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[SF] 霧に橋を架ける

2017-04-10 22:08:37 | SF

『霧に橋を架ける』 キジ・ジョンスン (創元SF文庫)

 

積読消化。

なぜか、長編、もしくは連作だと思っていて、S-Fマガジンに掲載された分の前後譚が載っているものだと思っていた。ああ、あれ読んだし、と思って後回しにしていたのだけれども、読み始めてから短編集だと気づいて驚いた。それだけ、表題作が衝撃的だったということだろう。

他の収録作についても、S-Fマガジンで初訳のものが多い。明記されていない作品も、なんだか読んだ気が。「ポニー」も、「噛みつき猫」も初読みとは思えないんだけれど、これはデジャブという奴か。

キジ・ジョンスンの作風は、教義のSF(Scientific Fiction)というよりは、《slipstream》や《Strange Fiction》に分類されるべきものではないかと思う。しかし、個人的にはその手のものを大抵は面白く思えないのに、彼女の作品には拒否反応が全くない。

たとえば、「26モンキーズ、そして時の裂け目」では、猿たちが消える理由も、消えた間にどこに行ってるのかも、まったく解明されない。そして、猿たちがこんなに高い知能を持っているかのように見えるのが事実なのか、錯覚なのかも明らかにされない。それでも、“SFとして”違和感が無いのは、彼らに対する主人公の考え方、スタンスが明確であるからなのかもしれない。

「26モンキーズ(略)」の主人公エイミーは猿たちの行動に対し、理由はあるけれども自分にはわからないと結論付ける。このスタンスが実に重要なのだ。理由は無いのではなく、理由はあるけれども、自分にはわからない。

実は、科学的考え方というのは、このスタンスに非常に近いのではないかと思う。科学の本質は理由の解明ではなく、現象の観察にある。相対性理論はそれ自体が疑うべきではない真実なのではなく、実際の観察と一致して初めて意味を持つ。科学者が言えることはただひとつ、観測された現象には説明可能な理由があるに違いないということだけだ。

異世界の土木SFとして話題になった表題作にしても、橋を架けるべき“霧”に関しては何の説明もされない。舞台が“どこ”なのかも明らかにされない。しかし、そこでは、“霧”の存在以外物語は(敢えて科学的とは言わず)論理的に進む。そこで繰り広げられるのは、普遍的な変化と喪失の物語であって、決して“霧”の正体解明ではない。

しかし、物語のラストでは、主人公の一人は“霧”の先の海を見たいという夢を語る。

SFはIF(もし)の文学だと言われる。もし、猿が消えるなら。もし、“霧”が世界を分断していたなら。もし、犬たちが言葉を話し始めたら。かつて、野田昌宏は言った。「大嘘はついても、小嘘はつくな」。

ジョンスンは最初に大嘘を吐いた上で、そこから論理的に導かれる物語によって、普遍的なテーマを描いている。だからこそ、SFファンにも受け入れられる《Strange Fiction》を書くことができるのだろう。