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一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

「若い日本の会」(1958)

2012年12月06日 | 日本文学

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昭和45年(1970) 三島由紀夫 自害

- 「懐かしい年への手紙」((1987)

- 1987年 (昭和62年) 石原慎太郎

昭和63年(1988.5) 「新潮」1000号記念号・特別座談会「文学の不易流行」江藤淳、開高健、石原慎太郎、大江健三郎

- 「文学と非文学の倫理」対談:江藤淳・吉本隆明(1998.11)

平成元年(1989.12.9) 開高健 死亡

平成2年(1990) 大江健三郎 ノーベル賞受賞

平成11年(1999) 石原慎太郎 都知事選当選

平成11年(1999) 江藤淳自殺

1958年に当時の自民党が改正しようとした警察官職務執行法に対する反対運動から生まれた石原慎太郎永六輔谷川俊太郎ら若手文化人による組織。1960年安保闘争で安保改正に反対を表明したことで知られる。
従来の労働組合運動とは違って、指導部もない綱領もない変わった組織であった。

メンバーには黛、江藤、浅利、石原など後に保守派の転じた人も少なくない。

「ブンド=全学連は『赤い太陽族』(または赤いカミナリ族)と蔑称されたところからも知られるように、石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」(1955)以来の都市型大衆文化を潜在的な背景にしていた。事実、石原慎太郎をはじめとして大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、
寺山修司、浅利慶太(永六輔、黛敏郎、福田善之らも含む)といった当時ほとんどが二十代の作家、詩人、劇作家らは「若い日本の会」にでんしゅう蝟集(いしゅう)して六十年安保を闘うことになる。

その個々の会員の思惑が以下に統一性を欠き、これまで述べてきたブンドの思想的文脈とはほとんど無関係のように見えようとも、そうなのである。そして、それは六十八年革命へと継承される側面も内包していた。一例を挙げれば「若い日本の会」の近傍にあり、六十八年のサブカルチャー的背景を代表することになる寺山修司は六十年に、浅利慶太の劇団四季のために戯曲「血は立ったまま眠っている」を石原は「狼は生きろ豚は死ね」を書き下ろしている。言うまでもなく、その大衆社会状況はスターリン主義的リゴリズムからの離反を促がす素地に他ならなかった。

--中略--わずかに六十年安保時の「文化的雰囲気」を伝えるのは当時最も年少の学生指導者であり、大衆的なアジテーターであったと伝えられる西部邁が回想するところの『六十年安保--センチメンタルジャーニー』の方であろう。今や保守思想を標榜する西部がそこで韜晦しつつ描いているのは、当時の二重に「自由な」学生コミュニュストたちの、ニヒリズムとラディカリズの奇妙な共存ぶりにほかならない。かかる雰囲気は石原慎太郎と踵を接するようにして登場した大江健三郎が『われらの時代』(1959)その他で描いた、当時のジェネレーションの気分とも通底する、あの小ブルジョワたちの急進的な自由である。」

Ishihara_mishima