『ランド・オブ・ザ・デッド』 - goo映画
ゾンビの生みの親、ジョージ・A・ロメロ監督の正統的ゾンビ映画。
『ぼくのゾンビ・ライフ』のアンドリューのように、ゾンビ側に感情移入して見ようと思ったが、さすがにそれは無理だった。
3つの川に囲まれた中洲にそびえる高層ビル。周囲のスラムを対ゾンビ要塞と位置づけ、高層ビルに住む富裕層と、ゾンビにおびえながら暮らす貧困層に分かれてい生き延びる人類。
そんな街で、ひとりの傭兵が叛旗を翻し、装甲車両デッド号を奪い、高層ビルのオーナーを脅迫する。その一方で、ひとりのゾンビが無抵抗に撃ち殺されることを嫌い、高層ビルを目指して進軍を始める。
ここで描かれるのは、まさしく階級闘争と革命戦争。高層ビルの住人、彼らに雇われた傭兵集団、下層スラムの人々、そして、ゾンビ。高層ビルの住人達はゾンビの革命によってその特権を奪われるのである。
人間を食料にしなければならないという事実において、ゾンビと人間は共存の道が閉ざされている。したがって、ゾンビに人間社会の人権などはない。しかし、元は人間であったという事実と、彼らが意識を持つという事実を鑑みるに、最低限の尊厳は与えられるべきである。意識のない物体と化してしまった死体でさえ、切り刻めば死体損壊の罪になるのだから、意識のあるゾンビを射撃の的にしたり、辱めを与えたりすることが、何も罪に問われないことは理不尽だ。
だからといって、やっぱりゾンビはゾンビなので、撃ちまくれ、やっちまえでぶち殺すしかないのである。ただし、尊厳を持って、速やかに。
ラストシーンで見せた傭兵のリーダーとゾンビのリーダーの一瞬の視線の交流は、ゾンビと人間が理解しあえる可能性を示したのか、それとも、お互いを擬人化(擬ゾンビ化)してしまったが故の誤解なのか。『ぼくのゾンビ・ライフ』を読んだ後では、ゾンビ映画の見方もなんとなく変わってしまったかも。
……っていうか、デッド号が格好良すぎてしびれるわぁ(憧)
ゾンビの生みの親、ジョージ・A・ロメロ監督の正統的ゾンビ映画。
『ぼくのゾンビ・ライフ』のアンドリューのように、ゾンビ側に感情移入して見ようと思ったが、さすがにそれは無理だった。
3つの川に囲まれた中洲にそびえる高層ビル。周囲のスラムを対ゾンビ要塞と位置づけ、高層ビルに住む富裕層と、ゾンビにおびえながら暮らす貧困層に分かれてい生き延びる人類。
そんな街で、ひとりの傭兵が叛旗を翻し、装甲車両デッド号を奪い、高層ビルのオーナーを脅迫する。その一方で、ひとりのゾンビが無抵抗に撃ち殺されることを嫌い、高層ビルを目指して進軍を始める。
ここで描かれるのは、まさしく階級闘争と革命戦争。高層ビルの住人、彼らに雇われた傭兵集団、下層スラムの人々、そして、ゾンビ。高層ビルの住人達はゾンビの革命によってその特権を奪われるのである。
人間を食料にしなければならないという事実において、ゾンビと人間は共存の道が閉ざされている。したがって、ゾンビに人間社会の人権などはない。しかし、元は人間であったという事実と、彼らが意識を持つという事実を鑑みるに、最低限の尊厳は与えられるべきである。意識のない物体と化してしまった死体でさえ、切り刻めば死体損壊の罪になるのだから、意識のあるゾンビを射撃の的にしたり、辱めを与えたりすることが、何も罪に問われないことは理不尽だ。
だからといって、やっぱりゾンビはゾンビなので、撃ちまくれ、やっちまえでぶち殺すしかないのである。ただし、尊厳を持って、速やかに。
ラストシーンで見せた傭兵のリーダーとゾンビのリーダーの一瞬の視線の交流は、ゾンビと人間が理解しあえる可能性を示したのか、それとも、お互いを擬人化(擬ゾンビ化)してしまったが故の誤解なのか。『ぼくのゾンビ・ライフ』を読んだ後では、ゾンビ映画の見方もなんとなく変わってしまったかも。
……っていうか、デッド号が格好良すぎてしびれるわぁ(憧)