『テキスト9』 小野寺整 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
第1回ハヤカワSFコンテスト最終候補作のひとつ。
なんとこれが、支離滅裂で破天荒で、小説としては商業出版というよりは同人誌レベルな出来としか言いようがない。しかし、その不完全さが、実はSF的大ネタへの伏線になっているという驚くべき作品だった。
これは翻訳の物語であり、概念の物語であり、愛の物語である。わたしの物語であり、あなたの物語である。そして、世界は生まれた。
ファンタジーでよくある話ではあるのだが、この地球とは完全なる異世界であるはずなのに、地球と同じような動植物相があり、同じような文化があるのは何故なのか。それに対する答え、それは“翻訳”されているからである。
たとえば、この小説でも登場人物のひとりがサイコ・ガンをぶっ放すシーンがあるのだが、それは同人誌的な安易なパロディではない。
実際にその場で起こったことは、サイボーグ化された兵士が体内からなにがしかのエネルギー兵器を撃ったということなのだろう。それが、読み手として想定される意識(それは著者かもしれないし、わたしかもしれないし、あなたかもしれない)に対して、その光景の概念を翻訳したものが、右腕から発射され、上下左右にのたうちまわるエネルギー兵器だったのだ。しかし、それは実際に右腕から発射されたものだったのか、そもそも、エネルギー兵器だったのかも、翻訳されてしまった後には知ることができない。
何から何までこんな感じで、過去作品の有名なセリフや小道具、著名人の名前や日本語の慣用句などが随所に現れるが、それが現実としてそのようであったはずは無いのだが、実際にはどうだったのかを知ることはできない。
さらに、真実なんてものは、そこにある現実を無謬の元に説明できればなんでもいいという主張も提示され、こうなっては実際に何が起こっていたのかなんてものに意味がなくなっていく。
さらには、知性とはシステム同志の相互作用によって生まれ、システムとは独立した閉鎖系であり、云々カンヌンで、概念そのものでさえも知性として定義できることになる。それによって、登場人物たちがそもそも我々の考えうる知性なのか、生命なのか、はたまた、何らかの概念そのものや、何かの意味そのものなのかもわからなくなっていく。
概念の概念。定義の定義。意味の意味。すべてのものを翻訳し、無意味なテキストに意味を与える翻訳装置。そこから生まれるワイドスクリーンバロックで荒唐無稽で支離滅裂な言語SF。そしてそれは、川又千秋、神林長平、円城塔へとつらなるの流れの果てに接続される本格SFでもある。
いやぁ、久しぶりに凄いものを読んだ。