高知ファンクラブ

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」・・・土佐の高知にありがとう(Ⅹ)博士号

2017-06-08 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」ほか

土佐の高知にありがとう(Ⅹ)博士号      

 No.180、高知ファンクラブ、5(2017)

 ちえ子と結婚してから(1962)、3年間の作行会給付金(1966~1969)、工学博士の学位取得(1969)、助教授に昇進(1969)、米国のスタンフォード大学への留学(1974~1975)と順調に歩みだしていた。

工学博士と助教授          (記:2001/7/1)

  婚約の時、ちえ子さんのご両親には「大学の助手の身分は不安定です。助教授になれるとは思わないで下さい」と申し上げました。ドイツ語会話のクラスの日以外は、ほとんど定時に帰宅していました。躍り上がるような研究テーマに出会っていませんでした。週末にはザックを担いで山へ出かけました。後日、私が助教授に昇任した時、ちえ子が言ったことは「難しい本は何時も読んでいたし、ドイツ語は一生懸命やっていた。でも、貴方が助教授になるとは思っても見なかった」でした。

 講座の教授が田中実先生に代わりました。面白いテーマに遭遇しました。実験で遅くなる日が多くなりました。徹夜も当たり前になってきました。やる気が出てきました。山に行く回数が次第に減ってきました。昼休みもテニスコートへ出なくなります。

 丁度、大学紛争の兆しが出た頃です。研究は大きく進展しました。学位が取れそうになりました。論文のまとめの段階では、ちえ子に筆耕を頼みました。学位論文の半分以上は彼女の筆跡です。「マルテンサイト変態」、「時効硬化性」、「平衡状態図」など、ちえ子は専門用語を覚えてしまいました。リコピーという複写機が出た頃です。手元に残した論文のコピーは読めない位に色あせています。

 学位記を学長から頂く日、学生が正門にバリケードを構築しました。学生から身分証明書の提示を求められます。教授・助教授は学内に入れて貰えません。「今日は御覧の状態です。後日、学位授与式を行う予定です。それまで待ちますか、それとも今にしますか」と担当の事務職員に聞かれます。「もちろん、今です」と答えます。儀式を型通りに行って、学長代理としての彼から学位記を頂きました。その後、彼には頭上がりません。「私が鈴木先生に学位を授与した」と誇りにして呉れました。

 学位を頂いた後、学外で開催された教授会で助教授への昇任が決まりました。機動隊を導入しての、座り込み学生の排除とバリケードの撤去に踏み切ったときは、若手教員としての体力を買われて先兵となりました。複雑な心境でした。

 そして、憧れのドイツではなく、アメリカへ留学するチャンスが与えられました。諸先輩のご指導を頂き、優秀な沢山の後輩に支えられ、歳を重ねて教授になりました。その時のちえ子の言ったことは「貴方が教授になるなど、思っても見なかった」でした。

日本金属学会ハワイ大会         (記:2001/12/29)

  2001・9・11に、世界貿易センタービルの崩れ去る映像をテレビで見たとき、二つのことが脳裏を過りました。一つは、何故あのような崩れ方をするのだろうか、という鉄鋼材料屋としての疑問、二つ目は、12月中旬にハワイで開催予定の「第4回先進材料環太平洋国際会議」は中止せざるを得ないとの予感でした.送られてきた中止決定の組織委員会の議事録はその苦悩の様子を伝えています。かってのハワイでの講演大会開催の苦労を思い出します。

 1996年12月中旬、日本金属学会が始めて海外で、ハワイで秋季講演大会を開催したことを思い出します。北海道大学での任期の最後の年でもあり、またこの年に日本金属学会会長に選出されていました。組織委員長として準備を進めてきた鈴木に全責任を持たせようと考えたのでしょう。ヒルトン・ハワイアン・ビレッジを会場として開かれたハワイ大会は、日本、中国、韓国、アメリカなど10数か国から800人を超える参加者を得て、大変有意義で楽しい大会になりました。何よりも大きな思い出は、ちえ子が会長主催の幾つものパーティーで見事にホステス役を務めてくれたことです。

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」高知ファンクラブに掲載 2017年~

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2016年~現在に至る)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2012年~2015年

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次のつづき(2008年~2011年)

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 目次(2002~2007年 )



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