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一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

岩波 聖書 赤本

2013年07月24日 | 聖書

約聖書

新約聖書


詩篇23篇

2013年07月23日 | 聖書

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく
   わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
   わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。


詩篇22篇

2013年07月22日 | 聖書

指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌
22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
22:8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
22:11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
22:12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
22:13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
22:16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
22:19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
22:20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
22:21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。
22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
22:23 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
22:25 大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
22:26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
22:27 地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
22:28 まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
22:29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
22:30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
22:31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。

三大預言書(『イザヤ書』、『エレミヤ書』、『エゼキエル書』)

2013年07月21日 | 聖書

『イザヤ書』は、旧約聖書の一書で、三大預言書(『イザヤ書』、『エレミヤ書』、『エゼキエル書』)の一つ。聖書自身の自己証言と伝承では紀元前8世紀の預言者イザヤに帰される。プロテスタント教会の一般的な配列では旧約聖書の23番目の書にあたる。

旧約聖書III 預言書 イザヤ書 エレミヤ書 エゼキエル書 十二小預言書

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『教会史』

2013年07月20日 | 聖書

イエスの出現から「殉教の時代」を経てコンスタンティヌス帝のミラノ勅令による「公認」まで、キリスト教最初期三〇〇年の歴史。以後記される教会史の雛形となって著者エウセビオスを「教会史の父」と呼ばしめ、アウグスティヌスの著作とともに現代に至るキリスト教世界の価値観の原点ともなった『教会史』全一〇巻を全訳、詳細な註と解説を付す。

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『ユダヤ戦記』

2013年07月19日 | 聖書
紀元66‐70年、パレスチナのユダヤ人たちはローマ帝国と戦った。だが、彼らにとってこの戦争の結末ほど悲劇的なものはなかった。聖性が宿ると信じられた都エルサレムと神殿を失ったにもかかわらず、彼らの神は沈黙したままだったからである。神の沈黙は彼らに神の再解釈を迫り、以後、ユダヤ人たちの運命は大きく変わった。2000年にわたる流浪の始まりとなったのだ。この戦争を克明に記録した本書は、古代キリスト教以来、現代に至るまで西欧社会の必読書であり、イエスの神性を保証するプルーフテクストとして機能してきた。第1巻は、アサモナイオス王朝の盛衰から開戦前夜までを収録。
ヨセフス,フラウィウス
37‐100年頃。ユダヤの歴史家。エルサレムの名門に生まれるが、66年から70年にかけての対ローマのユダヤ戦争に、ユダヤの指揮官の一人として参戦する。その敗戦とともに、ローマ皇帝となったウェスパシアノスとその子ティトスの厚遇を受けてローマに身を移し、『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』を著す。その著は多くの散逸した史料を含み、ユダヤ史、キリスト教史を知るうえで貴重な文献となった.。
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小塩 力(1903年3月16日 - 1958年6月12日)

2013年07月15日 | 聖書

小塩 力(1903年3月16日 - 1958年6月12日)は日本の牧師。小塩節久米あつみの父。

1903年、群馬県留岡幸助の同労者の小塩高恒の息子として生まれる。東京帝国大学を卒業後に、東京神学社で学び、植村正久より薫陶を受ける。また、高倉徳太郎に師事し、高倉牧師の伝記を書いた。

神学校卒業後、松江教会、佐世保教会の牧師を務めた。佐世保にいるときに1931年長男の小塩節が生まれた。戦争中はスパイの嫌疑をかけられた。

1947年6月8日、日本基督教団井草教会を設立する。「福音と世界」の主筆者として文書伝道を行った。由木康と共に賛美歌の翻訳も行った。日本基督教短期大学の学長も歴任した。

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「いのち」の真の意味を「遅れて」はじめて経験する

2013年07月13日 | 聖書

「人間は自分の「いのち」の真の意味を「遅れて」はじめて経験する」のではないかと言い、「子を持って知る親の恩」という諺を引き合いに出します。そしてこの本の結論的な部分を次のように続けます。

〈「遅れてはじめて真に経験されるいのち」は、はじめからそこになければならない。そうでなければ、それは「遅れて」経験され得ない。それはすでにそこにある命と同じものである。生前のイエスも新約聖書全体も、この消息を「いのち」に「ゾーエー」と「プシュケー」という、二つの異なるギリシャ語を当てることによって、表現している。原則としてだが、「プシュケー」は人間誰もが衣食住によって今現に生きている「命」を指す(マルコ2:4、8:35~37、マタイ6:25/ルカ12:22~23参照)のに対して、「ゾーエー」は人間が「狭い門」を通って入るべき「生命」(いのち、マルコ9:43~45、マタイ7:13~14参照)を指す。だが、それはあくまで原則であって、二つの単語は相互に交代可能である。そのもっとも良い例は、ヨハネ福音書十二章25節である。「自分の命」に愛着する者は、それを滅ぼし、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の生命(いのち)に至るであろう」。現下の日常における「命」が「永遠の生命(いのち)」に連続していることを、これ以上鮮明に述べる発言はほかにない。「ゾーエー」は「プシュケー」としてすでにそこにあるのであって、現下の日常的「プシュケー」と別のものではない。しかし、その「プシュケー」は「ゾーエー」として発見され直さなければならない。「それぞれの人生の日常性が破れ、宙づりとなるような瞬間」と私が言うのは、その発見の瞬間のことである。私がイエスの「全時的今」と呼んだもの、そして、ベンヤミンの「現在時」も同じだと思う。〉

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モーセ五書

2013年07月12日 | 聖書
  • 創世記??????」(ヘブライ語の原題は「初めに」の意味)
  • 出エジプト記????」(ヘブライ語の原題は「名」の意味)
  • レビ記?????」(ヘブライ語の原題は「神は呼ばれた」の意味)
  • 民数記?????」(ヘブライ語の原題は「荒れ野に」の意味)
  • 申命記?????」(ヘブライ語の原題は「言葉」の意味)
  • 出エジプト記の他にもレビ記民数記申命記には、おびただしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて律法(トーラー、原義は「教え」)と呼ぶ。たとえば法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト21:35)。倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止(レビ記11章、申命記14章など)であるとか子ヤギの肉を乳で煮てはいけない(申命14:21)だとかの細かな食物規定であり、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示されている(出エジプト25-28章)。レビ記民数記申命記は物語よりは律法の記載がほとんどであり、ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼んでいる。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたものであるし、五書自体もモーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったためにモーセ五書という呼ばれ方がなされていた。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んでいる。

    申命記の最後でヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを遠く望んだモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、モアブの地で没する。

    旧約の世界の中心をなす5つの書(律法)を集成する.天地創造からモーセの死まで,イスラエル民族最初期の壮大な歴史叙述に,神の声が通奏低音を奏でる.文書の成立と思想的背景にかかわる,聖書学の目覚ましい進展を踏まえた新訳.

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    『雅歌』

    2013年07月11日 | 聖書

    『雅歌』(? Šīr-hašŠīrīm シール・ハッ=シーリーム, : Hohes Lied, : Song of Songs あるいは the Song of Solomon)はヘブライ聖書の中の一編。

    男女のの歌であり、ユダヤ教では「諸書」のうちに入る。キリスト教では伝統的に預言書の前に置かれる。恋愛と男女の賛美を歌い上げる詩であるため、扱いをめぐって古来から議論が絶えなかったが、さまざまな経緯を経て正典におさめられた。キリスト教の置換神学においては比喩的に解釈して「キリスト教会の関係」を歌う歌であるという解釈がされてきた。ある意味、異色の作品である。

    1:1に「ソロモンの雅歌」として、ソロモン王の作であるとされる。

    内容は花嫁と花婿の詩、娘たちの合唱などが組み合わされている。

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    ルツ記

    2013年07月10日 | 聖書

    士師記』の時代、ユダベツレヘム出身者であるエリメレクは、妻であるナオミと二人の息子を伴ってモアブの地に移り住んだ。二人の息子はその地の娘達と結婚するが、やがてエリメレクはその妻ナオミを、二人の息子達もそれぞれの妻オルパとルツを残したまま死んでしまう。そこでナオミは夫の故郷ユダに帰ることを決意し、息子達の寡婦となった二人に対し、それぞれの故郷に帰るようすすめる。しかし、ルツだけはナオミのそばにいることを望み、こうして二人はエリメレクの故郷、ベツレヘムへと帰郷した。

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    ルツは畑で麦の落穂を拾った(古代パレスチナでは貧しい人が刈り入れ時の落穂を拾うことは一種の権利として認められていた)。その畑の所有者は、エリメレクの遠縁の親戚にあたる、ボアズという人物だった。ボアズは姑に尽くすルツに感心して、彼女のために便宜を図る。

    ナオミはボアズが請戻しの権利を有する人物であることに気づき、ルツを自分自身の代わりに請戻させるため、彼女にボアズの床に入るよう勧め、ルツはその言葉に従う。全ての事情を察したボアズは、自分よりも請戻しの権利が高いもう一人の人物がいることをルツに明かし、彼女には一切触れず、ナオミへの贈り物をルツに持たせて彼女を家に帰らせる。その日、ボアズは請戻しの権利を持つもう一人の親族に掛け合い、親族としての責任の履行権を譲り受ける。これによってボアズはルツを正式な妻として迎え入れることとなった(兄が子供を残さず、死んだ場合に弟が兄の妻をめとることで家系を存続させるこの仕組みを、レビラト婚という)。

    ボアズの妻となったルツは息子オベデを生む。オベデはダビデの祖父にあたる人物である。

    この『ルツ記』のポイントは、モアブ人であるルツがイスラエル人の慣習に従い、その律法に従ってイスラエルの子孫存続をなした、という事柄にある。神は人類を創り出したとき「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と宣言しており、レビラト婚の習慣はまさに、それを実現するための手段なのである。ルツ自身は既に寡婦であり、姑から再婚の承認も得ていながら、それを謝絶してイスラエル人として生きることを選択した。これが、彼女が聖書中の一篇に名を冠することのできた理由である。聖書的な解釈では更に、その子孫がイスラエルの世襲の王となり、ひいては救世主を出す恩寵につながるとされる。


    ユニテリアン・ユニバーサリスト協会

    2013年04月07日 | 聖書

    2012年10月09日10時42分

     【CJC=東京】「ユニテリアン・ユニバーサリスト」が米国で伸張している。全員で21万1000人だが、調査機関「米宗教団体統計協会」によると、2000年からの10年間で15・8%増加した。信徒は、懐の深い信仰がこれからは排他的な宗教信仰に取って替わる、と期待している。

     『宗教後のキリスト教=教会の終わりと新しい霊的革新の誕生』の著者ダイアナ・バトラー・バス氏も、同様の見方。米国中南部の「バイブル・ベルト」と呼ばれる地域の保守的な宗教文化の中で新たな展開を見せられる、として、「心の広い、進歩的な心を持つ人たちのための役割があると思う。その人たちが素晴らしい『反体制文化』をもたらす」と言う。

     ユニテリアン・ユニバーサリスト協会は、いわゆる南部での成長がめざましい、と同派の「証し専門家」の1人レイチェル・ウォルデン氏が語った。

     調査機関「ピュー・センター・フォア・ザ・ピープル・アンド・ザ・プレス」の調査に、市民の約2割は、特定の教派に属していない、と回答するが、同派は、このグループに訴えようとしている。

     シカゴの「メドヴィル・ロンバート神学校」のリー・バーカー校長も、ユニテリアン・ユニバーサリストは、まさに時と所を得た、として「わたしたちは、教会の価値と文化の価値に関心を持たれる時代に際会している。すぐに無くなってしまうとは思えない」と言う。
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    (CNN) 米国で特定の宗教を持たない人が増加し、5人中1人に上っていることが、9日に発表された世論調査機関ピュー・リサーチセンターの調査で分かった。

    それによると、特定の宗教を持たない米国人は過去5年間で25%増加。特に若者の場合、1990~90年生まれの層の34%、81~89年生まれの層の30%が無宗教だった。

    無宗教の米国人推定3300万人のうち、1300万人は、無神論者、または神の存在は証明できないとする不可知論者を自認している。

    特定の宗教を持たなくても68%は神の存在を信じると答え、37%が神は「スピリチュアル」な存在だが「宗教的」存在ではないと回答。5人に1人は毎日祈りをささげると回答した。

    18~29歳の層では、特定の宗教を持たない人のうち無神論者と不可知論者がほぼ42%を占め、キリスト教徒(18%)やカトリック信者(18%)よりはるかに多かった。

    この傾向についてピューの専門家は、宗教を持たないことを恥とする意識が薄れ、「以前から宗教心がそれほど強くなかった人の多くが、自分は宗教を持たないと公言できるようになった」と分析している。