ということについて、最近は考えるようになりました。
やはり外国語の運用能力はネイティヴには敵わないし、文化的な知識も本場の人々に匹敵するところまで行くのは相当難しいと思われます。また、資料の手に入りやすさも雲泥の差でしょう。ということは、日本人が外国文学を研究する意味って一体なんなのか。
沼野充義先生は、日本の文化的土台の上に外国文学という他者を受け入れるその過程にこそ意味はある、と書いていますが、しかし、日本人の研究者にとって意味があったとしても、比較研究以外の分野では、外国文学の世界規模の発展に日本人は貢献できないのではないか、と悲観的な気持ちになります。外国でも認められるようにがんばっている研究者もいるそうですが、かなり飛びぬけた能力がなければ評価されるのは厳しいのではないでしょうか。でもそういう優秀な人は、いいのです。普通の研究者はどうすればいいのでしょうか。皆が皆、外国語で論文を書いて、外国語で学会発表して、というようになるとは思えません。外国の学会では外国語で発表せざるを得ませんが、日本にいるのにわざわざ外国語で論文を書いて、それを外国の雑誌に投稿して、という作業を長年続けるのは相当ストレスが溜まるでしょう。でも、そうしなければ外では認められないはずです。
日本人は切り口の鋭さで勝負、なんて単純な問題ではありません。そういうことができるのはほんの一部の研究者だけです。資料を駆使したいタイプの人はどうすればいいのでしょう。大変な努力と時間を捧げなければ、ネイティヴの足元にも及びません。いや、結局のところ、出来上がった論文は日本人のものの方が優れている、ということは大いにありうる話ですが、しかしせっかくの論文も、外国人が見てくれなければ話になりません。彼らは英語と違って日本語ができないですからね。
日本人にとって、外国における文学研究を吸収して、それを一般の人に広めるのが今のところ一番似合いの仕事のような気がしてしまいます。そうすれば、いずれ若い人がその紹介を読んでくれて、世界で活躍するような立派な研究者に育ってくれるかもしれません。将来、日本の外国語教育もましになって、外国語で活躍できる人が増えていたら、そういう研究者たちは世界に羽ばたくことができるでしょう。でも、未来への踏み台になるのが嫌な人たちは、どうすれば・・・そういう人たちは、必死に外国語で論文を書いて、海外に自分をアピールするしか道はないのかも。
ちなみに。ぼくが今やっている作家は、日本では研究書が一冊も出ていない人なのですが(論文は数本ある)、修士論文の内容っていうのは、残念ながら欧米の10年以上前の水準に留まっているのではないか、と悲観していました。しかし、今日、2008年にロシアで出た本を読んでいたら、同じような主張が書かれている…。ああじゃあ一応この修士論文も今日性はあるんだ、とほっとしたのも束の間、同じ主張じゃしょうがねえな、ともがっくりくるのでした。しかしぼくの論文の方が、この本で挙げられているモチーフを有機的に結び付けてますけどね、と鼻を高くしてみる。いやまあ、それも疑わしいもんですけどね・・・
やはり外国語の運用能力はネイティヴには敵わないし、文化的な知識も本場の人々に匹敵するところまで行くのは相当難しいと思われます。また、資料の手に入りやすさも雲泥の差でしょう。ということは、日本人が外国文学を研究する意味って一体なんなのか。
沼野充義先生は、日本の文化的土台の上に外国文学という他者を受け入れるその過程にこそ意味はある、と書いていますが、しかし、日本人の研究者にとって意味があったとしても、比較研究以外の分野では、外国文学の世界規模の発展に日本人は貢献できないのではないか、と悲観的な気持ちになります。外国でも認められるようにがんばっている研究者もいるそうですが、かなり飛びぬけた能力がなければ評価されるのは厳しいのではないでしょうか。でもそういう優秀な人は、いいのです。普通の研究者はどうすればいいのでしょうか。皆が皆、外国語で論文を書いて、外国語で学会発表して、というようになるとは思えません。外国の学会では外国語で発表せざるを得ませんが、日本にいるのにわざわざ外国語で論文を書いて、それを外国の雑誌に投稿して、という作業を長年続けるのは相当ストレスが溜まるでしょう。でも、そうしなければ外では認められないはずです。
日本人は切り口の鋭さで勝負、なんて単純な問題ではありません。そういうことができるのはほんの一部の研究者だけです。資料を駆使したいタイプの人はどうすればいいのでしょう。大変な努力と時間を捧げなければ、ネイティヴの足元にも及びません。いや、結局のところ、出来上がった論文は日本人のものの方が優れている、ということは大いにありうる話ですが、しかしせっかくの論文も、外国人が見てくれなければ話になりません。彼らは英語と違って日本語ができないですからね。
日本人にとって、外国における文学研究を吸収して、それを一般の人に広めるのが今のところ一番似合いの仕事のような気がしてしまいます。そうすれば、いずれ若い人がその紹介を読んでくれて、世界で活躍するような立派な研究者に育ってくれるかもしれません。将来、日本の外国語教育もましになって、外国語で活躍できる人が増えていたら、そういう研究者たちは世界に羽ばたくことができるでしょう。でも、未来への踏み台になるのが嫌な人たちは、どうすれば・・・そういう人たちは、必死に外国語で論文を書いて、海外に自分をアピールするしか道はないのかも。
ちなみに。ぼくが今やっている作家は、日本では研究書が一冊も出ていない人なのですが(論文は数本ある)、修士論文の内容っていうのは、残念ながら欧米の10年以上前の水準に留まっているのではないか、と悲観していました。しかし、今日、2008年にロシアで出た本を読んでいたら、同じような主張が書かれている…。ああじゃあ一応この修士論文も今日性はあるんだ、とほっとしたのも束の間、同じ主張じゃしょうがねえな、ともがっくりくるのでした。しかしぼくの論文の方が、この本で挙げられているモチーフを有機的に結び付けてますけどね、と鼻を高くしてみる。いやまあ、それも疑わしいもんですけどね・・・