goo blog サービス終了のお知らせ 

一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

平成ボランティア

2019年04月22日 | 社会
マニュアルにとらわれ過ぎず、臨機応変に
中川和之 (時事通信社解説委員)
 巨大地震の端境期に高度成長を遂げた日本は、平成に入って相次いで大災害に襲われた。そこで登場したのが災害ボランティアだ。この日の会見では、自ら災害救援のNPO理事長も務める渥美公秀大阪大学教授(社会心理学)が、阪神大震災から今年の西日本豪雨までを振り返り、災害時のボランティアセンターが「マニュアルにとらわれ過ぎで、臨機応変も大事」と指摘し、報道でも固定的な見方をしないよう求めた。復興支援では「若者たちの多様な活動が、事細かに地元紙に報道されたことが励みになった」と述べた。
 阪神大震災で震度7の揺れが襲った西宮市内に住んでいて、自宅近くの小学校で避難所ボランティアをしたのがきっかけ。「家族も無事だったので、お手伝いに行っていただけ。言われて初めてボランティアだと自覚した」と言う。その後、地元のNPOで継続的に災害救援を行い、学会の設立に関わるなど研究も重ねてきた。
 渥美教授は「良かれと思って作られたマニュアルなどが『秩序化のドライブ』を招き、地元社会福祉協議会が作るセンターの活動だけが正しいと考えられ過ぎている」と語る。東日本大震災では「地元のセンターが開設されない初期段階に『まだ行くべきではないですよね』という取材を受け、『行った方がいいに決まっている』と答えた」という。熊本地震では、ボランティアが多く駆けつけセンター受付がたった14分で終わった後、大学生が高齢者の水運びニーズを探して活動を行った事例なども紹介。
 自らのNPOでは、大型バスで地元センターを支援するとともに、マイカーで現地入りして個別の支援活動も行っており、「センターは初めての人や個人には助かるが、個別支援とのバランスが大事」と述べた。
 「まもなく1月17日で、阪神大震災から24年経つが、災害時の障がい者の問題が解決されていないなど、まだ途上で反省ばかり」という渥美教授。「助ける、助けられるではなく、助かる社会をどう作っていくか。実践と研究を続けていく」と改めて決意を語っていた。


ゲスト / Guest
渥美公秀 / Tomohide Atsumi
日本 / Japan
大阪大学教授 / Professor, Osaka University

今後30年続く地震活動期

2019年04月21日 | 社会
今後30年続く地震活動期 経済疲弊で防災力低下も
鎭目 宰司 (共同通信社科学部)
 地震、豪雨、また地震。2018年、ことしは何だかざわざわしている。科学部の防災担当デスクとしては早く収まってほしいと強く願う。
 だが、防災が専門の神戸大名誉教授の室﨑益輝さんの見方は違う。1995年の阪神大震災をきっかけに日本は地震活動の静穏期から活動期に入ったと考える。活動期を50年と考えるとまだ30年近く続く計算だ。関東大震災や昭和の東南海、南海地震があった前回の活動期と比べれば、まだ今は序の口だ。「もう一つ、二つ直下型地震が起きて南海トラフ巨大地震、首都直下地震が来る。これは避けられない」
 室﨑さんによれば、敗戦を経て高度経済成長を迎えた日本は「防災にお金を掛けられるようになった」。住宅事情の改善や砂防ダム、防潮堤、大規模道路の設備などハード面への投資が行われ、迎えた地震静穏期と相まって地震、大火や台風、水害の犠牲者は抑えられていった。「阪神」までは。
 90年代以降、経済停滞に入った日本は次第に防災面への投資を減らしていく。投資を減らした企業の防災力は低下した。東京電力福島第一原発事故の遠因もそうだった。「経済が停滞すると災害が増える時期になった。経済優先で開発してきた高度成長が終わり、20~30年でしわ寄せが来た」
 阪神大震災で注目された災害ボランティアも限界を迎えつつある。「社会の弱さをボランティアの美化でごまかして、行政がしないといけないことまでさせてきた。西日本豪雨ではボランティアは限界だった」。被災地の中にはまだ泥が8割も残っているところがあるということだ。
 北海道や大阪の地震で浮き彫りになったライフラインのもろさ、公助の乏しさの裏返しで「自己責任」を強調して動かない行政。避難所の環境の劣悪さは相変わらずだ。文化としての被災経験が継承され、社会の仕組みが柔軟に変わるようにしないと、数十年残った活動期を生き残っていけない。室﨑さんは話す。まさに国難の時代だ。

ゲスト / Guest
室﨑益輝 / Yoshiteru Murosaki
日本 / Japan
神戸大学名誉教授 / professor emeritus of Kobe University

象徴天皇の旅

2019年04月20日 | 社会


はじめに

第一章 人々のかたわらへ──国内の旅
分刻みのスケジュール/現代の大名行列/天皇の車両が信号で停まらなくていい法的根拠
かつてあった県広報課の記者接待/植樹祭は必要なのか/「これが平成流か」
二十五年を隔ててつながった「あさくら讃歌」/神出鬼没の「追っかけおばさん」
ソープランドの看板に目隠し/高速インターで天皇旗の〝着脱儀式〟
国体から始まった新たな巡幸/知事の個人パフォーマンス/再起をうながしたハマギク
被災地の毒舌ばあちゃん/国歌斉唱に加わらない理由/大興奮、夜の提灯奉迎
人々を隔離する「奉迎指導ポリス」/「トメケンはできますか?」
海のない県で「海づくり大会」/県が選んだのは「名士」だけ/「ありがとう」の意味
「ごきげんよう、美智子でございます」/水俣で感じた陛下の感情
真実に生きることができる社会

第二章 親善と「外交カード」──外国への旅
天皇外交の政治的影響/両陛下の会見取り止め要請/長いあいさつに苦情
歓迎式典前にスコール/素通りしてしまった過去の戦争/「ごめんあそばせ」と皇后さま
両陛下来訪が1面トップ/熱心に展示を見る二人のシルエット
現場が凍り付いた〝不敬事件〟/天皇の意思で実現したベトナム訪問
偉丈夫のベトナム儀仗隊/青年海外協力隊員との懇談は慣例/陛下のスピーチに修正依頼
忘れられていた残留日本兵家族/二人の子の父親になっていた「ドクちゃん」
両陛下を迎えたバイクとアオザイ軍団/天皇陛下の「自省史観」
泣きながら両陛下を迎えたタイ市民

第三章 悲しみと希望をともに──被災地への旅
七週連続の被災者見舞い/人間を〝だまし討ち〟する津波/正座で話しかける
「コウナゴは入っていますか」/次元の違う凄惨な現場/大川小学校の悲劇
被災者の悲しみを聞き続ける/「被災者のああいう笑顔は初めて」/両陛下の〝勇み足〟
原発被災者のもとへ/丁寧すぎる(?)言葉に和む空気/忘れられた被災地へ
峠を走る御料車/懇談の場に首長らの〝割り込み〟/両陛下、予定外の声かけ
日帰りには遠すぎる熊本の被災地/皇后さまの上着に「くまモンバッジ」
個室形式の避難所/女の子が陛下に紙の花束/発災間もない時期だからこそ

第四章 歴史のトゲを抜く──和解への旅
長年続いた中国からの訪問要請/くすぶる「お言葉」問題/百八十人の大記者団
北京市民のインタビューは不可/寒さで震えた歓迎式典/日中で唱和した「不幸な一時期」
記者人生で極限の忙しい夜/万里の長城訪問に難色/歴史問題の「一発解決」は幻想
香港で見えた人民の感情/「平成」の語源の石碑/長身の美人SP
沿道の大歓迎は市民隔離の結果?/天皇訪中の歴史的評価
沖縄にわだかまる「昭和天皇メッセージ」/実現しかけた昭和天皇の沖縄訪問
県民感情に配慮して「お言葉」が「お声かけ」に/天皇家の「鎧わぬ」伝統
植樹祭お言葉で異例の戦争言及/式典に過激派乱入?

第五章 「忘れてはならない」──慰霊の旅
天皇の意志による戦跡地訪問/地獄の島へ/「決して忘れてはならない」
沿道に日の丸とパラオ国旗/「死、苦しみ、困難という悲しみの記憶」
日本のNGOがたずさわる不発弾処理/困った「熱心なご説明」/他国の犠牲者も忘れない
「親日」の背景にある歴史/記憶を喚起する旅/寝耳に水、二年連続の海外慰霊
フィリピン残留日系人の悲劇/「両陛下をひと目見たい」/異例の大統領の出迎え
無名戦士の墓で二分間の拝礼/日系二世に「あなたたちを誇りに思う」
雲の切れ間からのヘリ着陸/「この日のことを英霊に報告したい」
レイテ島の方角をじっと見つめる

第六章 周縁から見た日本──島々への旅
離島ゆえの「困難」/自然な触れ合いと形式的な懇談/小さな島の過剰警備
与論島の「日の丸街道」/ホテル前の海で巡視船が警戒
「永良部百合の花」の合唱で見送り/全都道府県二巡を達成/日本最西端の島へ
天皇に対する感情の変化/分断を埋めようとしてきた天皇
「天皇陛下、日本国、沖縄県バンザイ」/西の果ての自衛隊
「ヘミングウェイが書いていますね」/与那国と台湾の深い交流/車列から外された報道バス
中枢から見えない格差



忘れられた島々 「南洋群島」の現代史
なぜ太平洋の島々で玉砕の悲劇が生まれたか
井上 亮 著

















特捜復活

2019年04月19日 | 社会
特捜復活へ「失敗を恐れるな」
市田 隆 (朝日新聞社編集委員)
 「日本最強の捜査機関」と呼ばれた東京地検特捜部の中枢にいた元検事が、2004年に退官してから久しいとはいえ、過去に手掛けた事件の内幕を公開の場で話すのは非常に珍しく興味深い内容だった。また、政官界への捜査を得意とした特捜部の存在感が薄れている中で、宗像さんは「失敗を恐れるようになった」ことの弊害を語り、特捜部がそこから脱却することに期待を寄せた。
 中央政界に波及したリクルート事件、ゼネコン汚職事件という大型事件で宗像さんは捜査の中心にいた。リクルート事件で未公開株譲渡が賄賂にあたると判断した経緯や、捜査線上に浮かんだある人物を立件しなかった事情を語った。ゼネコン汚職事件では、建設会社役員から押収した手帳の記載から当時の仙台市長にお金を贈った事実をつかみ、それを突破口に摘発したことを明かした。
 その後、2010年に発覚した大阪地検特捜部の証拠改ざん事件を契機に検察への国民の信頼ががた落ちになり、特捜部が事件に着手する機会が減ったことに言及した。宗像さんは、その原因を「失敗を恐れるようになった」と分析し、「慎重にやるのはもちろん大事なことだけど、慎重になり過ぎると事件ができなくなる」と後輩検事に奮起を促した。
 取り調べの録音録画という、自分の現役時代にはなかった捜査環境の変化については、贈収賄の立件は供述がないとだめなのに、「自白を求めない」「供述がなければ成立しない犯罪はほとんど摘発できなくなった」との印象を語った。
 宗像さんは特捜部にいたころ、四六時中追っかけられた多数の事件記者との付き合いも振り返り、「マスコミに対してウソはつかない、本当のことも言わない」を心掛けていたという。私の経験上、記者に「ウソはつかない」を実践していた捜査幹部は少ない。その点に宗像さんの実直な人柄がにじみ出ていたと思う。


ゲスト / Guest
宗像紀夫 / Norio Munakata
日本 / Japan
元東京地検特捜部長 / former prosecutors director, special investigation department , Tokyo District Public Prosecutors Office

金子勝 平成時代

2019年04月18日 | 社会

バブルとバブルの崩壊から始まった平成時代。マクロ経済政策も、規制緩和中心の構造改革も、「失われた20年」を克服できないどころか、症状を悪化させてきた。セーフティネット概念の革新、反グローバリズム、長期停滞、脱原発成長論などをキー概念に、一貫して未来を先取りした政策提案を行ってきた著者による30年の痛烈な総括。

私はあなたのニグロではない / I Am Not Your Negro

2019年04月17日 | 社会
会見リポート
「過去と現在」、相似に慄然
渡辺 覚 (読売新聞社調査研究本部)
 1950~70年代に活躍したアメリカの黒人作家で公民権運動家のジェームズ・ボールドウィンが残した未完の原稿をもとに、現代アメリカに渦巻く人種差別の「本質」を描いたドキュメンタリー映画。昨年初め、トランプ政権が発足したばかりのアメリカで、異例のヒットを記録した秀作である。
 映画の下敷きになったボールドウィンの原稿は、わずか30㌻で執筆が止まった回顧録だ。だが、ここから93分の映像を作り上げたハイチ出身のラウル・ペック監督の手法は、緻密であると同時に斬新だ。
 映画の語りは、すべてボールドウィンの作品やインタビュー、講演録などで構成する。一方の映像は、長年にわたるボールドウィンの盟友で、公民権運動に立ち上がったキング牧師、マルコムX、メドガー・エヴァースの情熱と活動、そして死への軌跡を豊富な資料とともに追う。
 流血の歴史を振り返るカメラは、時に現代アメリカへと切り替わる。
 スクリーンの中で展開される現代の銃乱射事件や人種暴動を見た者は、ボールドウィンや彼の盟友たちが生きた時代から、少しも変化していない事実に慄然とするはずだ。
 映画には、もう一つの底本がある。アメリカ映画がいかに差別的な視点から作られているかを詳述したボールドウィンの評論『悪魔が映画をつくった』(邦訳・時事通信社)だ。
 監督は古き良き時代の名画の数々を観客に見せながら、ボールドウィンに繰り返し語らせる。アメリカ映画の中で黒人俳優は、「従順で信仰に厚い男」や「間抜けなおどけ者」のように、型にはまった役しか与えられなかった――と。
 劇場での鑑賞は、照明が明るくなるまで席にとどまりたい。作品で紹介された大量の映像と記録の出典を目にしてほしいからだ。エンドロールの大波にのまれた時、歴史の中に身を置いた実感がより強まるだろう。

ゲスト / Guest
私はあなたのニグロではない / I Am Not Your Negro

『平成の終焉 退位と天皇・皇后』

2019年04月16日 | 社会

2019年03月29日 13:30 〜 15:00 10階ホール
「平成とは何だったのか」(17)原武史・放送大学教授
Previous




Next
会見メモ
「平成の終焉-退位と天皇・皇后」(岩波新書)を3月に刊行した原武史・放送大学教授が平成天皇のあゆみを語った。

司会 倉重篤郎 日本記者クラブ企画委員(毎日新聞)

『平成の終焉 退位と天皇・皇后』
YouTube会見動画

会見リポート
「退位の過程、新聞は検証を」
刀祢館 正明 (朝日新聞編集局)
 17回目は近現代の天皇・皇室の研究者で『平成の終焉――退位と天皇・皇后』(岩波新書)を今年3月に出した原武史・放送大学教授を迎えた。
 今の天皇にとって平成とは何だったのか。原さんは、お濠の中では「国民の安寧と幸せ」を祈り(宮中祭祀)、お濠の外では「日本の各地」を「旅」して回る(行幸啓)、この二つを「象徴天皇の務め」として重視した30年だったとみる。
 宮中祭祀も行幸啓も、配布された資料を見るとその数の多さに驚く。父親の昭和天皇とは大きく異なるという。
 退位が具体的に動き出す直接のきっかけは2016年7月13日のNHKの特報だった。それまでほとんど語られることがなく、官房長官は否定したが、8月8日の天皇自身による「おことば」以降、一転して特例法制定など政治プロセスが動き出す。
 「この間(政府や宮内庁に)何があったのか。天皇本人が2010年に譲位の意向を口にしていたという証言も報じられている。しかし歴代内閣は手を付けなかった。それはなぜなのか。新聞は検証してほしい」
 国民一般も「おことば」を境に退位賛成に「ころっと」(原さん)変わった。「これは1945年8月の玉音放送と同じ。それまで一億火の玉だ、本土決戦だと言っていたのに、一転して敗戦を受け入れた」。
 両者に共通するのは「天皇が民意を形成する主体になっていること」という。このことが報道する側にどれだけ意識されているだろう。
 天皇はテレビを通じた「おことば」で自ら「象徴天皇の務め」を提示したが、このこと自体に問題はないのか。原さんは鋭い疑義も投げかけた。
 さて5月に新天皇が誕生する。天皇のあり方は変わるだろうか。
 「明治から大正、大正から昭和、昭和から平成と、いずれも天皇像は大きく変化した。今度も変わるだろう。新しいスタイルが出てくるのではないか」と語った。

ゲスト / Guest
原武史 / Takeshi Hara

放送大学教授、明治学院大学名誉教授

「危機、覚悟、平時」で総括 “金融機能育成庁”目指せ

2019年04月15日 | 社会


2018年07月02日 14:00 〜 15:30 10階ホール
「平成とは何だったのか」(6) 五味廣文・元金融庁長官

会見メモ
平成の金融行政の30年を10年ごとに区切り下記のように分析した。
① 昭和の負の遺産をなんとかしようとした10年(バブルの崩壊から公定資金投入まで)
② 金融危機への対応で覚悟を決めた10年(金融システムの安定のため不良債権問題の最終処理)
③ 平成以降を見据えてがんばった10年(非常時から平時の行政への切り替え)

司会  藤井一明 日本記者クラブ企画委員(日本経済新聞)
YouTube会見動画

会見リポート
「危機、覚悟、平時」で総括 “金融機能育成庁”目指せ
吉田 憲司 (産経新聞経済本部長兼経済部長)
 昭和の負の遺産を引き継いだのが平成だった―。その「昭和の置き土産」がもたらしたのがバブル崩壊だ。そこから長いトンネルに突入した日本経済は、未曾有の金融危機に見舞われ、その最前線で金融行政の舵取りをしたのが五味さんだ。
 五味さんは平成を3つの時代に区切る。バブルが崩壊し、日本長期信用銀行や山一証券など大手金融機関が破綻・廃業するなど金融危機が顕在化した最初の10年。「ちょっと様子をみれば、土地価格は戻ってくる」。金融業界や官にはそんな甘い見通しがあったと振り返る。
 会見で五味さんが紹介したエピソードはいかに危機管理が重要かを物語っている。バブル崩壊後、当時の宮沢喜一首相が金融機関は先行きが大変な状況にあり、公的な資本増強の道を開いておいたほうがいい、と提案したというのだ。この案は政治的な理由などから実現しなかったようだが、この時点で制度化されていれば、その後の金融の歴史は変わっていたかもしれない。
 次の10年は「覚悟を決めた10年」。その覚悟とはシステミックリスクを顕在化させずに銀行を実質的に破綻させることだった。もはや銀行を救済することでシステミックリスクを予防するという従来のやり方は通用しなくなっていたという。結果的にこの「覚悟」は不良債権問題の解決につながったのだ。
 そして今日までに至る10年。金融行政の主眼は「非常時の行政」から「平時の行政」へと移った。金融行政も金融業界も非常時の対応がDNAとして染みついており、「体質は変わらなかった」と指摘する。
 ITと金融が融合したフィンテックの登場などで激変期を迎えている金融業界。今や金融の担い手は金融機関だけではない。金融機関処分庁から金融機能育成庁へ―。五味さんは最後に今後の金融行政の進むべき道をこう示した。

ゲスト / Guest
五味廣文 / Hirofumi Gomi
日本 / Japan
元金融庁長官 / former Commissioner of the Financial Services Agency

「国益より国内益重視」

2019年04月14日 | 社会
2018年07月03日 14:00 〜 15:30 10階ホール
「平成とは何だったのか」(7) 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長

会見メモ
「外交は国益のために結果をつくること。<国内益>に目を向けている現状は外交ではない。中韓などに対し国内で強硬な主張をすることが政権基盤を固めるうえで役立つようになってしまった。これはポピュリズム」と現政権の外交戦略に疑問を呈した。
「今は危機であり、最大のチャンス。フェイズを変えることができる」として、米朝会談を受け、平壌に拉致被害者調査のための政府連絡事務所を開設すべきだとした。

司会 倉重篤郎 日本記者クラブ企画委員(毎日新聞)
YouTube会見動画
会見詳録


会見リポート
「国益より国内益重視」  日本外交に手厳しい批判
出石 直 (NHK解説委員室解説主幹)
 当クラブでの10回目の会見。冒頭「これが最後だと思うので思いの丈を申し上げたい」と切り出し、冷戦終結後の国際情勢の変化と日本外交のあり方について熱弁を振るった。
 湾岸戦争で130億ドルを拠出しながら国際社会から評価を得ることができなかった屈辱。朝鮮半島第一次核危機による脅威の増大。冷戦終結後の国際情勢の大きな変化を受けて、当時の外務省は、法整備による安全保障能力の向上と、外交力による安全保障環境の改善に尽力したという。
 「日米安保共同宣言、日米防衛協力のためのガイドラインの改訂、小泉総理の訪朝も、アメリカ任せにしない能動的な外交だった」と振り返る。
 ところが「2000年代の半ば以降、こうした外交努力が途絶えてしまった。外交とは国益にかなう結果を出すことなのに、今の日本は国内益しか考えていない」と今の日本外交に強い疑問を呈する。
 かつて外交官として深く関与した朝鮮半島情勢については、圧力(Pressure)、米中韓との連携(Coordination)、危機管理計画(Contingency Planning)、北朝鮮との連絡チャンネル(Communication Channel)の「P3C」が必要だとしたうえで「核問題が進展すれば拉致問題が解決する局面も出てくる。今こそ国益にかなう結果を出す戦略的な外交を展開すべきだ」と訴えた。
 日本外交の現状に対する手厳しい批判は、人事を官邸に握られて主体的な外交を展開できない後輩たちへのエールと受け止めた。かつて安倍総理のFacebookに「田中に外交を語る資格はない」と書き込まれたことがあったそうだが「呼んでもらえる限り来続けます」と当クラブへの再登場を約束してくれた。

ゲスト / Guest
田中均 / Hitoshi Tanaka
日本 / Japan
日本総研国際戦略研究所理事長 / Chairman, Institute for International Strategy, The Japan Research Institute, Limited

『<吉川弘之対談集>科学と社会の対話―研究最前線で活躍する8人と考える』

2019年04月13日 | 社会

2018年07月24日 15:00 〜 16:30 9階会見場
「平成とは何だったのか」(8) 吉川弘之・元東京大学学長・元日本学術会議会長

会見メモ
科学者としての自分の歩みを紹介し、昭和の経済成長時代からこれまでの日本の製造業や科学技術政策を振り返った。大学の工学部は世界に先駆けて日本で創設された。大卒が製造現場に入ったことが製造業の繁栄につながったとした。科学技術政策では、科学技術基本法の制定や総合科学技術会議の設立により政府主導型に移行し、大学の若手研究者が自主的に研究テーマを選ぶことが減ってきており、危惧していると述べた。

『<吉川弘之対談集>科学と社会の対話―研究最前線で活躍する8人と考える』

司会 上田俊英 日本記者クラブ企画委員(朝日新聞)
YouTube会見動画

会見リポート
昭和はボトムアップ 、平成はトップダウン
井上 能行 (東京新聞論説委員)
 平成を語るには、昭和を知らなければいけない。そんなことを痛感した会見だった。
 吉川弘之さんは設計学やロボット工学が専門。学術会議会長などを歴任し、政府にもの申してきた。東大工学部を卒業してから約30年間が昭和、その後の30年が平成。平成を「下り坂」と表現した。
 昭和はなぜ、良かったのか。
 「戦後、大学で学んだ若いエンジニアが工場に配属され、工員さんと一緒に働いた。50歳ぐらいのおばちゃんのアイデアをエンジニアが生かして『一円もうかった』とみんなで盛り上がった。現場は哀しいほど元気だった」
 「昭和はボトムアップでうまくいった。平成になると、見事にトップダウンに変わった」
 トップダウンの悪影響は、最近話題の研究費問題にも表れている。
 「役所が有名教授を集めてきれいな絵を描き、研究費を細分化して配る。若手が自主的に研究テーマを選べなくなっている」
 暗い話が多かったが、1972年にストックホルムで開かれた「第一回国連人間環境会議」で、水俣病などの公害が注目された環境問題は大きく前進した。社会と科学界のコミュニケーションが進んで「パリ協定では途上国も参加し、地球上の全員が巻き込まれた。全員というのは、人類史上初めて。他の問題にも適用しないといけない」と総括。さらに「省エネが一般の人に広がったのはメディアのおかげ」と話した。
 これからはどうすべきか。
 「戦後、日本と欧米との競争は1億対5億。今は世界が相手で1億対70億。状況が変わったのに、もう一回、五輪・万博ではないのでは。レジェンドとすべきは、みんなで議論する場があって盛り上がること」
 「日本には一人でやる神さまはいらない。そうしようという人も一人いるが」と冗談も。八百万神の国には、ボトムアップがよく似合う!

ゲスト / Guest
吉川弘之 / Hiroyuki Yoshikawa
日本 / Japan
元東京大学学長・元日本学術会議会長 / former rector, Tokyo University, former president, Science Council of Japan

『人口減少と社会保障―孤立と縮小を乗り越える』(2017年、中公新書)

2019年04月12日 | 社会
2018年08月22日 13:30 〜 15:00 10階ホール
「平成とは何だったのか」(9) 人口減少と社会保障 山崎史郎・元厚生労働省社会・援護局長

会見メモ
「人口減少と社会保障」のテーマで、40年におよぶ行政官としての仕事を振り返りながら語った。
人口減少問題については、認識の遅れから後手に回り、対策をとっても効果が出るのは数十年先になるだろうとした。
それまでは、女性、高齢者、団塊ジュニアが働きやすい環境をつくることが重要だとも。
『人口減少と社会保障―孤立と縮小を乗り越える』(2017年、中公新書)

司会 竹田忠 日本記者クラブ企画委員(NHK)
YouTube会見動画

会見リポート
改革の限界を露呈した平成 「全世代型社会保障」構築を
尾﨑 雄  (日本経済新聞出身)
 少子高齢化がもたらす未曽有の人口減少は、雇用政策、まちづくり、家族政策、教育政策、産業政策、地域政策に大きな変化を迫る。山崎史郎氏も認めるところだ。厚生省で高齢者問題を任され、十数年かけて介護保険制度の立案と実施にこぎつけたものの、気が付くと若年層の非正規労働の増大、引きこもりや生活困窮者の問題が現出し、そして、地域は人口減少の荒波に巻き込まれていた。「単身化」の激流が経済社会を変容させ、それが社会保障制度の持続可能性を揺さぶり、家族・雇用・地域の足元を崩すという悪循環を加速してきたのだ。氏は、そのプロセスを的確なグラフや表によって解き明かし、平成時代の社会保障政策の限界を率直に認めて、今後の課題と展望を明らかにした。
 その骨組みは、昨年上梓した中公新書『人口減少と社会保障』に。小塩隆士・一橋大学経済研究所教授によると、同書は「社会保障を全体として把握し、人口減少に制度全体で立ち向かう『総力戦』の方針を打ち立てようとし(中略)、改革の射程を狭義の社会保障にとどまらず、人材やすまい改革、地域組織の再編まで広げている」(『社会保障研究』第132号)。講演はそこに書きもらした本音や心情とその後磨き上げた思索の成果を盛り込んだ決定版だ。内閣府政策統括官としてリーマンショック対応や若年者の雇用問題に取り組み、「年越し派遣村」の出現で制度の限界を知る。厚労官僚きってのヒューマニストらしい。
 社会保障制度における「平成」とは改革の限界を露呈した時代だったとしたら、それを告白するだけでは済まされまい。団塊ジュニア世代が高齢者になる2040年代以降を迎え撃つ「全世代型社会保障」の構築が必要だ。男女が共に能力を発揮して働ける結婚・子育て支援の制度づくりを地方分権によって推進し、社会保障の効率化と多様化を実現、人々の「支え合い」に基づく地域共生社会をベースとする新しい国のかたちをつくることを提示した。「男性が外で働き、専業主婦が家庭を守る」という「大都市集中・過密型」から職住接近で夫も妻も無理なく仕事ができる「地方分散型」への転換だ。それは、変化する社会の全体像を正しく認識すれば可能である。制度知識から入る専門制に偏ったいまの社会保障教育のあり方に反省を促し、社会全体を見る力を養うことの大切さを強調して講演を締めくくった。

ゲスト / Guest
山崎史郎 / Shiro Yamasaki
日本 / Japan
元厚生労働省社会・援護局長 / former director-general, the Bureau of Health and Welfare Services for the Persons with Disabilities, Ministry of Health, Labor and Welfare
研究テーマ:平成とは何だったのか
研究会回数:9

「平成とは何だったのか」(14) バブルの崩壊と再生

2019年04月11日 | 社会
2018年12月04日 14:00 〜 15:00 9階会見場
「平成とは何だったのか」(14) バブルの崩壊と再生 斉藤惇・元日本取引所グループCEO

会見メモ
司会 藤井彰夫 日本記者クラブ企画委員(日本経済新聞)
YouTube会見動画
会見詳録


会見リポート
米の圧力で豊かさを失った30年
櫻井 玲子 (NHK解説委員)
 「今の米中貿易摩擦はかつて日本が置かれた状況とそっくりだ」と語り出した斉藤惇さん。野村證券、産業再生機構、それに日本取引所グループといった金融の第一線に身を置きながら昭和から平成を駆け抜けてきた斉藤さんの眼には、直近の30年は、日本がアメリカの圧力を受け、なすすべもないまま、豊かさを失っていった時代だと映る。
 ウォール街のビジネスマンからも恐れられ、ベルリンの壁崩壊直前の東ドイツの工場をもいち早く買収するほどの勢いを一時期は誇っていたジャパンマネー。しかし世界一の座を絶対に譲りたくないアメリカとの間で日米構造協議や半導体交渉を迫られる中、巨額の内需喚起策を打ち出すことを余儀なくされ、日本におけるバブルの誕生と崩壊を招いた。
 その結果、官民ともに、不良債権処理という目の前の課題に追われ、半導体など世界をリードしていたはずの産業も衰退し、国の将来の基盤づくりができなかったと斉藤さんは悔しがる。
 トランプ大統領が唱える「アメリカファースト」も今に始まったことではないと指摘。中国が過去の日米協議からどんな教訓を学び取りアメリカと向きあっていくのかを注視する考えを示した。
 また産業再生機構のトップとして不良債権処理問題にあたった経験から、官と民との距離感についても言及。国のおカネで民を救うこと自体にはあまり問題を感じないが、その担い手には相応の高潔さと知恵が求められると注文をつけた。最終的には利益を出し、予定より1年前倒しで機構を解散した斉藤さんの矜持を感じた。
 今後の課題については、日本は人口減少と人材教育という2つの最重要課題を克服するのに失敗したと総括。失敗は失敗として認め、セカンドベストの選択肢として海外の優秀な人材を経営者として活用し国境を越えたM&Aを行うことで日本の国際競争力を維持することを提言した。
 

ゲスト / Guest
斉藤惇 / Atsushi Saito
日本 / Japan
元日本取引所グループCEO / former CEO, Japan Exchange Group

くらやみ祭り

2019年04月10日 | 社会
くらやみ祭り(くらやみまつり)は、主に5月3日〜6日にかけて東京都府中市の大國魂神社(武蔵国の国府である当地の総社)で行われる例大祭で、武蔵国の「国府祭」を起源としており[1]、東京都指定無形民俗文化財となっている。
期間中は約70万人の人出で賑わう。

概要
古く武蔵国の国府で行われた国府祭を由来とする、長い伝統と格式を誇る大國魂神社の「例大祭」である。室町時代の文書には「五月会」と記録があり、江戸中から見物人が多く訪れていた。その後は、地域住民の祭礼へと発展していった。
かつて街の明かりを消した深夜の暗闇の中で行われていたため「くらやみ祭」と呼ばれるようになったが、多くの提灯が建てられたため「ちょうちん祭」、また神輿が御旅所で出会うことから「出会い祭」などと呼ばれることもある。また「けんか祭」と呼ばれたこともあった。 「江戸名所図会」という江戸時代の観光案内においては、江戸近郊で盛大に続けられている古い祭りとして紹介され「五月五日六所宮祭礼之図」が掲載されている。また、幕末に来日したスイスの外交官アンベールはくらやみ祭りの詳細なレポートを残しており、「LA MATSOURI DE ROKSA-MIA:RETOUR TEMPLE APRES LA PURIFICATION DES LIEUX SACRES」には祭りのイラストが掲載されている
府中市の中心部を六張もの大太鼓と八基の神輿が回る壮大な祭として知られている。

格式と伝統
くらやみ祭りは古来から続く格式と伝統を垣間みる事のできる、国府祭を起源とする例大祭である。大國魂神社は東京都区部にある主要な神社仏閣(多くは徳川家康の江戸開府後に建立または移築された)より遥かに古い歴史と格式を持ち、例大祭は時代の変革とともに変貌を遂げつつも、今も古式に則った行事が厳粛に行われている。
祭りが暗闇に行われる理由は、貴いものを見る事は許されないという古来から存在する儀礼に起因し、神聖な御霊が神社から神輿に移り御旅所に渡御するのは人目に触れる事のない暗闇でなければならないという神事の伝統がそのまま現代まで引き継がれているためである。
徳川幕府(江戸時代)期には現在の様な神幸の形になった様で、神輿渡御は午後11時ごろ開始され、翌日午前3時〜4時頃に神社に戻ったというが、1959年(昭和34年)に午後4時渡御開始、翌日午前4時に還御開始と改められた。その後、2003年(平成15年)に午後6時渡御開始となるなど、時代背景に応じて柔軟に変化している。
かつては例大祭期間中における東京競馬場(府中競馬場)でのレースについて、JRAは警察などの要望もあり警備上の重複による混乱を避けて自粛していたが、前述のように2003年より渡御開始が午後6時に変更となりレース時間と重ならなくなったため、以降は開催されるようになっている。
山車で行われる府中囃子(目黒流と船橋流)は、府中の「郷土芸能」となっている。また当祭は2010年(平成21年)、「武蔵府中(むさしふちゅう)のくらやみ祭(まつり)」として東京都の無形民俗文化財(風俗慣習)に指定されている。

寒山拾得

2019年04月09日 | 社会
中国,唐の伝説上の2人の詩僧。天台山国清寺の豊干禅師の弟子。拾得は豊干に拾い養われたので拾得と称した。寒山は国清寺近くの寒山の洞窟に住み,そのため寒山と称したといい,樺皮を冠とし大きな木靴をはき,国清寺に往還して拾得と交わり,彼が食事係であったので残飯をもらい受けていた。ともに世俗を超越した奇行が多く,また多くの詩を作ったという。しかし,これらの事績はすべて,天台山の木石に書き散らした彼らの詩を集めたとされる『寒山詩集』に付せられた閭丘胤 (りょきゅういん) 名の序,および五代の杜光庭の『仙伝拾遺』に記された伝説に発するもので,寒山,拾得の実在そのものを含めて真偽のほどは確かめがたい。後世に禅僧などが彼らのふるまいや生活に憧れ,好画題として扱うことが多かった。顔輝 (がんき) ,因陀羅などに作品があり,日本でも可翁,明兆,松谿などが描いた。その詩は『寒山詩集』に寒山のもの約三百余首,拾得のもの約五十首を収め,すべて無題である。自然や隠遁を楽しむ歌のほか,俗世や偽善的な僧を批判するもの,さらに人間的な悩みから女性の生態を詠じたものまで,多彩な内容をもち,複数の作者を推測することもでき,さらにその成立もいくつかの段階を経ているとも考えられている。

銀座カフェーパウリスタ

2019年04月08日 | 社会

“西洋のハイカラな飲み物“だったコーヒーが、一般庶民も飲めるようになったのは、明治44年に作られた「銀座カフェーパウリスタ」の功績に負うところが大きいと言われています。

ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫婦をはじめ、芥川龍之介や正宗白鳥、水上滝太郎といった文学の世界で有名な先生たちも常連だった日本最古のカフェ。

「銀座カフェーパウリスタにブラジルコーヒーを飲みに行く」ことから「銀ブラ」という言葉が生まれたほど、本当にたくさんの人々から愛されている名店です。

もちろん今でも銀座の一等地で、営業を続け多くの人に愛されています。