普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その12>あれ、とかこれの3 この際、省線のこと

2016-04-11 23:33:53 | 東京「昔むかしの」百物語
JR線のことを、その昔、昭和の20年代半ば頃までは「省線」と言いました。

大正期から、国家機関である鉄道省・運輸通信省・運輸省等の管轄下で営業された鉄路の総称だったようです。調べると昭和24年まで「省線」の名称が使われ、「国鉄(日本国有鉄)」に変更になりました。やがて1987(昭和62)年にはJRになりましたが、その前に一時「E電」などという呼称も存在しました。なんだか今風な感じですが、「良い電車」の後尾呂合わせだったような気がします。

省線という言い方は、ボクの両親や親戚の叔父・叔母などが使っていました。国鉄という言い方はなじめないと言っていたのを覚えています。ボクも省線と言っていた記憶があります。小学校の時、友達と省線、国鉄どちらが良いか論争をした記憶もあります。

省線ですが、ボクは山手線を指してそう言っていました。なぜでしょう? 理由は分かりません。コーヒー色をしたしかつめらしい外観の電車でした。乗り込むとすぐに今で言えばポールダンスに使うようなステンレス製(ひょっとすると真鍮製?)の棒がありました。座ることもできず吊革につかまることもできない人は、そこに掴まるわけですね。床は10㎝幅くらいの板材を貼り合わせてありました。そしていつも頭が痛くなるほど、ワックスの臭いがしていました。

座席は固いけれど、まるでビロードのような素材のカバーだったような気がします。昭和30年頃はまだ、対面式の座席の車両もあったのではなかったかという気がしますが、記憶違いかもしれません。

どんな満員電車でも、煙草の煙が充満していました。混雑時に煙草が禁じられたのは、1960年代に入ってからではないでしょうか。それでも普段は喫煙可でした。新幹線が禁煙車両を設けたのは70年代の半ばだったと思いますね。

子供の頃は、初乗り運賃、というより山手線一周どこまで行っても5円だったと思います。ボクが山手線を使うのは、代々木、のちに原宿に転居した母方の叔母の家に遊びに行くときでした。

中学に入学した頃からは、あちこち行きましたが……。

昭和30年代までは、子供を抱いた若い母親が、電車内で授乳するのも普通の光景でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は、ブレヒト

2016-04-11 00:00:26 | 普通な生活<的>な
昨日は能楽だったが、今日はブレヒト。

東中野の演劇集団「風(KAZE」)の公演を観にいった。久しぶりに見るブレヒト。この劇団の創立メンバーの一人が、50年近く前にともに同じブレヒト劇団のペーペーだったのだ。いまでは主要メンバーとして芝居を作っている。

舞台の印象は、少しボクの抱いていたイメージとは違った。

なぜか、ボクだったらどうするだろうという思いで観ていた。不思議な感覚だった。

すっかり忘れていた芝居を形づくっていくプロセスと、その結果への憧憬のようなものを、心のどこかで追いかけながら観ていたのだ。

さあ、これはやばいな! 虫が蠢き始めている感じがするな……。

お芝居はブレヒトが1930年にオペラ的に書き上演された「マハゴニー市の興亡」。一連の教育劇などの前に書かれたもので、叙事演劇という理論武装をすでにまとった脚本だ。クルト・ワイルのオペラ作品として、最近になって人気が出始めた。

ブレヒトによって描かれた世界観が、90年近くも経って今と全く重なるからか……。

演劇集団「風」の舞台に関しては、もう少し咀嚼してからここに書こうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする