叙事詩 人間賛歌

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人間賛歌 賢聖の境涯 四

2006年12月10日 | 賢聖の境涯
  聖徳太子 続き

 太子は、学問だけでなく、武芸にも優れ、
蘇我の馬子が、物部の守屋と争った時、十四歳だった太子は、
馬子に加勢して出陣した。

武門の誉れたかい物部勢に押されて、
蘇我勢が劣勢になったとき、太子は弓を引き絞り、
仏法を守護する、四天王を念じ矢を放つたところ、

矢は馬上の敵将に当たり、一矢で射取めた。
これを機に、蘇我勢は勢いを盛り返し、
物部一族を、滅ぼしたのである。


太子が後に、四天王寺を建てたのは、このときの仏天の守護に、
報恩感謝するためであった。

表向きは、
新興勢の蘇我氏が、仏教擁立派で、
旧勢力の物部氏が、反仏教の立場であったので、
仏教信奉者の太子が、仏教派の蘇我氏に、
加勢したとされている。

しかし内実は、新旧の勢力争いもあり、
蘇我氏の血を引く太子が、母の実家である、
蘇我氏に加勢したのは、
当然であったのかもしれない。


 そのころ中国では、
文帝 (在位581ー604 )が、隋の国を興し、
戦乱と、廃仏運動後の混乱を収拾していた。

文帝は、法華経の正師といわれる天台大師を師とし、
自分も仏教を、信奉すると同時に、法華経の正義を広めて、
中国仏教の全盛期を築いた。

文帝には、次のようなエピソードがある。

あるとき日照りが続いて、国中の民、百姓が困った時、
天台大師が、雨乞いの祈祷をした。
その結果、三日三晩雨が降り続いて、
国中の民、百姓が歓喜したことがあった。

天台大師の、雨乞いの祈祷の場にいた文帝は、
あまりの嬉しさに、宮廷に戻るのを忘れてしまった。
と言うのである。

文帝の仏法を求める真剣さが、
伝わってくる、エピソードである。

聖徳太子も、隋の文帝も、ともに法華経を信奉したが、
仏典には、これとは逆のエピソードが載っている。
続く


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