1973年、作者本人によって
衝撃的な作品が世に出た。
衝撃的な作品が世に出た。
もろにブラックユーモアだ。
それが『劇画・オバQ』だ。
これを『おばけのQ太郎』の
正式続編だとすると、1960
年代の名作「オバQ」は全
否定になってしまうという
笑えない結末なのだ。
正式続編だとすると、1960
年代の名作「オバQ」は全
否定になってしまうという
笑えない結末なのだ。
15年ぶりに人間界に戻った
Q太郎は、昔暮らした街で
正ちゃんたち昔の友だち
と再会する。
Q太郎は、昔暮らした街で
正ちゃんたち昔の友だち
と再会する。
だが、みんな大人になって
おり、社会の歯車の一つと
して動いているので、もう
おり、社会の歯車の一つと
して動いているので、もう
子どもの時のようには遊べ
ない、となる。
ない、となる。
Q太郎は正ちゃんの家族と
してかつては暮らしたが、
今は経済的にも養えない。
してかつては暮らしたが、
今は経済的にも養えない。
そして、正ちゃんには子ど
もが産まれるので、オバQ
の行き場は無くなってしま
った。
もが産まれるので、オバQ
の行き場は無くなってしま
った。
街も人も変わった。
もう、人間界でオバQがいる
場所はない。
場所はない。
Q太郎は虚しく一人空に去っ
て行くのだった。
て行くのだった。
こんなひどい話をよく藤子
不二雄は描くなあと、当時
腹立たしかった。
不二雄は描くなあと、当時
腹立たしかった。
「サンタクロースなんてい
ないよ。あれはアメリカの
清涼飲料会社がわざと赤い
ないよ。あれはアメリカの
清涼飲料会社がわざと赤い
服を着せて、人間が物を
売るために作られたホン
トはいない人なんだよ」
売るために作られたホン
トはいない人なんだよ」
と子どもに真実を伝えたか
らと、何の得があろうか。
得も徳も無い。
らと、何の得があろうか。
得も徳も無い。
この1973年発表の『劇画・
オバQ』だけは、こういう
作品はあっては駄目だ。
オバQ』だけは、こういう
作品はあっては駄目だ。
他の人が描いたアナザー
ストーリーならまだしも、
作者本人がそれはないだ
ろう。
ストーリーならまだしも、
作者本人がそれはないだ
ろう。
あんまりだ。
オバQのキャラはブースカ
と重なり、それはやがて
ピョン吉になり、グーグー
ガンモに受け継がれて行っ
た。
と重なり、それはやがて
ピョン吉になり、グーグー
ガンモに受け継がれて行っ
た。
グーグーガンモの最終回も
涙無くしては読めない物語
だった。半平太たち全員の
涙無くしては読めない物語
だった。半平太たち全員の
記憶は消されるのだ。だけ
ど、なぜか空を見上げる彼
の目には涙がつたう。
ど、なぜか空を見上げる彼
の目には涙がつたう。
そのラストシーンは映画
『時をかける少女 2010』
で引き継がれた。
『時をかける少女 2010』
で引き継がれた。
そうしたオマージュは、多
くの旧作ファンの製作者に
よって表現される。
くの旧作ファンの製作者に
よって表現される。
しかし、オバQの話が『劇画・
オバQ』を正式な続編とする
ならば、もう絶望的にオマー
ジュさえも生まれ得ない程
に存在が否定されて爆砕さ
れたのだ。
オバQ』を正式な続編とする
ならば、もう絶望的にオマー
ジュさえも生まれ得ない程
に存在が否定されて爆砕さ
れたのだ。
それは、『ハレンチ学園』
において、最終話で主人公
たち全員が内戦で爆死した
のでもう続編の作りよう
がない事に等しい。
において、最終話で主人公
たち全員が内戦で爆死した
のでもう続編の作りよう
がない事に等しい。