「労使」と「協同」が果たしてそもそも字面としても成立するものなのか?
労組が主体性を失い、その存在意義を見失ってしまう一助ではないのか?
という、jojoさんのご質問について、いま思うことを書きますね。とても
難しくて、本質的なご質問であると思うので、コメントでなくこっちに書きます。
自主管理企業の実践を見ていると、自主管理企業の生みの主体であった労働組合が、
企業を存続させることの困難と忙しさに忙殺されて、労働組合としての機能を失ってしまう
というジレンマを抱えてきたように思います。
「自主管理企業」や「労働者協同組合」の中にも、企業体を経営する以上、「管理する者」と
「管理される者」との職務の分担があり、そこに対立も生まれてきます。また、「管理する者」と
「管理される者」との間に責任の重さの軽重もうまれ、賃金は平等でよいのかという問題も
うまれてきます。
このような対立を、企業体としてどう保証し(そのためには自主管理企業のなかに労働組合を
つくるということも必要だと思いますが)、どう解決していくのかという問題は、自主管理企業や
労働者協同組合が、存続していく上では、決して避けては通れない問題であると思います。
jojoさんの、「労使」と「協同」が果たしてそもそも字面としても成立するものなのか
という鋭いご指摘については、「協同」のなかにあっても生まれる「労使」の対立をどう解決していく
のかという問題が残るということ、そして、労組が主体性を失うということにつていは、自分たちの働
く職場を、自分たちで作り、運営するという責任の重さを、自主管理企業を作って人たちは、担い続け
なければならないということ、そしてその自己決定の楽しさと苦しみは、誇りを持って働くということに
おいて、とても大切なことなんだと、僕は思うのです。
ご質問の回答になっていなければ、ごめんなんさい。
労組が主体性を失い、その存在意義を見失ってしまう一助ではないのか?
という、jojoさんのご質問について、いま思うことを書きますね。とても
難しくて、本質的なご質問であると思うので、コメントでなくこっちに書きます。
自主管理企業の実践を見ていると、自主管理企業の生みの主体であった労働組合が、
企業を存続させることの困難と忙しさに忙殺されて、労働組合としての機能を失ってしまう
というジレンマを抱えてきたように思います。
「自主管理企業」や「労働者協同組合」の中にも、企業体を経営する以上、「管理する者」と
「管理される者」との職務の分担があり、そこに対立も生まれてきます。また、「管理する者」と
「管理される者」との間に責任の重さの軽重もうまれ、賃金は平等でよいのかという問題も
うまれてきます。
このような対立を、企業体としてどう保証し(そのためには自主管理企業のなかに労働組合を
つくるということも必要だと思いますが)、どう解決していくのかという問題は、自主管理企業や
労働者協同組合が、存続していく上では、決して避けては通れない問題であると思います。
jojoさんの、「労使」と「協同」が果たしてそもそも字面としても成立するものなのか
という鋭いご指摘については、「協同」のなかにあっても生まれる「労使」の対立をどう解決していく
のかという問題が残るということ、そして、労組が主体性を失うということにつていは、自分たちの働
く職場を、自分たちで作り、運営するという責任の重さを、自主管理企業を作って人たちは、担い続け
なければならないということ、そしてその自己決定の楽しさと苦しみは、誇りを持って働くということに
おいて、とても大切なことなんだと、僕は思うのです。
ご質問の回答になっていなければ、ごめんなんさい。
ストンと胸に落ちました。
ありがとうございました。
ございました。