けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「分かる奴だけ、分かればいい」、現代版のお伽噺

2013-09-25 23:55:21 | 日記
今日はドラマのお話である。今更の話題なのであるが、NHKの朝ドラの「あまちゃん」のお話である。

最近はドラマの視聴率の高さが話題になっている。「あまちゃん」以上に高視聴率なのは「半沢直樹」の方で、先日の半沢直樹の最終回では「家政婦のミタ」を超えて関東では42.2%であったという。この最終回を見て何とも不完全燃焼を感じたのだが、原作では既に続編が存在しており、原作者がドラマ終了後に「原作通りでしたね」とコメントをしていたことからも分かる通り、予定通りのシリーズ化ということなのだろう。しかし続編の原作に関しては、(私は読んでいないので)Amazonの書評を読む限りではこれまた素晴らしいお話らしい。「前作の2作品はまさに3作目のための布石のようだ・・・」という趣旨のコメントを読むと、学生時代に読んで感動した三浦綾子の「続・氷点」を思い出した。映画化、ドラマ化されて有名な「氷点」の続編であるが、「氷点」を読んだ時のワクワクしたストーリー展開に対し、「続・氷点」を読んだ後の感想は「作者は『続・氷点』を書きたくてその導入として『氷点』を書いたのでは・・・」というものであった。本を読みながら涙で目が潤み、心の中の汚れたものが流されていく様な感覚に浸ったことを覚えている。

まあ、こちらのお話は将来のお楽しみとして、今日のメインの話題は「あまちゃん」である。ストーリは今更説明するまでもないので省略するが、あと15分×3話で最終回を迎える。言うまでもないが、ひとつ前の朝ドラ「純と愛」とは対極的なドラマである。我が家では、嫁さんと子供が両番組ともハマっていたが、私は「純と愛」を見ていると笑いながらも居た堪れない気持ちになった。朝も早くから、「よくもそこまでやってくれるなぁ~」と言う程、不幸に不幸が重なり、這いつくばって立ち上がると、更に次なる不幸が襲い来る。最後だけはハッピーエンドかと思いきや、最後の最後まで視聴者を裏切って不幸の爆弾を投げつけられた感じだった。それが「あまちゃん」では真逆であり、どんなに逆境になっても何故か自然と切り抜けて、気が付くと歯車がうまく回っている。こう書くと短絡的なストーリーの様に思えるが、その歯車の回り方が極めて自然だから、違和感なく無茶な展開にもすんなりついていける。脚本の工藤官九郎氏のセンスの良さには脱帽である。

しかし、そんな手放しで底抜けに楽しい「あまちゃん」ではあるが、見ている人は誰でも気が付くように、「あまちゃん」の中にも如何にも不自然な「純と愛」と同様の理不尽な不幸が存在する。それが初代ミス北鉄のユイちゃんである。安心して見ていられる「あまちゃん」の中で、唯一、ユイちゃんだけには安心して見ていられない貧乏神の影が付きまとう。如何にもひとりだけ不自然で不公平なストーリー展開である。しかし、東京に上京する電車(北鉄)のトンネルの中で東日本大震災に合い、目の前に続くはずのレールが無くなっている地震の被害を目の当たりにし、何度目かの東京への道を絶たれたユイちゃんのエピソードを見て分かった様な気がした。それは、この朝ドラのテーマは「再生」であるということである。壊れた海女カフェの復活など、震災からの復興は当然であるが、最大のテーマはユイちゃんの「再生」である。多分、明日か明後日かには、ユイちゃんの「再生」を目の当たりにすることができるだろう。そして今日のお話は、鈴鹿ひろ美こと薬師丸ひろ子の「再生」のお話であった。そして同時に、天野春子こと小泉今日子の若かりし頃の幽霊?の「再生」でもあった。言い出すとキリがないが、ここ最近は登場人物が次から次へと「再生」していく。無理をして背伸びする訳でもなく、誰かに一方的に助けられる訳でもなく、皆が何となくまとまって気が付くと歯車がうまく回り出して「再生」がなされる。

言ってみれば、現代版のお伽噺である。生きていく中で壁にぶつかり、一旦は諦め、それでも諦めきれずに再度立ち向かって「再生」していく。あまりにも野暮なので言いたくはないが、日本経済も今が「再生」の最中である。明日は今日よりも良い日が訪れるという期待を無意識のうちに持ち続けられる、そんな「再生」が叶う現代版のお伽噺として「あまちゃん」は何とも心地良いのである。

最後にどうでもよい話だが、漁協の事務員の花巻さんの言葉、「分かる奴だけ、分かればいい」が何ともイイ。これも「分かる奴だけ、分かればいい」話であるのだが・・・。

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