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ラテンアメリカの独立

2016年12月14日 | 社会

ラテンアメリカとは、ラテン民族のスペインやポルトガルが支配した中南米やカリブ海地域のことである。その呼称は19世紀半ばにメキシコを侵略したフランスが使い始め、その後中南米の一般的な呼び名になった。

 コロンブスの新大陸発見以来、カリブ海はスペインが支配していた。17世紀に入るとスペインが放置したジャマイカやバルバドスなどにオランダやイギリス、フランスが侵入してきた。彼らは黒人奴隷を使った大規模な砂糖プランテーションを建設し、ばく大な利益を上げた。

 18世紀になるとスペイン継承戦争が起こり、スペインの支配力は更に低下した。1780年、ペルーでインカ皇帝の子孫トゥパク・アマルー2世(本名コンドルカンキ)が大規模な反乱を起こした。反乱軍はクスコに迫る勢いだったが、体勢を立て直したスペイン軍に鎮圧された。コンドルカンキは馬に引かれる八つ裂きの刑で処刑された。この反乱は5ヶ月で鎮圧されたが、スペイン植民地政府の威信は大きく揺らぎ、各地で反乱が起こった。また、アメリカ独立戦争フランス革命に影響され、独立の気運が高まっていった。

ラテンアメリカの独立

19世紀初頭、フランス革命の影響がおよんだことと、本国スペインがナポレオンに征服されたことを機に中南米地域の独立運動が活発となり、1804年のハイチを皮切りに、20年代に次々と独立を達成した。その動きはヨーロッパのウィーン体制を揺るがすこととなった。

 スペインによる植民地支配は、インディオ人口の急激な減少、アフリカからの大量の黒人奴隷の移入と言った過去に例のない変動を新大陸にもたらした。原住民であるインディオはスペインの武力支配の下で、労働力として強制的に労働させられ、その不満は強まっていった。1780年にはペルーにおいて、最初のインディオの反乱であるトゥパク=アマルの反乱が起こっているが、この反乱はスペイン軍によって鎮圧された。1791年、エスパニョーラ島西部のフランス植民地サンドマングでトゥサン=ルベルチュールの指導する黒人暴動が起こった。これらのインディオや黒人の反乱に危機感を抱いたのが、支配層であった現地生まれの白人であるクリオーリョであった。クリオーリョは本国政府に代わって直接的な支配を現地で確立するには、独立の道を選ぶしかないと考えるようになった。彼らにとって参考になったのが、北アメリカ大陸における1776年のアメリカ独立革命であった。
 さらに、フランス革命によって自由・平等の理念が実現したこと、ナポレオンスペイン征服(1808年)によって、ラテンアメリカに独立の気運が高まった。ヨーロッパ本国の動きは約2ヶ月遅れでラテンアメリカの植民地にもたらされていた。

独立運動の開始

 最初に独立を達成したのは1804年、トゥサン=ルベルチュールの指導した黒人国家のハイチであったが、それ以後は現地生まれの白人であるクリオーリョが主体となって、1808年のメキシコイダルゴの蜂起などが続き、1810年代から20年代にかけて中南米諸国が一斉に独立を達成していった。

サン=マルティンとシモン=ボリバル

 1811年には南米大陸で最も早くパラグアイが独立宣言、1814年にはアルゼンチンが続いた。その独立戦争を戦ったクリオーリョのサン=マルティンは、大遠征を敢行、アンデスを越えて1818年にチリ独立を達成した。
 そのような中で、同じくクリオーリョ出身のシモン=ボリバルの「大コロンビア」構想のようなラテンアメリカの統合の動きがあったことは注目されるが、結果的に地域対立を克服することができず、群小国家の分立という形になった。また独立後も複雑な人種的身分制社会を抱え、産業の未発達もあって貧富の差が大きく、独裁権力が出現したりクーデターが相次ぐなどが政治的不安定が続いた。キューバなどハイチ以外のカリブ海諸国の独立は遅れ、20世紀にずれこむ。

あいつぐ独立

 ラテンアメリカでの独立運動は、本国スペインで1820年から23年にかけて、スペイン立憲革命が起こり、自由主義改革が一時的に成功したことを受けて、1820年代に最も高揚し、1821年にサン=マルティンがペルーの独立を宣言した。ペルー情勢はその後悪化してサン=マルティンは撤退したが、替わってシモン=ボリバルが1824年のペルー南部でのアヤクチョの戦いで残存するスペイン軍(王党派)に大勝したことが決定的となった。メキシコでは1821年にイトゥルビデが国王就任を宣言し立憲君主国として独立したが、民衆の反発を受けて追放され、24年に共和政となった。この間、ポルトガル領のブラジルも1822年に独立を宣言した。ウルグアイはアルゼンチンとブラジルの緩衝地帯であったので双方からの介入が続き、独立は遅れて1830年であった。

ウィーン体制の動揺

 この動きに対して、ウィーン体制下で復活したヨーロッパの絶対王政諸国はラテンアメリカ諸国の独立への介入を図ろうとした。特に1823年に神聖同盟諸国がスペインを支援してメキシコに出兵しようという計画が持ち上がると、アメリカ合衆国はモンロー教書を発表して、ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への干渉を批判し、相互の不干渉の原則を打ち出して牽制した。また、イギリス外相カニングは、自国製品の市場としてこの地域がスペインから独立することを期待して支援していたので、ヨーロッパ諸国の中で唯一アメリカ合衆国を支持し、ウィーン体制から距離を置くこととなった。そのために、ウィーン体制とそれを支えていた四国同盟(五国同盟)にひび割れが生じることとなった。