っているからです。日本は「ムラ社会」ですから、みんなと違うことをすると嫌われるでしょ。誰も本を読まない田舎の会社では、本を読むと嫌われます。
もうひとつの理由は、教師の「正しい答え」に違和感を覚えてもそれを表明できない、という経験を繰り返してきた学生が多いからだと思います。国防のためには憲法9条は改正した方がいいとか、反日運動をする中国人や韓国人は悪い奴だとか、そういうことを左翼系の教師に言っても否定されるだけですよね。答えの「押しつけ」は嫌だ、というのは多くの学生に共通する感情で、私はそういう愚痴をウンウンと聞くようにしています。
本題とはズレますが、この点は常に意識しています。少年時代に味わった不条理や無力感を、当時の自分は適切な形で表現することができませんでした。そのときの不満や遣る瀬無さ、怒りを今大切にしたいと思っています。
ただ、自分の中の少年を大切に思うあまり、ぼくは未だに大人に成り切ることができません。ここにこそぼくの苦悩があり、同時に矜持があります。歳をくっても子どものままでは、詩人でもない限り憐れなだけだと自覚しているのですが・・・。
なんか本当に関係ない話になってしまいました。