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一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

シーザーサラダ

2019年02月07日 | 社会
シーザーサラダ真のレシピ

ここでは、私が数ある研究書や資料を検討した結果どうやらたどり着いたシーザーサラダの真のレシピや、さまざまな作成法についてご紹介する。

ネタ本は、

Greenfield, T. D. 1995 In Search of Caesar. Alexander Books.

Warner, J. 1994 Joie Warner's Caesar Salads. Hearst Books.

やいくつかの小記事が中心である。さらにそれらのもとネタもあるのだが、おいおい紹介する。

以下に解説するのが、シーザー・カーディーニ オリジナルレシピと見なして間違いがないものである(ただーし、私自身このレシピを守って作ったことが「ない」ので、責任は持てないよん。Caesar Cardiniブランドのドレッシングを買ってきて作る方が安全かもね)。

用意すべきもの(4~6皿用)

ロメイン・レタス 2玉
外側の葉を捨て、洗い、ペーパータオルでよく水気をとり、冷やすこと。ただ、このレタスが手にはいるのか…。独特の味わいのあるこのレタスでないと、あのドレッシングには合わないかもしれません。ちょっとおハイソなスーパーとか、輸入食材を扱う店などでは見かけます(例えば、東京・麻布のナショナルマーケットにはありました。cardini brandのドレッシングも)。
ガーリック・オイル 3/4カップ
大きめのニンニクを4~5かけむいて、オリーブオイル(エキストラバージンが望ましい)1と1/2カップと、同量のサラダ油を混ぜた中に漬けて4~5日おくこと。
塩 ティースプーン1/2
コショウ ティースプーン1/2
黒コショウを、やはりその場でひいて使うのが望ましいと考えられます。
レモン 大玉1/2
もちろん新鮮でなければならず、間違っても容器入りのレモン汁など…。
ウスターソース 6~8ドロップ
大きめのスーパーでも見かける、イギリスLea & Perrin社のウスターシャー・ソースが本場物ということでいいのではないでしょうか。実は、このメーカーが必要となる理由があります。というのも、この中に入っているアンチョビーが、オリジナルシーザーサラダにアンチョビーフレーバーを加える原因となっており、それがその後、直接アンチョビフィレやペーストを加えさせ、「シーザーサラダといえばアンチョビー風味」とされる原因になったと考えられているから。国産のウスターソースは、オイスターエキスなどを使っていたりするので、ちょっと違うのだ。
コドルド・エッグ 2つ
沸騰した湯の中に1分間沈めた、「半生ゆで卵」。なお、アメリカでは(場所によっては)生卵のサルモネラ菌汚染という心配があるそうで、レシピによってはコドルド・エッグの利用をあえて勧めていないものもあります。その場合、マヨネーズなどで代用させることが多いようです。
パルメザンチーズ 1/4カップ
最高のものは、イタリア産のパルメジャーノ・レジャーノチーズです。これをチーズおろしでおろすのがよいと思います。輸入食材店などのチーズコーナーで手に入れることが可能です。次善の策としては、適当なハードチーズをおろすことです。どうにもならない場合は、いわゆる粉「パルメザン」・チーズを使うしかないでしょう。おろしたての風味は得られないですが。
クルトン 1カップ
自作可能。1日たった食パンを、耳を落としてさいの目に切り(5×5くらい?)、多めのガーリックオイルをフライパンにたらしてかりっと煎る。ただし、眺めている料理書では、「ベイク」するように書いてあります。まあ、そこまでしなくてもいいと思いますが、大事なのは、ガーリック風味でしょう。
作成法:こんな感じで作ってください

大きなボウルにレタスを入れる
ガーリックオイルを1/2だけ投入して混ぜる
塩とコショウを投入してざっくり混ぜる
レモンを搾り、ウスターソースを振る
コドルド・エッグをかける
残ったガーリックオイルを加える
チーズを加えて、レタスが全体によくドレッシングとからむまで混ぜる
最後にクルトンを加え、軽く混ぜる
オリジナルでは、手で食べられるように、レタスの茎のほうを外側にして、皿に円形に並べていたようです。

できたらすぐ食べること。そもそも、これはテーブルサイドで、実演しながら作るといった、多分にショー的要素が入っているようで(そもそも発明されたときがそうだった)、そういうサービスをしているレストランが「本物」のようです。

宗教多元主義

2019年02月06日 | 社会
ジョン・ヒック(John Hick, 1922年1月20日 - 2012年2月9日)は、イギリスの宗教哲学者、神学者である。

カリフォルニア州クレアモント大学院大学 (Claremont Graduate University) 名誉教授(宗教哲学)、バーミンガム大学H・G・ウッド記念神学教授、ウェールズ大学ランペター校 (University of Wales, Lampeter) 名誉教授、イギリス宗教哲学会副会長、世界信仰協議会副会長などを歴任。

『神の受肉の神話』(The Myth of God Incarnate)の編者であり、研究テーマに関する数多くの本や論文を著している。

2012年2月9日、死去。90歳没。

思想 編集
ジョン・ヒックはキリスト教徒の哲学者で、宗教多元論の主唱者として最もよく知られている。もともとは伝統的な福音主義者であったが、文化的・宗教的な多様性が現に存在しているという事実を、神の愛と一致させる問題を考えることを通じて、次第に多元論へと向かっていった。彼の説いた宗教多元論は多くのものに影響を与え、例えば日本では作家の遠藤周作に影響を与えた。彼の晩年の作品『深い河』には宗教多元論の影響を窺わせる記述があり、遠藤自身も「深い河創作日記」の中でヒックの著作に影響を受けたことを記している。

もし、キリスト教が伝統的に教えられてきたように、キリストへの信仰を唯一の救済の手段とするならば、そもそも福音や永遠の罰について何も聞いたことのない人々は神によって捨て去られ、永遠の破滅へと向かうことになる。これはセオドア・ドレンジによる「不信仰からの論証」の背後にある考えであり、ヒックが宗教多元論へと移行していったことの背景となっている考えでもある。宗教的信仰とは、大部分において文化の産物であるように見える。世界の圧倒的多数の人々は、自分で自らの信仰を選んだとは言い難く、その多くは生まれた地域や時代、またその家族の信仰を受け継いでいる。そうした人々は、キリスト教の福音なるものを受け入れる素地を持たない。しかし、伝統的、福音主義的、排他主義的なキリスト教の信仰によれば、そうした人たちでさえ、罪のうちに死ぬことが確実なのであり、また、多くの(全てではない)キリスト教の教派の主張によれば、彼らは厳しく非難され、救いを受けることができないとされている。ヒックはこのことがキリスト教の神の愛についての教えと相容れないのではないかと考えた。ヒックの見解によれば、現に他の宗教が存在しているのだから、福音主義的なキリスト教の教えは不整合に陥っているのである。

ヒックはまた包括主義をも否定する。これは他宗教をキリスト教の亜種もしくは変形としてとらえるものであり、キリスト教優越主義というドグマを脱したものではないと主張する。

ヒックのこの問題に対する答えは、宗教的な真理というものを、文化および個々の人間に対して相対的なものとして見るというものである。彼はキリスト教の排他主義を間違ったものとして退ける。その一方で、他の様々な宗教を、それぞれがその文化や伝統などに基づいた形での、「真実在」への適切な応答だとみなすのである。これはキリスト教を含めた一神教に強いとされる『万民のための神』という思想に、多神教に強いとされる『神の多元性』という考え方を組み合わせたものともいえ、諸宗教の根幹精神における一致と現実の形態の多様性を共に承認し、共存の柱とするものである。

ヒックは三位一体を拒絶し、イエスは神の霊に満たされ、愛と慈悲に満ち溢れた偉大な預言者であり、キリスト教徒の指針であるが神そのものではなく人間であるとしている。これは『キリスト教が受肉した神自身により打ち立てられた』という信仰が、レイシズム、植民地支配、キリスト教優越主義など歴史上多くの罪悪を正当化してきたという批判が前提となっている。神の受肉という教義は、あくまでもメタファー(比喩)として考えるべきであるというのが彼の考えである。

ヒックへの、あるいは宗教多元論への批判者は、たいてい、福音について聞いたことのない人々がいることを否定するか、これら無知な不信仰者は地獄に落ちるということを否定するかのどちらかである。さらには、この地獄行きの永遠の断罪は神の愛とは相容れないということを否定する人々もいる。

ヒックは論文「位格の復活」 ("Resurrection of the Person") の中で、死後の生に関しての理論を提示している。この論文で彼は、突然死してどこか他の場所でその人の「生まれ変わり」として「生まれ変わった」人はもとの人と同じ人物である、と説明するのがもっとも合理的だと主張した。それゆえ彼によれば、人が(神によって新しい世界へと「生まれ変わらされる」という仕方で)同一性を保ちながら、異なる世界に存在することが論理的に可能なのである。ただしそれは、何らかの異なる形式においてであろうが。


欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル

2019年02月05日 | 社会
BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」
若き天才、ヨーロッパの知性の新たな継承者と称されるマルクス・ガブリエル。彼の思想が欧米ではもちろん、日本でも話題となり広がりを見せている。格差、分断、民主主義の危機も叫ばれ、テクノロジーが皮肉にも人々に恩恵のみならず不安とストレスを生んでいる時代に日本の可能性は?さまざまな分野の知性、街行く人々など多くの偶発的な対話も取り込んだ対話の旅。その軌跡から見えるのは?2018年日本の予定調和なき思索紀行
【出演】哲学者…マルクス・ガブリエル,阪大教授(知能機能創成工学)…石黒浩,哲学者・東京工業大学教授…國分功一郎,哲学者・立命館大学准教授…千葉雅也

チャウシェスク政権の崩壊 1989

2019年02月04日 | 社会
平成の30年間に起きた出来事を振り返るシリーズの2回目。平成が始まった1989年、世界は激しく揺れ動きました。東西冷戦の象徴・ベルリンの壁が崩壊。東欧諸国が相次いで民主化へ転換しました。その中で、唯一“流血革命”となったのがルーマニア。ご覧いただく番組は、独裁者チャウシェスクに立ち向かう市民の闘いを克明に記録したNHKスペシャル「チャウシェスク政権の崩壊」。冷戦終結は何をもたらしたのか見つめます。
出演者ほか
【出演】東京大学教授…藤原帰一,【司会】森田美由紀



1989年、東ヨーロッパ各国の共産党政府が相次いで崩壊した東欧革命において唯一、武力により共産党政権が打倒された。

ルーマニア共産党書記長のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャの急死(銃撃による死亡)をきっかけに、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。革命軍は1週間で全土を制圧してチャウシェスクを処刑し、非共産党政権を樹立した。


東欧革命

ポーランド民主化運動
ハンガリー民主化運動
汎ヨーロッパ・ピクニック
ベルリンの壁崩壊
ドイツ再統一
ビロード革命
ルーマニア革命


前史

第二次世界大戦において、ルーマニア王国はイオン・アントネスク政権下でナチス・ドイツを中心とする枢軸国に与し、独ソ戦に参戦した。反攻に転じたソビエト連邦軍がルーマニア国境に迫ると、ルーマニアは寝返ったものの(ルーマニア革命 (1944年))、ソ連軍の占領下に置かれ、戦後に王政は崩壊。ルーマニア共産党による一党独裁国家であるルーマニア社会主義共和国が成立した。

ルーマニア社会主義共和国は、チャウシェスク就任後は他の東欧諸国とは一線を画し、ソビエト連邦とも一定の距離を維持する独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソビエト連邦に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源の確保が可能だったためである。ソ連や近隣諸国の影響力を排除した結果、国内におけるチャウシェスクの求心力は高まり、「チャウシェスク王朝」とも言われた個人独裁体制を確立した。

しかしながら、1980年代に入ると経済政策に失敗し、国内経済の疲弊が始まった。対外債務の返済のために飢餓輸出が強行された結果、国民の生活水準は低下。その一方でチャウシェスク自身は国民の館と呼ばれる豪華な宮殿を建設し、一族を要職に就けるなど国民生活を無視するような政治を続けたため、ルーマニア国民の間では独裁政権に対しての不満が日増しに強くなった。こうした状況の中で、1989年に入り中国で六四天安門事件が起こり、東欧でもポーランドを皮切りに各国の共産党政権が次々と倒れると、ルーマニアでも次第に民主化を求める機運が高まっていった。

これに対してチャウシェスクは情報統制と反政府勢力の弾圧強化を図り、民主化運動への一切の妥協を拒否すると共に政権の維持に固執した。

革命の推移

発端
1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る。 このデモは人権活動家で改革派教会(カルヴァン派教会)のテケーシュ・ラースロー[1]牧師をテメシュヴァール市から僻地のシラージ県シラージセグ村字メニェーへの国内追放処分に対するルーマニア国籍となっているハンガリー人たちと彼らに共感するルーマニア人たちによる抗議デモであった。
テメシュヴァール市を含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、トランシルヴァニアと共に1918年のオーストリア=ハンガリー二重君主国の崩壊を受けて1920年に締結されたトリアノン条約により。ハンガリー王国からルーマニア領に編入された地域であった。ルーマニア国民となったハンガリー人住民に対するルーマニア政府の弾圧は苛酷で、ハンガリー人であるテーケーシュの国内退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。


勃発
12月21日 - 首都ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。 ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺された。10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い)。広場はパニック状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送で生中継されていたがチャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見てたじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された(その後、放送は再開された)。
集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかしこの政治集会に対しても治安警察が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが、車両で抗議集会の妨害をする程度にとどまり、直接市民を殺傷することはなかった。市民の政権に対する不満は頂点に達した。
この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防相ワシーリ・ミリャに対し、軍隊による群集への発砲を指示した。ミリャはこの命令を拒否したためチャウシェスクの逆鱗に触れ、その後ミリャは自室で死体となって発見された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防相が自殺した」と報じたものの市民には「処刑された」との噂が広まった。軍首脳の中にも国防相処刑説が広がり、大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。


混乱と逃亡[編集]
12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及びチャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、テレビ・ラジオ局を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。 チャウシェスクは非常事態宣言を出し事態に対応しようと試みるが、国軍が革命勢力に参加したことで頓挫。妻のエレナと共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送他、世界各国のマスメディアで映像が流されるお粗末なものであった。
一見盤石な支配体制を築いていたと思われていたチャウシェスクは、この逃亡劇において多くの裏切り行為に遭った。ヘリコプターパイロットのマルタン中佐はわざと機体を上下に揺らして「レーダーに捕捉され、対空砲火を受けた」と嘘をついて夫妻の逃亡を諦めさせようとした。離陸したチャウシェスクは陸路への逃亡を試み、車を運転していた地元の医師のニコラエ・デカを脅して逃亡を手伝わせた。しかし、革命を知っていたデカは面倒ごとに巻き込まれたくないと思ってエンジントラブルを装ってすぐに一行を降ろした。再び一行は車を洗車していた工場労働者のニコラエ・ペトリソルを脅し、トゥルゴヴィシュテへ向かった。走行中チャウシェスクはラジオで情報収集を試みたが、既にメディアが救国戦線に乗っ取られたことを悟ると激高したという。ペトリソルは街の外れにある農業施設まで彼らを案内し、所長は匿うふりをして一行を一室に案内して監禁し、近くに駐屯していた軍(デカの通報を受けて事前に情報をつかんでいた)に身柄を引き渡した。
その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権批判をして投獄されていた政治犯も釈放された。その後、夜になるとブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と、大統領派の治安警察による激しい市街戦が発生。多数の死傷者が出た。

12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用し国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請、大統領派の掃討に出る。また市民も銃をとり大統領派に応戦する。混乱により情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるが、これを拒否。また、ソ連(ソ連軍)が事態の沈静化の為に介入するが、これも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が逮捕され18時、自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。 以前のソ連であれば、(比較的穏健派のフルシチョフが最高指導者の時代でさえ)こうした反政府クーデターへのソ連軍の介入は「問答無用」であり相手国の受け入れの有無はソ連が後から「あったことにする」のが通例だった(プラハの春など)。しかし、この当時のソ連の最高指導者であるゴルバチョフは自らの新ベオグラード宣言による対外公約を守り、衛星国であった東欧の共産国に対しても強権を振るうことはほとんどなかった。


崩壊
12月24日 - ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。
12月25日 - チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で特別軍事法廷が開かれ、夫妻は大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された。 救国戦線は当初軍事裁判ではなく、ブカレストに夫妻を連行して通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察が基地に攻撃を仕掛け、激しい銃撃戦が展開された。夫妻が奪回されることを恐れた救国戦線は、対応を急いだのであった。また生存説が流布される事を危惧した救国戦線は、処刑された夫妻の死体の映像をメディアに公開した。
銃殺を命じられた軍人3人のうち、2人はパニックを起こし、イオネル・ボエルが引き金を引いた。革命成就後、秘密警察による報復を恐れる住民は彼との関りを避け、妻とも離婚した。「正しいことをやったと思っているが、なぜ私が選ばれたのか」と述懐している。

12月26日 - 救国戦線評議会が新指導体制を発表し、暫定政権を樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。

革命後

政権樹立発表後のイリエスク

チャウシェスクの墓
チャウシェスクの処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受け、暫定的な救国戦線評議会による革命政権を経て、1990年5月20日にルーマニアで初となる多数政党制による自由選挙が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われ、イオン・イリエスクが大統領の座に就いた。

他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得したが、ルーマニアでは革命後に共産党が消滅し、共産党そのものが一時期非合法となった。ルーマニア共産党関係者の中には、救国戦線に参加して政治生命を保った者がいる一方で、「社会主義労働者党(ルーマニア語版)」という政党が共産党の後継政党を称したが、広く支持を得るには至らなかった。

承久の乱

2019年02月03日 | 社会
英雄たちの選択「史上最強?後鳥羽上皇の謎~承久の乱の真実~」

史上最強といわれる後鳥羽上皇は、和歌の道だけでなく武芸全般に優れた上皇だった。上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んだ日本の歴史の大転換点、承久の乱の真実に迫る。
「新古今和歌集」の選者として有名な後鳥羽上皇。一方で、自ら「菊御作」という刀を鍛えさせたという武人の顔もある。文武両道に優れた、史上最強の上皇こそ後鳥羽上皇だった。その上皇が、執権・北条義時の鎌倉幕府に敢然と挑んだ戦いが、承久の乱である。鎌倉3代将軍・実朝の暗殺を契機に、後鳥羽上皇は、朝廷と武家政権のありようをめぐって、北条氏と真っ向から衝突する。日本の歴史の大転換点、承久の乱の真実に迫る。
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】本郷和人,大澤真幸,中野信子,【語り】松重豊


承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。
1185年に鎌倉幕府が成立して以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は将軍の代理人である執権の北条氏が実権を握り、幕府を実質的に手中に収めるに至ったため[1]、日本を統治するのは朝廷であり、朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも影響力を持つようになっていった。

茅野 遊

2019年02月02日 | 社会
宮原 芽映(みやはら めばえ、1959年9月15日 - )は、福岡県出身のシンガーソングライター、作詞家、エッセイスト。かつてはヴァーゴ・ミュージックに所属していた。

北大路魯山

2019年02月01日 | 社会
北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん とも、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。
晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。

人生を「美と食」にかけた北大路魯山人の人生を岡田准一がプロファイル!名言「料理は芸術」を残し、陶芸や書などマルチに活躍した魯山人は、幼少期、親の愛を知らずに育った。やがて頭角を現し、昭和初期には日本一の料亭と言われる星岡茶寮を作り上げる。しかし、高い理想を追うあまり、高価な古美術を買いあさり、気に入らない従業員を辞めさせることも。そして突然、自分の城である料亭を解雇される。魯山人の数奇な人生とは?
【司会】岡田准一,【ゲスト】中尾彬,知花くらら,松尾貴史

魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。
6度の結婚(1908年、1917年、1927年、1938年、1940年、1948年)はすべて破綻、2人の男児は夭折した。娘を溺愛したものの長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオやテレビのホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという。
美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。また、使ったわさびは粉ワサビだった。
つねに傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王・吉田茂などから愛されもした。
気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていた手伝い曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それができなくて叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。
阪急電鉄の創業者・小林一三は、阪急百貨店で魯山人の個展を開いていた。その折、小林は、魯山人に対して、「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。これに対し魯山人は、1943年(昭和18年)10月19日付で小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに、同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会中止を申し出た。

9条の会

2019年01月31日 | 社会
呼びかけ人は以下の9人。※は故人
井上ひさし(作家)※
梅原猛(哲学者)※
大江健三郎(作家)
奥平康弘(憲法学者)※
小田実(作家)※
加藤周一(評論家)※
澤地久枝(作家)
鶴見俊輔(哲学者)※
三木睦子(元内閣総理大臣である三木武夫の妻)※
東大教授の小森陽一などが、運営に関わっている。
世話人会 編集
世話人は以下の12人。
愛敬浩二(名古屋大学教授、憲法学)
浅倉むつ子(早稲田大学教授、労働法)
池内了(総合研究大学院大学名誉教授、名古屋大学名誉教授、宇宙物理学)
池田香代子(ドイツ文学翻訳家)
伊藤千尋(元・朝日新聞記者)
伊藤真(弁護士、日本弁護士連合会憲法問題委員会・副委員長、資格試験予備校伊藤塾・塾長、法学館憲法研究所・所長)
内橋克人(経済評論家)
清水雅彦(日本体育大学教授、憲法学)
高遠菜穂子(ボランティア活動家)
高良鉄美(琉球大学大学院法務研究科教授、憲法学)
田中優子(法政大学総長、江戸文化研究家)
山内敏弘(一橋大学名誉教授、法学博士、憲法学)

N I NBY

2019年01月30日 | 社会
NIMBY(ニンビー)とは、英語: “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉である。日本語では、これらの施設について「忌避施設」「迷惑施設」 「嫌悪施設」などと呼称される。

サンティアゴ巡礼

2019年01月29日 | 社会

■聖地サンティアゴ巡礼
2015年にはじめたスペイン聖地サンティアゴ巡礼5年5回めは「銀の道/Via de la Plata」を計画しま した。
総旅程は2019年 3月30日~5月28日(60日間)
1銀の道(Via de la Plata)
Sevilla→Granja de Moreruela 612.3km(36日間)
2サナブレスの道(Camino Sanabrés)
Granja de Moreruela→Santiago de Compostela367.7km(18日間)
3往復の移動(4日間)
道程はかなり激しいらしく経験者は、次のように例えていました。 「フランス人の道」は、大学サークルの気楽なピクニック 「北の道」は、同好会の少し真面目な集いのハイキング 「銀の道」は、がちがちの体育会系を思わせるトレッキング ・すでに往復航空券、国内航空券、最終の宿等の支払い予約を終えました。 ・スペイン政府救急隊のお世話にならぬよう、毎朝120分のウォーキング40分のストレッチ、10分の ラジオ体操は欠かしません。
※道中FBに投稿してまいります、どうかみなさん応援してください。
・その他 6月7日~6月21日:中山道/下諏訪~草津15日間 6月25日~7月2日:熊野古道/伊勢路8日間 8月1日~8月10日:お遍路/足摺岬~桂浜10日間 8月10日~8月13日:高知よさこい祭り4日間 去年につづき今年ももり沢山です。

大竹まこと ゴールデンラジオ

2019年01月28日 | 社会
大竹まことラジオ金字塔、ライバル伊集院光が祝福
[2019年1月17日14時44分]

大竹まこと
文化放送の看板番組「大竹まこと ゴールデンラジオ!」(月~金曜午後1時~同3時半)が17日、放送3000回の金字塔を打ち立てた。

12年間、パーソナリティーを務めてきた大竹まこと(69)は「1月17日、木曜日、3000回。今まで1000回も2000回も通過点で、別にどうってことなかったけれど、何か3000回となるとちょっと、違うな。ずいぶん続いたなと思います」と冒頭でうれしそうに語った。

節目の放送3000回を迎えた番組は、ライバル局TBSラジオの顔、伊集院光(51)をゲストに迎えた。伊集院はTBSラジオ「伊集院光とらじおと」(月~木曜午前8時半~11時)に出演中。異色のコラボレーションが実現しラジオトークに花が咲いた。

伊集院は「赤坂からきました。おめでとうございます」とゴールデンラジオの快挙を祝福。大竹は「わざわざ来ていただいてありがとうございます」と感謝した。

大竹から「伊集院さん(の番組)は何年?」と問われた伊集院は「昼間の帯を始めて3年です。昼間を引き受ける決意、いろいろありますけど、まあ一番デカイところでは、浜松町のあの男(大竹)でも出来てるんだからって…」と冗談を飛ばすと、大竹の声に不快感が込められ「ちょっとムッとするけどね」と、やり返した。

伊集院から「(昼のラジオ出演を)引き受けるのに勇気が必要だったでしょう」と聞かれると、大竹は「事務所が決めたこと。おれは番組へのオファーは全部で5回断った」と当初はゴールデンラジオへの出演に二の足を踏んでいた内情を明かした。その上で「3000回を振り返って、やっていて良かったと思う」と足かけ12年の足跡について、満足感を得られた心境を語った。

番組は2007年(平19)5月7日にスタートした。初回から大竹の木曜パートナーとして出演してきた光浦靖子(48)も「すごいね。がんばりましたね」と感無量の様子だった。

番組は12年前の放送開始からわずか7カ月で同時間帯の聴取率首位に躍り出た。その後もライバル局の人気番組と長く首位争いを展開してきた。


賀川豊彦

2019年01月27日 | 社会
賀川豊彦

1939年、アメリカで出版された「Three Trumpets Sound」という本で、ガンジー、シュバイツァーと並び20世紀の三大聖人と称された日本人がいた。その人の名は賀川豊彦。当時、賀川豊彦は生活に苦しむ貧しい人々を救済する活動に我れを顧みず取り組んだ。
その一方で、彼は大正時代に空前絶後の400万部を超えるベストセラーの小説を書く文学者でもあった。自伝的小説「死線を越えて」では、自身の前半生を重ね合わせた主人公が弱者を救い、しいたげられていた労働者のため、労働争議などで問題を解決する様が力強く描かれた。また、この小説は当時の日本が抱える社会問題を浮き彫りにする記録的な側面をも持ち合わせ、歴史的に意義のある作品になった。実は、日本人で初めてノーベル文学賞と平和賞の候補になったのは、賀川豊彦だ。この作品を読んだ、後のノーベル賞作家・大江健三郎に、「なんて面白い小説なのか…。あんなにも多くの読者の心をつかむ作品を書くことは、とても自分にはできない」といわしめている。
賀川豊彦は、大正から昭和にかけて社会運動家として弱者救済を訴え、「労働組合」「生協」「農協」など、現在にまで続く日本の相互共助の基礎を作り上げた。「21世紀の日本をグランドデザインした男」呼ばれる、賀川豊彦の人生に迫る。

土井善晴 美食探訪

2019年01月26日 | 社会
今、最も旬の料理研究家である土井善晴が全国各地の市場を巡り知られざる「美味しい物」そして、今、食べるべき究極の逸品を紹介します!
さらに巷で話題の一流店を、料理研究家ならではの目線でグルメリポート!
料理人のプロだからこそわかる、名料理のウラ側やその美味しさの秘密に迫ります!
全編を4Kカメラで撮影、究極の逸品を美しい映像でお届けします!

プロフィール
土井善晴 1957年大阪生まれ。
おいしいもの研究所代表 料理研究家。
大学卒業後、スイス、フランス、大阪にて料理修業。
土井勝料理学校勤務の後、1992年に独立。
十文字女子大学特別招聘教授/甲子園大学客員教授/東京造形大学・学習院女子大学非常勤講師。
和食文化を未来に繋ぐために「和食の初期化」、持続可能な家庭料理のスタイルを提案。

近代文学

2019年01月25日 | 社会

2018年4月~6月放送予定

「カリスマ講師に学ぶ近代文学の名作」

講師:出口 汪(でぐち・ひろし)広島女学院大学客員教授・予備校現代文講師

受験生から圧倒的人気を誇る予備校のカリスマ講師として知られている出口汪さんは「コンピュータは多くの知識・情報を扱うが、教養は人間独自のもので、そうした教養を身につけるには、過去の文学作品の名作に触れることが重要」と語ります。
「名作とは、時代を超えて人に感銘を与える普遍的なもので、そうした名作を深く読みとることにより、私たちの世界が深まり、また様々な角度から物事をとらえ直すことができる。ただし、そうした読み方を可能にするためには、鑑賞の仕方を知らなければならない」と出口さんは言います。
今回は、予備校のカリスマ現代文講師の出口さんに、文豪として知られる森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郞、太宰治など近代文学の名作をその文学史的背景を抑えながら真の教養を身につけていくためにはどのように鑑賞していけばよいのかをお話し頂きます。

出演者プロフィール

出口 汪(でぐち・ひろし)広島女学院大学客員教授、株式会社水王舎代表取締役、東進衛星予備校現代文講師。関西学院大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。現代文講師として、入試問題を「論理」で読解するスタイルに先鞭をつけ、教室が満員となり、受験参考書がベストセラーになるなど受験生から絶大なる支持を得る。そして、論理力を養成する画期的なプログラム「論理エンジン」を開発、多数の学校で採用されている。著書多数。

第1回 4月5日 プロローグ 教養と文学
第2回 4月12日 森鴎外「舞姫」の世界その1
第3回 4月19日 森鴎外「舞姫」の世界その2
第4回 4月26日 夏目漱石「道草」の世界その1
第5回 5月3日 夏目漱石「道草」の世界その2
第6回 5月10日 夏目漱石「こころ」の世界その1
第7回 5月17日 夏目漱石「こころ」の世界その2
第8回 5月24日 芥川龍之介の世界 「地獄変」その1
第9回 5月31日 芥川龍之介の世界 「地獄変」その2と「或阿呆の一生」
第10回 6月7日 近代文学史
第11回 6月14日 谷崎潤一郎「春琴抄」の世界
第12回 6月21日 太宰治「晩年」の世界
第13回 6月28日 太宰治「人間失格」の世界

こころ

2019年01月24日 | 社会
「もの」と「こころ」をつなぐ回路、心理臨床、幸福研究、グローバル定常型社会、知覚、社会脳、ヒトとサル…。数々のユニークな切り口から、第一線の思想家・研究者が縦横に語る。「京都こころ会議」発、充実のレクチャー。
目次
講演1 「もの」と「こころ」の統一へ
講演2 こころの歴史的内面化とインターフェイス(こころのオープンシステムとクローズドシステム
西洋におけるこころの内面化の歴史 ほか)
講演3 ポスト成長時代の「こころ」と社会構想(現在という時代をどうとらえるか
こころとコミュニティ・まちづくり ほか)
講演4 こころの潜在過程と「来歴」―知覚、進化、社会脳(「来歴」とは?
「来歴」によって、多くの謎が解ける ほか)
講演5 こころの起源―共感から倫理へ(黄金律とダーウィンの疑問
類人猿の共感能力 ほか)
まとめにかえて―閉じることと開くことの逆説