渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

フライトジャケット

2021年11月24日 | open





シティビークル

2021年11月24日 | open


1990年代に都内で乗っていたこれ、
本当によく走った。ノントラブル。
乗っているだけで楽しかった。
シフトが左グリップにあるハンド
チェンジの車。他には見ない。
運転すると、とても面白かった。
排気量がまた面白い。
100ccちょっきり。99とか98では
ない。ぴったし100。
日常の足として申し分なかった。
排気音は結構低くて太い。
カワサキの2スト系に似てるような
低めの音で、なかなか良い。

映画『武士の家計簿』(2010年)

2021年11月23日 | open

『武士の家計簿』(2010年/松竹)

森田芳光監督作品。
久しぶりに観た。
ネットやDVDではなくBS放送で観た。
改めて異様な違和感を覚える。

士族の辛酸と機微などは、日本国民
の93%の人員は知らない。
また、全人民のたった7%の階級の
悲哀の伝達や物語表現なは、果た
してどれ程この国の国作りのとな
るのか。
武士の苦しみなどは、武士にしか分
らない。
それは人口比率ではほんの7%にしか
満たない。
そうしたマイノリティの歴史的に置か
れた悲運をあたかも日本人の全人民
が追った歴史の悲哀のように描こうと
する「武士を描いた世の中の全部の
作品物」を私は否定する。
国民の93%は、戊辰戦争だろうが、
「御一新」の明治大帝の世だろうが、
「我関せず」だったのだ。
武士や明治以降の士族の悲哀を語っ
てみても、極限に栓なき事であろう
と思う。
武士の哀しみなどは武士にしか絶対
に理解できない。
そして、それはたった人口比率で7%
のマイノリティの種族の悲しみでしか
ないのだ。
絶対に、その中にいたごく少数の者
たちの種族しか現実の本質を理解で
きない。

「物語」という作品に作り上げて、
それにより「圧倒的大多数」の人々
の歓喜を得ようとする文芸作家たち
の手練手管に、今更ながらだが、言
い知れない虫唾が走った。

空挺部隊のオートバイ

2021年11月23日 | open


第二世界大戦中、空挺作戦で投下
て戦場で使うオートバイがあっ
た。
折り畳んでコンテナカプセルに入
て投下する英軍のウエルバイク
有名だが、故障も多くて走破性
悪く、全く実用性が無かったよ
うだ。
しかし、ロイヤルエンフィールド
フライングフリー(空飛ぶ蚤)は
実用的で、かなり重宝したようだ。


コンテナではなく、フレーム枠で
防護して落下傘投下された。







車重59kg、126cc2ストローク。
軽くて走破性の高いこの英軍のモー
ターサイクルは戦場で大きな武器と
ったようだ。










軽快なフットワーク。
オートバイのオートバイたるところ
を追求するとこうなるというパター
ンの典型。


ドイツ軍の自動二輪 ~第二次世界大戦~

2021年11月23日 | open

映画『大脱走』(1963)から。
トライアンフ TR6(1956-/649cc)

映画『大脱走』では映画製作当時の
現用オートバイが改造されて第二次
大戦中風の二輪として撮影に使われ
た。
ドイツBMW R25(1953-56/247cc)や
英国トライアンフTR6(1956-73/649
cc)等がそれだ。

実際の第二次世界大戦中のドイツ軍
の自動二輪は英国トライアンフを含
めて6社のオートバイが採用されて
いた。
・BMW(べーエムヴェー/ドイツ)
・DKW(デーカーヴェー/ドイツ)
・NSU(エヌネスウー/ドイツ)
・Zündapp(ツュンダップ/ドイツ)
・Victria(ヴィクトリア/ドイツ)
・Triumph(トライアンフ/イギリス)

それぞれの独軍採用機種をまとめて
みた。

<BMW>
バイエルン発動機製造株式会社。
1916年創業。

<独軍採用機種(製造年間/排気量)>
・R4(1932-37/398cc)
・R12(1935-42/745cc)
・R35(1937-40/340cc)
・R75(1938-76/745cc)

R4(1932-37/398cc)






R12(1935-42/745cc)


R35(1937-40/340cc)


R75(1938-44/745cc)






<DKW>
1906年創業。
社名 dampf kraft wagen(蒸気自動
車)は1914年から。

1918年に2ストローク25ccエンジン
搭載の二輪車を製造し、以降2スト
二輪主軸メーカーとして1920年代
以降活躍。後年日本のヤマハが
DKWから影響を受けて2スト二輪
を製造。
DKWはレース車両でヨーロッパ
選手権を席捲していた。1930年代
の大戦前には欧州選手権でDKWは
4回優勝している。
1938年のTTレースでは、ユーワル
ド・クルーゲがDKW250ccマシンで
時速183.2kmという記録的な世界
最高速度を達成した。
ユーワルド・

クルーゲは、1938年と1939年に
欧州選手権でチャンピオンとなった
DKW専属ライダーだった。
戦前の世界最大の二輪車メーカー。
オートバイの歴史はDKWなくして
は語れない。すべてのロードレース
不動の王者だった。
DKW社はのちのアウディの母体と
なった。

DKW1939年SS250GPロードレーサー。
最高速度183.2km/h。当時、クラス
世界最強最速。







<独軍採用機種(製造年間/排気量)>
・RT125(1939-45/123cc)
・NZ350(1937-43/346cc)
・NZ250(1938-40/245cc)


RT125(1939-45/123cc)
世界史的に特筆的なモデル。歴史上

世界一世界中でコピーされた機種と
いわれている。
ドイツ国防軍は、同社の小型モデル
であるDKW RT125を使用することに
難色を示したが、その軽快性から
偵察部隊に採用された。重量はわず
か90kg。
1939年に生産が開始された
DKW RT125は、
初期の自動二輪の
世界的ベースとして使用され、日本
のヤマハYA-1にもその構造がコピー
された。
第二次世界大戦でのドイツの敗北後、

装備と設計は戦争賠償としてソ連が
獲得し、DKWスタッフの主要メンバー
と共にコブロフに運ばれ、そこで
DKWは1946年にコメットK125として
再登場した。また、ドイツにおいては
東ドイツで新しく設立されたMZに
よってRTのバージョンが継続製造され
た。さらには、DKWの設計は、RTが
ハーレ​​ーハマーとして登場した米国や
英国のBSAがRTに基づいてマシンを
製造したりした。それはバンタムと
呼称され、莫大な売り上げを記録した。
第二次大戦中のドイツが生んだDKW社
RT125は人類史の中でモーターサイクル
の発達に極めて重要な歴史的役割を果
たした。

仕様
ブランド:DKW
モデル:RT 125
エンジンタイプ:単気筒2ストローク
エンジン容量:123 cc
出力:6.6 PS
ギアボックス:3速
最高速度:90 km / h

世界各国の二輪に最も影響を与えた
歴史上の名車。







同一人物。つま先乗りをしている。
DKWはレーシングマシンで西欧
選手権を席捲していた世界トップ
のメーカーだったが、この兵士も
レース経験者かも知れない。


NZ350(1937-43/343cc)
NZ350は、最大限のパワーとスピード
を要求するモーターサイクリストを
対象として開発された。
悪路でも高速
走行を可能にするサスペンションに
よりそれまで不可能だとされた平均
速度で高速移動することが可能となり、
独軍も採用した。
当時4ストエンジンでは高回転高出力
が得られず、トラブルも多かったが、
2ストはハイパワーで故障も少なく、
起動戦を望む軍用車としては2ストの
安定度は圧倒的な信頼性をもたらし
た。
500ccまでの同排気量であるならば
21世紀の現代にあっても4ストより
も2ストのほうが構造的にパワーが
出て故障も少ない。これは内燃機関
の機構が異なるので仕方ない現実だ。






NZ250(1938-41/245cc)
NZ 250は、とりわけ、250 cc以下の

国際分類のスポーツイベントに参加
するレーシングライダーのために
作られた2ストマシン。このモデル
をドイツ軍偵察部隊は積極的に採用
した。





排気口を絞っているのは、2ストの
チャンバーの圧縮効果を狙ったもの。

<NSU>
1873年創立。1969年に総合企業体と

して再編が進み、1985年にアウディ
となり、同年NSUの名称が消滅。
NSU(エヌエスヌー)という名称は
1892年から使用されたが、これは
拠点のあった都市Neckarsulm(ネッカー
ズルム)の略語である。市内を流れる
ネッカー川とズルム川が合わさった
のが都市名の由来。
1873年から1918年までは編み機を
製造しており、二輪の製造は1901年
から開始。
第二次大戦中にはドイツ軍の機動車
として有名なケッテンクラートHK101
のハーフトラックを製造した。

<独軍採用機種(製造年間/排気量)>
・601 OSL(1937-1939/562cc)

601 OSL(1937-1939/562cc)



<Zündapp>
ツュンダップ。1917年創業。信管製造

メーカーだったが1921年から二輪の
製造を開始した。
1940年代にはドイツ軍にKS750サイド
カー(1939~)を大量に納品し、その
累計台数は18,695台に及んだ。
それらは対ソ東部戦線(1941-45)と
対英米北アフリカ戦線(1940-1943)
で多用された。

<独軍採用機種(製造年間/排気量)>
・K500(1933-/498cc)
・KS600(1937-41/597cc)
・KS750(1941-1944/751cc)
・KS800(1933-38/791cc)

K500(1933-/498cc)




KS600W(1937-41/597cc)






KS750(1937-1941/751cc)
最高速度95km/h。18,000台以上が

ドイツ国防軍に運用された。




K800(1933-38/791cc)




<VICTRIA>
1901年創業、1966年統合により消滅。
二輪は1902年から製造。

<独軍採用機種(製造年間/排気量)>
・KR35WH(1938-44/344cc)

KR35WH(1938-44/344cc)


<TRIUMPH(イギリス)>
創業1885年。現存する世界最古の

二輪メーカー。
1907年から開始されたマン島TT
レースで開始当初から活躍。
分社化や再編統合を繰り返しながら
も現在も会社は存続している。
1939年に発表したスピードツイン
の高性能版タイガー100は34.5PS、
最高速度160km/hをマークして
爆発的に売れ、トライアンフの
財政危機を黒字に好転させた。
これにより、当時珍しかった並列
2気筒が同社の成功として定着した。

<独軍採用機種(製造年間/排気量)>
・BD250(1939-43/248cc)

BD250(1939-43/248cc)
エンジン:12.16PS / 3800rpm
気筒数:単気筒

形式:ダブルピストン、2ストローク
ボア/ストローク:2 x 45/78 mm
圧縮比:5.5:1
車重:140kg
最大速度:105 km / h 
タイヤ:3.50-19または3..00-19インチ 
燃料タンク容量:11.3 ℓ
燃費:38km/ℓ






以上、ざっとまとめた。

ちなみに映画『大脱走』(1963)で
スティーブ・マックイーンが演じる
ヒルツ大尉がドイツ軍から奪って脱走
を試みるモーターサイクルはトライ
アンフのTR6(1956-)をWWⅡ当時の
ドイツ軍用車風に仕立てた物だ。
オンロードモデルは63年からの構成
で、それまではスクランブラーが主
となっていた。650ccでパワフル。


なお、映画『大脱走』(1963)では、
ヒルツ大尉と英軍中尉のアイブスの
会話で面白い事がある。
来歴を訊かれたアメリカンのヒルツが
「ちょいとbikeに乗っていた」と米語
で言う
と、英国人のアイブスがきちん
とした
英国語で「Bicycles?」と問う。
するとヒルツは米語のくだけたバイク
という表現ではなく「Motorcycles
(自動二輪)だ」とフッと笑いながら
英国英語を使って答えた。

つまり、映画製作公開の1963年時点
で、バイクという
言葉は米語のスラ
ング的な単語では
存在したが、英国
英語圏人には通じ
なかったことを
表している。
アイブスは英軍将校としてはかなり

度外れてお行儀が悪いのだが、それ
の上を行く米兵らしさとしてマック
イーンが演じるヒルツ大尉のいか
にも陽気で破天荒なアメリカンとの
差異として描かれている。
ヒルツは軍務に就く前は大学生で
化学工学を学んでいた。だが徴兵で
日本でいうところの学徒出陣だ。
大学生時代は学費を稼ぐために、
時折フラットトラックのレースに
出て稼いでいたとアイブスに言う。
アイブスは自分もレースは経験が
あると言う。スコットランドの競馬
でジョッキーをやっていた、と。
アイブスは身長が160センチと低い
のだが、このやりとりでレースを
経験しているという事と、身長が
低いと脱走のトンネル掘りに優位
だと気づいた米国人の
ヒルツ大尉
と英国人のアイブス中尉
は意気投合
する。

収容所でドイツ軍看守たちに盾つく
あぶれ者同士、そして、「乗り屋」
同士の意気投合だ。
本作品で極めて、とてつもなく重要
なシーンとして
描かれている。
単なるナチスドイツの収容所からの

脱走としてのグレートエスケープ
ではなく、「自由への脱出」として
の本作のコア部分の布石がこの独房
での米兵と英兵の会話にある。
何を連帯して、何を共同して、何を
ベースに人々の心を繋ぐのか。
それは乗馬と二輪のライドに一つの
人間的な解放を見る、この作品の
根源的なテーマが存在している。
それこそは、肉体的な長短の質性

や国境や表層を超えるものこそが、
人類の希望へと繋がるのだ、という
1963年時点でのこの映画作品の根幹
がある。
見紛う事なき、本作『大脱走』は
歴史的名作なのだ。
そこをこを観ないと、この映画作品
の本質的テーマが見えてこない。
英軍も米軍もナチスドイツ軍も
二輪を使っている。
人として同じだ。
だが、戦争になって、殺し合いを
したという事実がある。
それはなぜなのか。どうしてそう
なることを止められなかったのか。
この映画のテーマはそこにこそ
中心幹がある。
本作品の主人公的な存在として
描かれているのはスティーブ・
マックイーンが演じる米兵ヒルツ
だ。
それがオートバイで空(くう)を
飛び、自由への脱出を図る。
ここにこそ、この名作『大脱走』
という映画のコアがある。
このヒルツとアイブスの独房の壁
越しの会話のシーンの比較文化の
描写のやりとりは、1963
年当時の
世相を反映させたものか戦中の再現
なのかは
不明。
たぶん前者だろう。
ただ、このシーンの主目的は、米兵

と英兵の文化的持ち味の違いを表現
するシーンとして組み立てられてい
る。

同じ「英語」でも、英国語と米国語
と豪州語は異なる。また、文化も
人間的なお国柄と人柄も異なる。
言葉変われば人変わる、という人間
間の法則を表現しているシーンだっ
た。

同様の似たシーンで、ドイツ兵が
「米兵か。珍しい。なんでお前たち
はお前らの議事堂を燃やした敵で
あるイギリスと手を組むんだ?」と
米兵に問うシーンがある。
映画『大脱走』は、戦争映画だ。

ある巨匠の映画監督は言った。
「戦争の悲惨さを描かない戦争映画
などは最低だ」と。
戦争映画とは、基本的に反戦映画

であるのだ。戦争推進情宣映画など
は、どこの国が作ろうとも、それは
戦争映画作品とは呼べない。洗脳
の手段に映像作品を利用している

忌むべき汚れたものだ。芸術では
ない。
映画という映像作品が「文化芸術」
つまり文芸であるならば、多くの

人々の幸せを願うところに向かわ
ない映像や視覚効果を狙う作品は、
悪行となる。コラージュなどが典型
で、心醜い悪意しか存在しない。
地獄への直行便の片道切符を買った

連中がそうした物を作って嬉々とす
る。愚物だ。

映画『大脱走』は言語と字幕で観る
ことをおすすめする。
字幕はかなり簡素化というか、でた
めである事は、中学校を卒業して
英語を履修してきた日本人には理解
でき
る。あ、違う事言ってる、と。
フラットトラックを単なる「バイク
レース」と字幕で表現したりする
ように、全く違う単語を文字で表現
している事や、言葉の違いが観れば
感知出来るからだ。
字幕スーパーを妄信してはいけない。
出鱈目や意図的な方向に導く作為が
存するからだ。戸田奈津子の「悪意
なき悪意」の
翻訳のように。
文化の違いがもたらす軋轢。
これは「言葉」を知悉する事によって
ある程度は回避できる。
だからこそ、異文化の最たる外国
言語や国内に存在する方言には精通
して、「目の前の人が言いたい事
はなんであるのか、という事を理解
しようとする自己行為に腐心しない
と、人と人は民族や国境や、ある
いは自国内の地方ごとの差異を
凌駕して本当の結節点を見出す
事は不可能だ。
だからこそ、「言葉」の理解は絶対
的なポジションで重要なのだ。
人が人と本当のところで交流を
して同一的な深部での理解を求め
ようとするならば。
狭い自国内の方言や自国の言語だけ
を絶対唯一とする思想は、それは
人類悪だとも断言できる。

トライアンフ自体はドイツ軍も使って
いたのだが、この並列2気筒のタイガー
エンジンの機種が採用されたかどうか
は不明。資料に無いから、採用はBD
250のみかも知れない。
ただし、独軍も250ではあるが、トラ
イアンフを採用していたのは事実だ。
軍用車の二輪は基本的に後年でいう
ところのスクランブラーになる。
舗装路を走るのではないから。
オフロード特化専用二輪車が登場する
のは、戦後かなり過ぎてからの事だ。

歴史あるメーカー

2021年11月21日 | open


なんとなーく、友人の子はプジョー
のジャンゴに乗りそうな気がする。
創業210年て、すごいすね、この
メーカー。
おフランス。
馬力の単位のPSもおフランス。

最近はキロワット表示やニュートン
表示が多くて、いちいちPSやkg換算
しないと私にはよく分からない(笑

サバの天ぷら

2021年11月21日 | open


テレビでやっていたゴマサバの天丼
がめちゃくちゃ美味しそうだった。
天つゆの作り方も撮影されていた。
覚えた。
サバの中でも珍しいゴマサバはなか
なか釣れない高級魚だが、水分が多
いので水の切り方が重要。
それも解説していた。
覚えた。

これはなんとかサバ天丼にそのうち
挑戦したい。
瀬戸内海で一般的なタコの天ぷらは
味が絶品なのだが、瀬戸内海以外で
はあまり知られていないようだ。
ベタッとした土産物や作り置きでは
なく、やはりサクサクの揚げたての
タコ天が美味しい。
本日の番組でやっていたように、衣
は炭酸水で溶くと味がさらによくな
るかも知れない。
ただし、瀬戸内海地区のタコの天ぷ
らは各家庭により味が異なる。
うちの場合は、卵を特別な溶き方で
溶いたものを絡める。
店の物よりも私個人は好みだ。
ただ、瀬戸内海沿岸地区以外では蛸
が手に入りにくいだろう。
生きている蛸だ。
それをしめてヌメリを取るところか
ら始める。
瀬戸内海地方では江戸期から武家も
庶民もタコを食していたので、大抵
の家庭人は生蛸をさばける。

だが、サバ天は私は未知だ。
個人的に一番好きな天ぷらはハスだ
が、魚ではキスだ。
東京では超定番のキス。
キスにもアオとシロがあるが、東京
湾のキス釣りは江戸時代から大人気
だった。
釣りの歴史を調べると、江戸時代の
江戸の人々の釣りがとても面白い。
そして、天ぷらは、外国の人にもか
なりおすすめの「和食」だと思う。
手間もかかるのは分かるけど、天ぷ
ら専門店に行くと天ぷらは高級料理
だけどね。料亭なみの値段する。


しかし、庶民も廉価な金額で親しめ
るのも天ぷらだ。
考えた人、天才。
16世紀頃にカピタンが日本にもたら
したのだが、洗練させたのは日本人
だろうなあ。
1660年代の書物には既に天ぷらが
出てくる。

武士が頰かぶりをしているのは、
屋台での買い食いが誰と知られぬ
ように体面を考えてだろう。着物
も無紋で袴さえ履いていない。
無論、藩士や幕臣ならば、見つか
れば咎めを受ける。
旗本奴の水野十郎左衛門が即切腹
となったのは、市中での無頼の詮
議で呼び出された際に袴を履いて
いなかったからだ。
武士で外で袴を履かないのが許さ
れたのは幕臣の同心のみだった。
史実研究家には、江戸期の武士の
外見上の見分け方は大小よりも
袴での識別が強い、との見解を
示す者もいる。
武士以外の階級との見分けは袴の
着用の有無であり、市中では向こ
うから袴を履いた人間が歩いて来
たら町人は緊張した事だろう、と。
それは腰の大小よりも即識別でき
たので、まず袴を履いているかど
うかで武士かそうでないかを見分け
た事だろう、と。
現代の裁判所で面白い光景を見た事
がある。
裁判所書記官と交渉中に、その書記
官が裁判官にお伺いを立てる為に執
務室に入る時だ。
その書記官は、それまでは上着を脱
いで革靴も脱いで室内履きを履いて
いたが、ただ単に裁判官の部屋に入
ってほんの1分程意向を伺うだけなの
に、背広の上着を着て、革靴を履き、
そして鏡に向かい、身づくろいを整
えてから直立不動で執務室のドアを
ノックした。
私のほうも何だか江戸時代の奉行
にいるような錯覚が起きた。
考えたら、自分より目上の人が向こ
うから来たら、社内であっても立ち
止まって直立して礼をするというの
と同じく、民間企業でも身を正して
役員や折衝先担当者に面談するとい
うのは当たり前事なのだが、裁判
所の殊更の厳格さはさながら江戸期
の奉行所のように感じた。
空気がピンと張っている。
それと同時に、官民関係なく、日本
の役務仕事の場面での礼儀作法や
仕事人の所作は、江戸期の武家作法
に今でも則っていると感じた。
チョリースなどと言ったら、そうし
た仕事の場では存在はできない。

寿司屋も天ぷら屋も蕎麦屋も、移
動式の屋台が江戸の主流だった。
基本立ち食いだ。
食の歴史は詳しくはないが、もし
かすると、システム化されたファ
ストフードの先駆は日本の江戸の
食文化かも知れない。
江戸文化、面白い。

斬術

2021年11月21日 | open


剣法三要素。
体術、刀術、斬術。
これが三位一体とならないと、技法
面における剣の理(ことわり)の内実
には迫れない。
どれか一つさえも欠けては駄目。
机上空論の空気斬りになってしまう。



不人気だったダンダラ羽織

2021年11月21日 | open


新選組隊士の回顧録によると、隊服
として大丸に作らせたダンダラ羽織
は、麻で薄いペラペラの夏服であり、
安っぽくて不人気だったとの事だ。
土方歳三などは袖さえ通した事がな
かったかも知れない。
映画やドラマ、小説講談では浅葱色
に白く染め抜いたダンダラ羽織が
制服のように登場するが、実際には
即廃止となっていた。
そして、現実には上下黒ずくめが
新選組の隊服として人気があった
ようだ。
新選組のダンダラの肩章等は現存し
ているが、不人気だったダンダラ
羽織は、一着も現存していない。
というか、発見されていない。

浅葱色とははなだ色に近い、薄い
緑がかった水色。死装束の色であ
り、また、安物の着物の裏地の色
でもあった。
江戸の吉原などでは、地方から
戸に来た江戸表勤番武士を田舎者
とあざ笑って、「浅葱裏」と陰口
をきいた。
洒脱さのかけらもなく洒落と粋を
全く理解できぬ田舎侍が着ている
物の裏地の事を揶揄した表現で
り、今で言う「カッペ」のよう
ものだ。
カッペの語源は茨城あたりの出身
者が「だっぺ」と言うのを揶揄し
たもので、さらに1980年代に千葉
も一緒くたにして「チバラギ」な
る造語が「ださいたま」と同時期に
発生した。
江戸の遊女は江戸生まれでなない
者が多かったにもかかわらず、
浅葱裏と地方から来た武士を嘲っ
たのには、複雑な心理状態が存在
した事が伺える。
元来は、自分もどこかの在の百姓
の出であるのに。
今の東京人の近隣諸県を「カッペ」
呼ばわりしているのに似ている。
元々はルーツはよそ者のくせに。
家康以来の江戸者ではない流れの
人間たちのほうが多い。
それが他者をカッペ呼ばわりして
優越感に現代ニワカ東京人は浸る。
ただ、それは江戸遊女とは多少感覚
は異なるように思える。
江戸者は、「野暮天」が嫌いなのだ。

似たような洒落を解さず野暮の極み
を見るような感覚に襲われる事が地
に行くとある。
これは上方より西の中国地方と江戸
より北の東北に行くと強く感じる。
それは「笑い」のツボがまるで異な
文化の地方に在住してみた時に
顕著だ。例えば中国地方。
東京は上方からのお笑いに学び、江
戸古典落語が発生した。
近代お笑いの現代物でも上方大阪の
「ボケとツッコミ」の王道セオリー
は東京のお笑いでも骨子としてデン!
と存在する。
それより古い江戸古典落語でも、
与太郎のボケにツッコミながらも
「しょうがねえなあ」と言いつつ
決して仲間外れにはしない心意気
が江戸のお笑いの中にも江戸時代
からあった。
だが、中国地方などでは「ボケと
ツッコミ」の文化が一切存在しない。
そのため、ボケたりつっこんだりし
たらマジ切れされたりする。これ
まじ。事実。皆しかめっ面でムッ
とする。現代不寛容社会の代弁者
ように表情が険しくなり、おちゃ
らけた(東京・大阪から移住した外
から来た者たちの)側は意図が外れて
途方に暮れて憮然とする。
そして、地元ではおもろいと思って
やってるだろうローカルTVのCM
などのお笑いネタが、東京人から
するとめちゃくちゃつまらない。
はあ?みたいに。
大阪人複数もそれを観て私に漏らし
ていた。
「はあ?」と。
東京人でも上方漫才は大爆笑するし、
吉本新喜劇を観ても、くっだらすぎ
るのだが大笑いする。
だが、そのセオリーの「笑い」が全く
無い地域があるのだ。
これ、かなり、人的関係構築で生活
が困難になる。
箒さかさま立て掛けや「ぶぶどすえ」
よりもかなり厄介だ。

東人が多かった新選組の諸君は、京
で人気者だったとも聞くが、それは
大盤振舞いをせずともそうだったの
か。
謎。
ただ、「好いても惚れん」の京の女
の心根を勘違いしていた新選組隊士
多かったのではなかろうか。

スナイパー

2021年11月21日 | open

ローザ・シャーニナ

先の大戦中、ソ連には多くの優秀な
スナイパーがいた。
有名なのは男性のヴァシリ・ザイツ
ェフだろう。
1943年に目を負傷するまで、257名
の敵兵を射殺した。
しかし、ソ連の特筆的な事は、女性
のスナイパーが非常に多かった事だ。
こればかりは英米日独でも見られな
かった。現代でもそうだろう。

容姿がかわいらしかったローザ・
シャーニナは、ボルトアクション
ライフルを用いて2点を連続狙撃
できる離れ業を持っていた。
1945年1月28日に砲撃による戦傷
で死亡するまで、59名の敵兵を射
殺した。
死亡した時、まだ20歳だった。

野戦では何が恐怖かというと、狙撃
手だ。砲撃程に怖い。
大戦中も戦後の世界各地での戦争や
紛争でも、狙撃手程恐怖の対象はな
かったようだ。
戦争の用兵思想としては、殺戮より
も負傷を負わせる事のほうが戦略上
は効果的だ。そのために弾丸はフル
メタルジャケットにしている。殺人
目的ではないから。殺害目的ならば
ダムダム弾のような弾丸が有効だが、
国際協定で使用が禁止されている。
会戦では一人でも多く「負傷者」を
出させる事が救護と救出に人員を割
くために、用兵思想の一つとしては
有効とされるのが戦争のセオリーだ。
しかし、スナイパーによる狙撃は、
確実に「殺人」を目的として行動が
遂行される。原爆のようなものだ。
殺戮以外の目的は無い。
焼夷弾は逃げ延びて生きながらえる
可能性もある。
だが、核兵器投下と小銃による狙撃
のみは「殺戮」を目的とする戦争の
一手段だ。
そして、ソ連は分からないが、一般
的な欧米の軍隊では、味方からも
狙撃手は忌み嫌われている。
目的が「制圧」ではなく「殺人」に
特化されている任務なので、通常の
軍隊の軍事行動や目的と異なるから
だろう。人殺しのみが任務だ。
一般的軍隊は人殺しが任務ではなく、
制圧による力の行使が目的で、その
ために軍事行動を実行して、政治的
な目的を完遂するために戦争がある。

狙撃手は射撃が巧ければなれるポジ
ションではない。
途方もない忍耐力と、意志の強さと
知力(これ一番大事)と体力が兵士に
必要になる。
動かぬように排尿や排便は伏せたま
まで済ます等は戦闘機乗りと同じだ。
大戦中の戦闘機のコクピット内部は
便所の匂いだ。戦闘服を着たまま用
を足すのが戦闘機乗りだ。狙撃手も
同。10センチ手を動かすのに30分
位かける事もざらだ。
狙撃手を倒すには、航空支援で一面
を爆撃もしくは砲撃するか、敵狙撃
手に味方狙撃手を直接対戦させるし
か手は無い。
戦争の重要な一環を担うスナイパー
だが、通常の会敵戦闘とはやる事と
求められる資質と任務が全く異なる。

スカートで寒くないのかな。


美人

2021年11月21日 | open


昨夜、久しぶりに1986年の美人を
見た。
今がどうのこうの言っては駄目だ。
誰でも歳は取る。
加齢による外見の変化を揶揄する
頭弱い連中だって、みんなしわく
ちゃババアになったりジジイにな
るのは確実だ。それまで生きてい
られれば。
経年変化の容姿を云々するのは、
天に唾吐くようなもので、確実に
自分に降って来る。馬鹿はそれを
自覚できない。

一瞬であろうと輝く者は美しい。
その美しさは永遠だ。


天空

2021年11月21日 | open

超巨大な鳳凰とそれに相対する龍。

昨夜は、いざよい。
汝、躊躇ありしや。



京の街

2021年11月20日 | open
 
中学の頃から京都への憧憬がある。
毎年3回ほど京都に行った。
足が遠のいたのは90年代に入って
からだった。
高校の頃に私が京都に住みたいなぁ
言ったのを聞いていた京都の
大学
に進学した奴が久々に会った
時に
言った。
夏は暑いし冬は寒い。よそからの
観光客だらけで、地元感がないの
で付き合ってみると滅法意地悪だ。
とても住みにくい、と。
そりゃ俺ら江戸の東戎は住みにくい
だろさ。
でも、地元に住んでみると、外から
見た景観とは違う実態がよく見える
のだろうなぁ、とその時思った。
 
それでも京都にはある種の憧れが
私にはあった。先祖ゆかりの寺も
あるし。
それよりも、私の憧憬の念の源は、
とりもなおさず、幕末に日本の世の
中が大変動を起こすきっかけに
なった千年王国の地だからだ。
伊豆下田からではない。
激震地は間違いなく日本の首都京都
だった。
ただ、仮に私が幕末にいて京に命で
行くなったら、だんだら羽織
の諸
君と対峙しなければならな
かったか
も知れない。
だが、時期による。
長州征伐の頃は、芸藩は幕府寄り
で、新選組近藤殿も幕命で広島藩
まで出張していたりした。
しかし、状況は日毎に変化したの
で、いつのどの時点かで、諸人の
立場が大きく変わったのが文久元治
慶應の時代だった。
 
京都からの若者の人口流出が深刻
らしい。
観光客頼りで市の財政が維持できる
筈はない。
これは、企業誘致地方都市政策の
根源的な欠缺と全く同じだ。
企業誘致などは、企業が撤退したら
万単位の人口が減少する。
市政は財政破綻する。
中国地方では、広島県の三原市など
が典型だが、今なお企業誘致策
で乗
り越えようとしている。
無理だ。
町は今や福永武彦の作品の「廃市」
のようになって来ている。
「人が住みたい町」にならない限り、
市政財源は確保できない。
観光や企業誘致の一過性に偏重する
と、やがてそれらの基板が消滅した
ら、一気に土台が揺らぐ。
天下の京都でさえ、迷走段階に入っ
しまった。
 
 

京、晴れ

2021年11月20日 | open


京、晴れ、である。






この意味、外国人に理解できるの
であろうか。
否、現代日本人においても。


これが本物の五条大橋。
現在の五条大橋とされる新橋より
上ル。


2021年11月20日 | open


江戸時代から道割は変わっていない。
抜刀納刀の際には土佐英信流の壁添
のような技法が必要になる。
佐幕側にしても、精武流のような小
太刀剣術がかなり実戦的だった事だ
ろう。
また、新選組が幕法を犯して三尺近
い大刀を帯びたとの伝は、諸般の実
情を鑑みるに、俄かには措信し難い。

お気に入りの店。
ここは好きだ。


京の都は日本一食い物が美味い。