終活が一向に進まない。一人の人間が生きてきて、その付属物となると
至る所から出てくる出てくる。録画した映画も結構な数だ。。
整理していくとその中に、新藤兼人監督・脚本の「裸の島」があった。
1960年の映画だ。ウィキペディアによると、「近代映画協会」が資金難から
解放することになり、その記念として作られたそうだ。
キャスト4人、スタッフ11人、撮影期間1か月。500万の低予算だというから驚きだ。
モスクワ国際映画祭でのグランプリをはじめ、数々の国際映画賞を受賞している。
その結果、「近代映画協会」は解散せずに済んだ。
お椀を伏せたような小さな孤島に、父母、長男(小学生)、次男(未就学児)の
4人だけで暮らしている。
水もない、店もない、学校もない、医院もない、隣人もいない。
あるのは山の急斜面を開墾してできた段々畑と海だけだ。
畑といっても痩せた土地で、水やりしても直ぐに地面にしみ込んでしまう。
その水も小舟を漕いで、隣の島まで汲みに行かなくてはならない。
桶に汲んできた水が、4人の命と作物を支えている。
乙羽信子演じる母親が、汲んできた水を天秤棒で担いで、山の急斜面を一歩一歩
登っていく。この場面が何度も何度も繰り返される。
ある時、転んで水をこぼしてしまう。
すると殿山泰司扮する夫が飛んできて平手打ちする。
それくらい水は命と同じなのだ。
鯛が釣れると、一家四人が小舟に乗って町に売りに行く。
何軒も回ってやっと売れると、そのお金で食堂に入り楽しそうに食事をする。
子どもの下着のシャツも買うことができた。
この映画はモノクロでセリフは殆どない。だが感情はしっかり伝わってくる。
乙羽信子の笑顔はなんであんなに美しいのだろう。
長男の具合が悪くなった時に、両親は水くみに出ていた。
島には医者も隣人もいない。次男はただ両親が帰って来るのを待つしかない。
医者を連れてきた時にはすでに手遅れで、長男は命を落とす。
お葬式の時の母親の正装が浴衣だったのが哀しい。
いつものように畑に水やりをしていると、母親は急に気がふれたように
桶をひっくり返し、作物を引っこ抜き始める。そして地面に突っ伏して号泣する。
父親は分かっているだけに、なすすべもなく見守るしかない。
この時の殿山泰司のやるせないような、困ったような表情が、何とも言いようがない。
しばらくするとまた、母親は黙々と水やりを続けるのだ。
この映画を観ていると、せりふは邪魔だということが分かる。
目にしっかり刻まれて、忘れられない映画になった。
こうした経験は、「ニーチェの馬」以来のことだ。
二つの映画に、「生きる」ということを教えてもらった。
最近、奇をてらった内容の映画が多いように思う。
興行成績は良いようだが、筋だけの、派手で騒々しいだけの映画はごめんだ。
(敬称略)
(画像はお借りしました)
至る所から出てくる出てくる。録画した映画も結構な数だ。。
整理していくとその中に、新藤兼人監督・脚本の「裸の島」があった。
1960年の映画だ。ウィキペディアによると、「近代映画協会」が資金難から
解放することになり、その記念として作られたそうだ。
キャスト4人、スタッフ11人、撮影期間1か月。500万の低予算だというから驚きだ。
モスクワ国際映画祭でのグランプリをはじめ、数々の国際映画賞を受賞している。
その結果、「近代映画協会」は解散せずに済んだ。
お椀を伏せたような小さな孤島に、父母、長男(小学生)、次男(未就学児)の
4人だけで暮らしている。
水もない、店もない、学校もない、医院もない、隣人もいない。
あるのは山の急斜面を開墾してできた段々畑と海だけだ。
畑といっても痩せた土地で、水やりしても直ぐに地面にしみ込んでしまう。
その水も小舟を漕いで、隣の島まで汲みに行かなくてはならない。
桶に汲んできた水が、4人の命と作物を支えている。
乙羽信子演じる母親が、汲んできた水を天秤棒で担いで、山の急斜面を一歩一歩
登っていく。この場面が何度も何度も繰り返される。
ある時、転んで水をこぼしてしまう。
すると殿山泰司扮する夫が飛んできて平手打ちする。
それくらい水は命と同じなのだ。
鯛が釣れると、一家四人が小舟に乗って町に売りに行く。
何軒も回ってやっと売れると、そのお金で食堂に入り楽しそうに食事をする。
子どもの下着のシャツも買うことができた。
この映画はモノクロでセリフは殆どない。だが感情はしっかり伝わってくる。
乙羽信子の笑顔はなんであんなに美しいのだろう。
長男の具合が悪くなった時に、両親は水くみに出ていた。
島には医者も隣人もいない。次男はただ両親が帰って来るのを待つしかない。
医者を連れてきた時にはすでに手遅れで、長男は命を落とす。
お葬式の時の母親の正装が浴衣だったのが哀しい。
いつものように畑に水やりをしていると、母親は急に気がふれたように
桶をひっくり返し、作物を引っこ抜き始める。そして地面に突っ伏して号泣する。
父親は分かっているだけに、なすすべもなく見守るしかない。
この時の殿山泰司のやるせないような、困ったような表情が、何とも言いようがない。
しばらくするとまた、母親は黙々と水やりを続けるのだ。
この映画を観ていると、せりふは邪魔だということが分かる。
目にしっかり刻まれて、忘れられない映画になった。
こうした経験は、「ニーチェの馬」以来のことだ。
二つの映画に、「生きる」ということを教えてもらった。
最近、奇をてらった内容の映画が多いように思う。
興行成績は良いようだが、筋だけの、派手で騒々しいだけの映画はごめんだ。
(敬称略)
(画像はお借りしました)