Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

On Your Mark

2009-11-05 23:34:11 | アニメーション
『On Your Mark』について。
もちろん宮崎駿監督の短編アニメーション。
この作品はほとんど注目されることがないですけど、個人的には好きな作品だし、またファンもどうやら多いようです。

観たことはあるけどどんな話だかよく分からない、という人が意外といるのではないかと思いますが、要するに、二人の警官(チャゲと飛鳥)が「翼の生えた少女」を救出して、外の世界に解き放つ、という物語です。ただ、それだけの話ですが、映画のちょっと分かりにくい構造ゆえに、一度観ただけでは理解しづらくなっています。それはどういうところかというと、歌詞のリフレインと共に、場面もリフレインされるところです。全編に「On Your Mark」という歌が流れていて台詞が一切ない作品ですが、ある場面で、その歌詞がリフレインします。そうすると、場面が巻き戻り、また新しい場面として再生するのです。しかも、先ほどとは異なる仕方で。

このようにして、少女の救出に失敗したはずの二人の警官は、再生を遂げることによって見事に追っ手から逃れます。このことから、この作品のテーマは「再生」であり、何があっても未来は変えられるんだ、というメッセージ性を読み取る人もいます。

この作品は「未来」が舞台になっています。そこでは怪しげな宗教団体が幅を利かせており、自然界は放射能汚染で放棄されているため、完全な人工都市で人々は暮らしています。それにしても、台詞のない6分40秒の映画でどうしてこれだけの情報が得られるのか?実は、自然界が放射能汚染されている、というのは観客の側の推測に過ぎません。しかしながら、それは恐らく正しい。というのも、明らかにチェルノブイリを想定して描かれた自然界だからです。ロシア語の看板が立っており、そこにはたしか「危険」とかそういう文字が書かれていたと記憶しています(「立ち入り禁止」とかそういう文字だったかもしれません)。核施設の残骸のような重々しい建物や、外の世界(自然界)へ出ることを禁じられている都市、といった背景から、われわれはこの映画の舞台を想像することができます。

ラスト、警官たちは少女を空に解き放ちますが、そこは青々とした大地であり、人工都市の喧騒とは無縁の世界でした。まるで「ナウシカ」ではないですか。汚染された後に自然自らの力によって浄化される世界。いや、この世界はまだ浄化されてはおらず、放射能にいまだ汚染されているのかもしれません。そうすると、少女の体への影響、もう都市へは戻れないかもしれない警官たちの健康はどうなるのか、ということが気になります。

音楽は終わった。もうリフレインはありません。彼らは汚染された大地でこれからどうやって生き抜いてゆくのか。そのような世界にだってやり直しはきく、「再生」はあるのだと、誰かは力強く説得するかもしれません。でも、二重の回答を提示するラストのようにぼくには思われます。これは絶望の物語なのか、それとも希望の?

この作品は結局のところ、汚染された大地の上でも生きていかなければならない、という宮崎駿の未来の人々へ向けた手紙であるのかもしれません。あれが既に浄化された世界であればいいのですが…。そうすると、皮肉なものですね、人間たちはそのことを知らずに都市でせめぎあいながら生きている。けれどもそう簡単に自然は浄化されないのですが。

旅行時の自分

2009-11-05 02:31:08 | Weblog
きのうウィキペディアがどうのこうのと書きましたが、レポートや論文の参考文献に挙げなければ、他の用途であれば、別に大いに使って然るべきですよね。便利だし。言わずもがなですが…

さて、小学校の移動教室やら林間学校での思い出・第二弾。
毎年、大学の研究室で合宿があるのですが、ぼくは色々な理由から参加してません。けど、旅行自体はけっこう好きです。昔は一人で山に行って森林ボランティアに参加したりしてました。もちろん、小学校時代は林間学校に行ったし、中学時代には修学旅行は当然ですが、塾の合宿にも参加しました。当たり前と言えば当たり前ですが。で、今日は小学校の林間学校での思い出から。

軽井沢へ行ったのですが、小学校時代を通じてたぶん一番楽しかったです。散策したり、肝試ししたり、リンゴもぎ(と言うのか?)をしたり。
ところでぼくは学校では品行方正で通っており(たぶん)、しっかり者として接せられることが多かったのですが、こんなふうにクラスメイトと旅行に行くと、家での普段の振る舞いをどうしても気付かれてしまいます。で、どうやらぼくはかなり変らしいのですよ。今でもそう指摘されることがありますが、当時はかなり驚かれました。自分では随分まともな人間だと自負していますけどね。

自分で自分が変な奴だと公言する人は信用が置けない気がしますが、ぼくは自分ではまともだと思っています。友人が言うのです。けれど、ぼくのこの「変わったところ」のおかげで、林間学校では仲良くなれた人がいました。そのときは大して気にならなかったのですが、その人とはそれから急接近し、中学の頃は、随分心を通わすことができました。まあ、結局、色々あって中学を卒業した後は会っていないですけどね。でも、その人と仲良くできたことはとても素敵な思い出(という言葉は使いたくないけど)なので、人とちょっと違ったところがある、というのはいいことなのかもしれません。

旅行に行くと、素の部分が容易に露わになるので、友達と行くのはきっと楽しいですよ。

そういえば、今思い出しましたけど、中学のときの合宿で、ぼくは最初はしっかり者だと思われていたのですが、最終日にぼくらの部屋にタオルが置き忘れられているのが見つかったとき、真っ先に疑われたのはぼくでした。数日間で印象が変わってしまったらしい。

まあそれはそれとして、栃木あたりにちょっくら行ってみたい気がしますね。でも今は昔と違うからなあ。外でのスタイルってものがあるし、なかなか素の部分は見せないかもしれないですね。

それにしても、どこが変なんだろうなあ。床に座ると、じっと座っていられなくて、いつも体をぐるぐる回しているところが変だ、とはある人の意見ですが、それって変ですかね。一種の貧乏揺すりみたいなもんじゃないかな。体全身を使った…
実を言うとぼくはちょっとおかしな人間でいたいと思っているのですが、しかしどう考えても自分が普通であるように思われることが悩みでもあるのです。人が言うように本当に変であればいいのですが、しかし体をぐるぐる回しているから変だ、というのはぼくの想定している「変」とはだいぶ違うんだよなあ。

なんていうか、下らないことをぐだぐだ書いてしまった…