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かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

高き山に登れ

2017-11-26 05:08:55 | 日記

前日の疲れが残っていたようで、海岸線を2時間ばかり歩こうかと思って宮良の浜に下りたが、p900を右手に持っていたものだから、ふいに宮良川の河口に、こないだの「クロツラヘラサギ」くんが居やしないか、探しに。

これから潮が引くのだろうか、まだ食事に訪れる仲間は少なく、チュウサギ君の若いのが、ちらほらとしているくらい。「クロツラヘラサギ」君は、もっと南に渡って行ったのだろうか。絶滅危惧種の彼らは、全世界に3000羽、なんでも台湾には2000羽の越冬地があるそうだが、ひとたび病気が蔓延するとあっという間に大量死することから、返って心配なのだという。

海岸に見慣れぬ美しいピンクの花が咲いていた。帰って、手持ちの図鑑にもないから、ネットで「海岸に咲くマメ科の花」で検索したら「ハマナタマメ」という植物で、大きな硬い豆ができるのだという。鞘や豆が、有毒とも食べられるとも報告があるので、もっと詳しく調べておこう。アリさんたちが花粉なのだろうか、群がって採取しようとしていた。陽がさえぎられ、風も弱く、暑くも寒くもない海岸で、子孫を形作るため、美しい花を咲かせ、その花粉を他のイキモノに託す、このようなイキモノたちの営為こそ「平和」というのだろうか。

図書館から借りてきた五木寛之さんと立松和平さんの対談集「親鸞と道元」を読んでいて、どうやらオイラは浄土教やキリストに対して誤った固定観念といったものを持っていたようだ。五木さんたちの話の一部を要約すると地獄というものはあの世のことではなく、この世のことであり、親鸞や道元のころは飢えや戦(いくさ)、天災事変が日常化し、地獄絵図はまさに日常のスケッチであった、現代でも、飢餓や戦争は深刻であり、後期高齢者が施設に入れられ、チューブだらけで延命措置を受けている社会は地獄であることには変わりがない。そのような地獄を作り出しているのは、大方が人間であり、仏教である「宿業」である。その、「宿業」を背負いながらどう生きるか。

まあ、ここからが肝心なのだが、親鸞だって死んだあとに浄土に行くとは思っていなくて、生きているうちに浄土を悟る。「死を待たずして、もういっぺん生き直す。」といことだそうだ、だったら、山伏の山駆けや、禅僧の座禅と浄土宗信者の念仏は、手法の違いなのであって、生きて仏になる→いかに生きることが幸せに感じられるか。それを、どう他者にも伝えるか、→という宗教の役割に、差違はない。のではなかろうか。

という、このような拙い日記をYOUTUBEの「メサイア」を聴きながら書いているのだが、聖書のテキストも、現実の苦悩からの脱却を表現しているに過ぎず、誤解を恐れずに言えば、神が誕生する栄光を、高き山に登って大声で他者に伝えよ、とは仏教絵画で、阿弥陀さまが天女らとともに高き山かげから来迎する喜びを今に感じよ、といってるのと同じなのではなかろうか。

盲人たちが見えるようになり、、唖者が歌えるようになり、、聾者が聴こえるようになり、歩けなかったものが飛び跳ねられるようになる奇蹟も、生きている間にもう一度生まれ変わったという精神を表現したものなのだろう。

「メサイア」を聴くたびに、なにかこう幸福の心持が高まっていくのだが、ヘンデルもバッハもあの世がいかに素晴らしいのかを説くために作品を書いたのではなく、この世に何と美しいメロディと響き、そして崇高な言葉があるのかを、オイラたちに教えてくれているのではないか。

荒れ野で呼ぶ声のする。「民よ、高き山に登れ、大きな声で神の栄光を伝えよ」とのテキストに誘われるまでもなく、来春のSTY終了後、オイラの後半生をどう生きるかという問いに対しては、「山に登って、下りたらまた登りたい。」と答える。

山頂でご来光を仰ぎ、万歳するのも、ブロッケン現象にご来迎といってありがたく手を合わせ、誰もいない空に向かって「ヤッホー」と叫ぶ行為も、すべて生き返りのための宗教的行為に属するのだろう。

いささか、自己正当化のための「牽強付会」か。

 

http://www.geocities.co.jp/Hollywood/9240/Composer/messiahtext.htm メサイヤ1部対訳

 

https://youtu.be/ZzgmNPt6GMc  You tube から  ボールド   ロンドン響版で


 

 

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