きまぐれ日記

散策での発見や孫の成長などをきまぐれに綴ります

ポーラ美術館コレクション展

2010-08-17 16:56:47 | アート・文化

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箱根仙石原のポーラ美術館から、印象派とエルコール・ド・パリの名品が、

みなとみらいの横浜美術館にやってきました。

猛暑のなかふらふらしながら行ってきましが、熱中症寸前でした。

館内はすいていて、ゆっくり鑑賞できた。

クロード・モネ ≪睡蓮の池≫

自宅の隣に土地を購入し、睡蓮の池と庭園を造営し、その庭ではじめて手がけられた18点の「睡蓮」のひとつです。正方形の画面を太鼓橋がゆるやかに横切り、その影が下端に紫の帯をつくっています。青や紫は睡蓮の葉の間にも繰返さ、池が日陰にあることを思わせます。水面が明るく見えるのは、陽光を帯びた柳の緑を映してのこと。もつれあうような光と影の一瞬の様相が、理知的な構図と色彩対比のなかに、みごとに描きとどめられています。(展示解説より)

フィンセント・ファン・ゴッホ ≪ヴィゲラ運河にかかるグレース橋≫

ファン・ゴッホはオランダの小村フロート・ズンデルトの牧師の家に生まれた。彼は画商、ついで伝道師を志したが1880年以降、画家として制作をはじめた。1886年、画商の弟テオを頼ってパリに行き、歴史画家フェルナン・コルモンのアトリエで学び、エミール・ベルナールやトゥールーズ=ロートレックらと知り合う。彼は印象主義や日本の浮世絵の影響を受けつつ、激しいタッチと強烈な色彩を用いて感情を表出した作品を制作した。
 1888年2月、ゴッホは南仏アルルに到着した。アルルの明るい陽光と生命力に満ちた自然は、彼に活力を与えた。彼はアルルを取り巻く運河にかかる橋と洗濯場で働く洗濯女たちを描いており、3月14日頃のテオ宛の手紙にはアルル=ブーク運河の《ラングロワ橋》(クレラー・ミュラー美術館)と本作品と思われる作品の制作についての記述がみられる。ヴィゲラ運河のグレーズ橋はアルルの南に位置していた。ゴッホは橋と土手の黄色、空と運河の水面の青色に加え、橋上の人物や奥に広がる低木林、ボート、洗濯女たち、水面のきらめきなどにアクセントとして赤を用いている。縦、横、斜めのタッチが重ねられ、後年の作品に特徴的なうねるような筆の動きはまだみられない。ゴッホはパリ滞在後半からアルル滞在前半にかけて橋を数多く描いているが、これには「橋」に仲間を求めるゴッホの心情の表われが指摘されている。ゴーガンとの共同生活以後、橋は描かれていない。
 5月、彼は「黄色い家」を借りて画家の共同アトリエをはじめ、ゴーガンを呼んで10月末から約2ヵ月、ともに制作を行なった。しかし意見の相違から二人のあいだには争いが絶えず、12月23日、ついにゴッホは剃刀で自分の耳たぶを切り落とす。その後ゴーガンはパリに戻り、ゴッホは1889年5月にはアルルを離れ、サン=レミ近くの精神病院に入院する。二人は以後、二度と会うことはなかった。(ポーラ美術館 収蔵作品の紹介より)

画像  左:横浜美術館 中:≪睡蓮の池≫ 右:≪ヴィゲラ運河にかかるグレース橋≫

コメント
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