Don't Get Around Much Anymore
Julie Malia & Joscho Stephan
Guitar Duo
いいね~。
原付2ストエンジンのボア
アップ時の混合比計算の
一例。
【問題】
<問1>
分離給油1:50設定のエン
ジン車の満タン5リットル
ガソリンタンクに、混合
比が1:60の混合ガソリン
が1.5リットル残っていて、
3.5リットル分を新たに給
油する時に、新規給油分を
1:70比率の2スト混合ガソ
リンとする時の2ストオイ
ルの量はいくらか。
<問2>
また、その給油により、全
体設定の混合比はいくつに
なるか。
なお、新規給油分について
も分離給油は1:50比率で併
用されるものとする。
2スト原付をボアアップし
てのナラシ運転で2ストオ
イルを増量させて混合ガソ
リンを給油してエンジンを
回す時には、上記のような
計算をしないとならない。
問1は簡単だ。
ガソリン3.5リットルにつ
いて1:70の2スト混合比で
あるから混ぜる2ストオイ
ルの量は50ccだ。
多少複雑に見かけ上見える
のは問2。
また、総合で合計混合比を
狙った数値(例えば1:20等)に
するには逆算により算出す
る。
<条件>
①1:50の分離給油吐出(標準)
②1:60の混合ガソリン既存1.5ℓ
③1:70の混合ガソリン追加3.5ℓ
分離給油分を含めて全体を
1:20の混合比にするには、
3.5リットルガソリン追加
給油の時には混合ガソリン
用の2ストオイルの量はいく
つになるか、というような。
比率を通分して足すが、液
量もそれに掛ける。
・1:60の混合ガス1.5ℓに含ま
れる2ストオイルの量
1.5✕(1/60)⇒1/40ℓ
・1:70の混合ガス3.5ℓに含ま
れる2ストオイルの量
3.5✕(1/70)⇒1/20ℓ
混合ガソリン分オイル量
⇒(1/40)+(1/20)=3/40ℓ
ガス全体の混合濃度
⇒(3/40)/5=3/200=0.015
⇒1.5%
これに分離混合比1:50分の
2ストオイルをガソリン5リ
ットルあて吐出分プラスす
る。
さて、全体の混合比はガソ
リン総量5リットルでいく
つになるか。
オイル追加分も液量増量に
参入しないとならない。
まあ、小学校の分数の問題
だが、作業現場でパッパと
やるのはややこしい。
別混合比ガスを混ぜるな、
ややこしい、てやつ。
下手したらセッティング出
しではなく崩しのいじりに
なる。
ヤマハが発明した一般公道
車用の分離給油って、楽だ
ね(笑
オイル継ぎ足して、混合比
を機械的に調整して設定す
るだけだから。
ただし、レースなどでは、
2スト車は混合ガソリンを
使う。ガソリン用ポリタン
クでシャカシャカと混ぜて。
2ストオイルごとの引火点、
動粘度、粘度指数、流動点
などによって混合比を変更
していく。
これらの数値は2ストオイル
ごとによって異なるので、
このマシンでこういう状況
でこういう走りをする時に
は、この銘柄のこのオイル
を使う際にはこの混合比、
こちらのオイルではこの比
率、というように選択絞り
込みをして行く。
それは、各選手やチームの
人のみが持っているノウハ
ウに基づく。
2ストマシンは乗り方も極
めてそうだが、セッティン
グが非常にセンシティブだ。
何事も大雑把に接すると、
2ストバイクはまともに走
らない。
グズる駄々っ子になる。
だが、それさえも可愛い。
パシリと決まると、天馬の
ように駆け抜ける。
横浜のチベットとか現在は
ネット上で揶揄されている
横浜市西南部の戸塚区だが、
その歴史は古い。
・1604年 東海道戸塚宿誕生
・1859年 横浜港開港
・1887年 東海道本線戸塚駅
開業
・1939年 鎌倉郡内1町7村が
横浜市に編入戸塚区誕生
・1955年 ワンマン道路開通
・1964年 横浜ドリームランド
開園
・1969年 戸塚区から瀬谷区が
分区
・1975年 戸塚区人口、全国政
令指定都市区で最大に
・1986年 栄区、泉区が分区
・2002年 横浜ドリームランド
閉園
横浜の戸塚エリアは元々は
南部が鎌倉だったが、昭和
14年に横浜市に編入されて
横浜市戸塚区として成立し
た。
戸塚区の面積は膨大で、私
が小学生の頃の昭和44年に
瀬谷区が分離して新区とし
て誕生する。市内で初めて
の分区。
その後、昭和61年に栄区、
泉区が戸塚区から分離して
誕生した。私が横浜市北部
の鶴見区に住んでいた頃だ。
戸塚区はかつては鎌倉市の
北、藤沢市の北と東から横
浜市南西部全域にわたる広
大な区だった。
私が小学生の頃はどこまで
行っても戸塚区(笑
また、湘南海岸、江の島が
ある藤沢市の北部よりも遥
か南部までが戸塚区で、い
わゆる藤沢より南も横浜市
だった。
横浜市の中でも実はハマと
いうのは横浜港のある中区、
神奈川区、磯子区、かろう
じて港続きの鶴見区あたり
までを指し、内陸部は横浜
市であってもヨコハマとい
う印象ではないのが地元横
浜市民の正直なところの感
覚だった。今は全域「横浜」
という感覚らしい。
戸塚区などは湘南藤沢市北
部エリアよりもはるかに神
奈川県の南部地域まで広が
っていたので、藤沢の駅の
そばから戸塚区南部に家を
建てて引っ越しても、そこ
が「横浜」という感覚は実
際のところ1960年代には薄
かった。
横浜市戸塚区の南部のエリ
アは文化圏、言語圏は歴史
的にも全く鎌倉・藤沢と同
じだったからだ。元々行政
エリアが鎌倉だし。
なので、実は横浜市であっ
ても戸塚区南部エリアはヨコ
ハマというよりも湘南の校
外、というような感覚が強
かったのが実際の昔のジモ
チーの感覚だった。
ハマというのは中区周辺だ
よね、みたいな。
但し、横浜市内は徹底して
開明都市横浜の横浜教育を
するので、横浜市内全域の
横浜市民は横浜市歌を全員
がソラで歌える。
横浜市歌を歌えるか否かが
本当の横浜市民であるか否
かのモノサシにさえなる。
成人後に外部から横浜市内
に転住した人は登録上は横
浜市民であっても、ハマっ子
ではない、という図式がデン
と横浜には存在している。
横浜に子ども時代に育った人
がハマっ子なのである、とい
う意識性がかつては存在して
いた。開明性の土地の中にあ
って、それとは一見矛盾する
かのようだが、アイデンティ
ティとしての芯のような矜持
に似た濃い気風があった土地
が横浜だったといえる。
戸塚区南部エリアで育った人
たちは一応ハマっ子ではある
のだが、山下公園に行くより
藤沢湘南に出るほうが極近な
ので、ハマっ子でありながら
湘南ボーイズ感覚も非常に強
かった。
かといって、横浜市北部の港
に面した鶴見区は、これまた
元々は相州ではなく武蔵国で
あり、横浜市中区周辺とは言
葉も文化も異なっていた。
これは事実として存在する。
戸塚区から中区あたりではま
だハマ言葉が普通に使われて
いたが、北部の鶴見区ではジ
モチーは一切「じゃん」言葉
を使わない。まだジャンが方
言であった頃に横浜で育った
世代の人たちは。
今は日本全国どこでも若者た
ちはジャンジャン言ってるが、
半世紀以上前はジャンは横浜
独自の方言だった。
今の埼玉県さいたま市(旧大宮
市)などにはジャンそのものが
存在せず、1970年代に私が横
浜から転住した際にはジャン
が珍しくて親しまれながらも
かなりいじられた。変な言葉、
なにそれ~?みたいに。
ハマ言葉のジャンの登場と普
及は遠州からの港湾労働者の
流れからと昔ハマのジモチー
からは聞いていた。
横浜市自体がとんでもなく
広い市だが、その中でも戸
塚区はなにこれ?という程
に広い区だった。
1960年代末期は、田舎の田
園風景の中に新興住宅地の
戸建てが一気に乱立してい
たような区。
ちょうど団地=公団集合住
宅のブームから高度経済成
長によって戸建てブームが
到来した頃に戸塚区は校外
住宅地として大発展した。
一方、後に1969年に戸塚区
から分離して成立した北西
部の瀬谷区は戦前から軍需
工業地帯でもあり、戦時中
は都心部の学童疎開先でも
あったエリアだった。
戸塚区内の南部よりも工業
化が進んだ地区が北部=後
の瀬谷区だった。
戦後は付近の厚木飛行場が
米軍基地となったが、爆撃
機や戦闘機が現在の瀬谷区
内に墜落したり、軍事基地
問題があからさまに表面化
したエリアでもあった。
米軍基地は戸塚区内には多
くあり、深谷の米軍最大の
通信隊基地、後の瀬谷区内
の通信基地、他にも多くの
米軍基地が横浜市内には存
在していた。
最大の占領地は中区根岸の
米軍住宅で、小高い日当た
りの良い山手の丘の広大な
面積を米軍が占領接収して
在日米軍軍人家族の住宅を
連ねていた。
戸塚区の深谷通信隊の基地
の中にも根岸と同じ米軍住
宅があり、アメリカ人の家
族たちが親子で沢山住んで
いた。
横浜市内の基地そばに住ん
でいる小学生たちは、フェ
ンス越しに同年代のアメリ
カ人の子どもたちと言葉が
通じないながらも、身振り
手振りで交流を図り、いろ
いろ心を通わせていた。
そして、「なぜここにフェン
スの壁があるのだろう」と、
小学校低中学年ながら疑問
に思ったのだった。フェン
スを見て育った横浜子ども
たちは。
目の前に「外国」があるか
らだ。
そして、いろいろな事に気づ
いて行った。
それがヨコハマの子だった。
横浜市は今では全国トップ
ランキングに入る「住みた
い町」となっている。
だが、本物の横浜人となる
には、横浜の歴史を横浜人
の責任の一環としてきちん
と自覚して背負っていく事
も大切だろう。
それこそ他人事で目を逸ら
して背を向けて逃げようと
はせずに。生きる場所とし
てのヨコハマを真正面から
見て目を逸らさずに。
ハマ生れ、ハマ育ちたちは
その人と人が高次に溶け合
う接点のやりとりをごく普
通に、ごく自然に、ごく日
常的に、無意識のうちにや
っている。やらざるを得な
い土地だ。江戸末期から。
それがハマ気質だ。
横浜が日本一古くて新しい
近代都市であるのは、そう
した人の開明性にこそコア
がある。
中華街にしても、単なる食
道楽観光客集合場所ではな
い。
なぜヨコハマなのか、だ。
なぜ中華街が横浜にあるの
か、だ。
横浜で暮らすというのは、
そうした人としての心の真
摯な面を忘却亡失していて
は、ただ単に寝起きの場所
として横浜にいるだけで、
「横浜で暮らす」という事
にはならない。
それは、日本人として日本
に住む意味、を見つめ直す
事と相通じる。
そうした思惟の精神活動と
は別に、単純に生活環境と
してみるならば、横浜市は
生活するには抜群の土地だ。
これは、確か。あらゆる面
で。
清冽な澄んだ事も、濁った
事も併せ持つ土地だが、得
てして土地も人も明るい。
皆が前を向いている。
きちんと、目を逸らさず、
しらばっくれずに後ろを振
り返りながら。
そういう気質の町。
それが横浜。
外から転住した人たちは気
づくかも知れない。
元々横浜で育った人たちは
ふとした笑顔がとても明る
い。
あれ?これは何なのだろう、
と。
自分には無かったものと出
会って、何か大切なものに
気づかされる事があるかも
しれない。
その出会いがあるならば、
それだけでも人生の中で
横浜に住む価値はある。
横浜に住む人は、転勤、転
校、結婚、就職、通勤事情
などのよほどの事情が無い
限り、横浜を離れないんだ
よね、なぜか。
それはなんとなく分かるよ
うな気もする。
横浜には未来があるから。
「みなとみらい」なんての
は言い得て妙だと思うよ。