きのうの仙台は日中30.2℃、明日からの山旅に向けて2キロちょと先の仙台駅に「青春18きっぷ」、隣接するヨドバシカメラに「携帯シェーバー」を買い求めるために歩いて往復してきただけでも、クラクラするほど暑いと感じてきて、「やはり熱中症予防のために、これからはバスにするか」なんて弱気になっているオイラを発見したが、この日の東京は、33℃を越えていたという。
コロナ、コロナとばかりTOKYO2020の危うさを嘆いてきたが、よくよく考えてみれば、この暑さの中で、トライアスロンや陸上競技などの屋外競技を行うということは、炎熱地獄に選手を投げ落とすという残虐至極な行為なのであって、コロナ以上に選手に命の危険をさらすもので、まったく「お・も・て・な・し」になっていない。
環境省の暑さ指数(WBGT)からしても、東京は、連日「原則運動中止」の指数31を超えているのであって、国がやめろと言っている運動会を、よりによって1年で最も危険な時期にやらせるのであって、「アクセルとブレーキを一緒に踏む」というこの国の支離滅裂さは、コロナ以前から存在していたのだ。
そもそも、莫大な放送権料という大国放送局のエゴに屈したIOCのいうがままに、わが国の一番運動に適した10月や5月を除外したことからして、この五輪は、はじめから「悪魔に魅入られていた」といえ、バブルという空想により、いまや燎原の火のごとく広がろうとしている大会関係者のコロナ感染と相まって、この大会は「〇〇」に終わるものと断言したい。敗戦は目に見えている。
なにやら、若者などの間でも、戦時下の東京から疎開するがごとく、五輪の期間東京を脱出して、東北などに避難するものが増えているのだというが、彼らもオイラと同じ「五輪を気持ちよく見ていられない」ヒトビトに属するのだろう。
そんなオイラの明日からの第一次疎開先?として、新潟側から北アルプス北部の山旅を計画しているが、その間、「日本アルプスを世界に紹介して、日本アルプスの父といわれる登山家ウェストン(1861-1940)」が、今は白馬岳2932.3m(しろうまだけ)と呼んでいる大蓮華(おおれんげ)に登ったルートを麓の蓮華温泉から同じように日帰りで歩いてみようと思っている。
ウェストンの記録「日本アルプスの登山と探検」(岩波文庫)によると、彼は同僚の宣教師らと1984年(明治27年)7月のちょうど今頃、新潟県の親不知(2019年下った栂海新道の起点で、アルプスの尾根が海に沈む地点)をまず見物してから糸魚川経由で湯治客でにぎわっていた蓮華温泉に登り、翌日朝4時に起きて、当時銀を採掘していたといわれる蓮華鉱山を経由して大蓮華を往復している。
このルート、すでに鉱山は廃坑となっていて、いまや「葉のついた生木の枝で作った小屋とは呼べない鉱夫たちの宿舎」や事務所や精錬所などはあとかたもないようで、昭文社版「山と高原地図」によると「鉱山道は、歩く人が少なく経験者向き、また大雨時は利用不可」と記されていて、歩くヒトの稀な難コースみたいだが、逆に言うと人でにぎわう白馬のメインコースから外れて静かな山旅を味わうことができ、目を閉じるとウェストン一行や鉱山関係者のにぎやかな声も聞こえてきそうなので、ぜひ途中まででも歩いてこよう。
なお、深田久弥さんの「日本百名山」の記述によると、白馬岳がいつごろから「しろうま」と呼ばれるようになったのかは明らかではないようだが、白馬岳は、越中・越後側では古くから「大蓮華山」と呼ばれていて、日本海側から見るその山は、雪で白く輝いて蓮華の開花に似ているからその名がついたのだという。なお、深田さんは、ウェストン一行が「大雪渓」を下っていると記しているが、ウェストンの上記著書によると、どうやら元来た道を蓮華温泉に戻って、今の大糸線にそって徒歩で長野県に大町向かったのではないかと思われる。大雪渓を下ったにしては、立ち寄った村里の地名が合わないので、そのように考える。
たぶん、深田さんは、ウェストンたちがハイマツの枝を払ったのを橇のようにして雪渓を下ったという件を読んで「大雪渓」と誤解したようだが、明治のころは、今と違ってまだ残雪も多かっただろうから、大蓮華から鉱山道に到る雪渓を橇で下ることができたのではないか、そのように考える。
こんど、鉱山ルートを歩いたら、そんな雪渓を写真に収められたらいいなと思うが、もう無理かな。ウェストンのあの時代、ハイマツを橇にして雪渓下りを楽しんだ時代、つくづくうらやましいな。今だったら、「森林法違反」、「自然環境破壊」で、お上からこっぴどくお叱りをうけるのだろう。
今回の山旅のお供に、このウェストンの岩波文庫持っていって、在来線に揺られながら開こうか。18キップは、ウェストン時代の旅の速度を共有できる大事なツールでもあるのだ。