あれは、いつの日だったのだろう。花巻市を流れる北上川のイギリス海岸の川岸に佇んだのは。
仙台に帰ってきてからだから、30代後半か。もう、いつのまにか30年以上の時が流れている。車を降りて、河床に降りて、たしかに白い凝灰質の海岸の一画に立って、流れゆく景色を眺めていた記憶がある。
そのイギリス海岸が、最近は川に沈んでなかなか眼にすることができないこと、しかし「年に一度だけ」、上流のダムの流れを抑えて水位を下げ、イギリス海岸が現れるようにする計画があること、その「年に一度だけ」の日が、宮澤賢治さん(これから、花巻市民のように賢治さんと呼ぶようにする。)の命日である9月21日であること、を知ったのは、実はごく最近のことである。
そのような「フレコミ」のため、きのう始発の在来線で花巻に向かった。
30年ぶりにイギリス海岸の河岸に立ったのは、午前9時ころ。イギリス海岸は、かすかに河床に望めたが姿を現していない。警備のオジサンにきいたら「午前10時ころには、いいんでねえの」という答えだつた。
駅で買った卵サンドを食べながら、近くのほとりで1時間待った。全く変わらなかった。
「きっと、ダム屋さんたちは一生懸命ダムの流れを抑えるべく大きなバルブを閉めているのだろう。」と勝手に変な想像をしながら、昼頃まで、約3キロはなれた「雨ニモ負ケズ賢治碑」を訪ねてくる。
街に正午のチャイムが流れるころ(賢治さんのメロデイではなかった)、大いなる期待のもと、イギリス海岸の河岸に立った。全く変わらなかった。
河岸の手スリに歩き疲れて、渇いた体を預け、30分眺めていただろうか。全く変わらなかった。
周りにヒトはそれなりに行き来していたが、地元の常連か「こどすは、だめだなぁこりゃ」と口々に挨拶を交わして過ぎていく。
怒りでも、あきらめでもない、なにかしらの憔悴を覚え、花巻城址と鳥谷崎神社を経由して帰路とする。賢治さん由来の蕎麦屋には長蛇の列。駅休憩所にて乾いた喉にnewdaysで購入した500mビールを流し込み、午後の一ノ関駅行きに乗り込む。
あのイギリス海岸は、江戸時代の初期に河川のバイパス工事によりできた河川の流れにより河床が洗われて出現したという、奇跡のスポット。
賢治さんの「イギリス海岸」という作品によると、その泥岩の岸辺は、まだヒトの住んでない時代、5、6十万年まえから100万年前に汽水の海岸や沼だったところ。賢治さんたちや農業学校の学生たちは、その海岸から木の実の化石や偶蹄類の足跡(ゾウやヘラジカのようないきものか)をみつけて歓喜したという。そのような遊び場所が、戦後まさかの観光地となろうとは、賢治さんも生徒さんも、思いつかなかったろうに。
○○万年のあいだ、いくつかの火山灰や土石の流失、地殻変動により沈んでいた海岸が、ヒトの手によって偶然に地上に現れたのは、地質時間からすると4,5百年前というごく最近のこと。
イギリス海岸が、姿を現さなくなった原因は、上流にいくつもの水力発電用ダムができたためか。国交省のパンフには、「そのことに直接触れていない」が、9月21日の試みを、「発電に使う水を減らす」と書いてあり逆読みすれば、ダムがかなりの原因を作っているのだろう。もちろん柔らかな凝灰岩のこと、水流で日々削られ、河床を下げていることも原因だろう。(同パンフにある林風舎の書き込み)
イギリス海岸は、自然の推移と「ヒトの手によって」まるで幻影のように、ふたたび地上から姿を消そうとしているようだ。
イギリス海岸さん、「お日様がまぶしすぎて、またゆっくり眠りたいのだろう。」
花巻市の観光スポットから「イギリス海岸」が消え、観光案内板が取り外される日も、そう遠い日ではないのかもしれない。