普通な生活 普通な人々

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法華経の宇宙観 あれから1年5ヵ月 その②

2016-04-12 19:46:14 | ちょっと宗教<的>な
2014年11月18日に「法華経の宇宙観」という原稿を書いて、すぐに続きを書こうと思っていたのに、気がつけばあれから1年5ヵ月もたっているという、時間感覚の不埒さ……。

追いつきませんが、それがどうしたということで……。あの続きを。

あの時、二処三会ということを書きましたが、最近少し違う印象を持ち始めています。

二処三会って、本当は一処三会だったのだろうという認識。

つまり、映画館に入って椅子に座ってポップコーンをつまみ隣りの友達と喋っている内に、場内が暗くなって映画が始まり、映画が終わり場内に明りが戻る……みたいな。ボクはどこへも行っていないのですね。

ただ、そこに集ったあらゆる生あるものが、同じ映画というイリュージョンを体験するわけで、そうでなければ成立しないことなのですね。そのイリュージョンを仏は見せてくれたということです。仏は名映画プロデューサーか⁉ ということですね。

もし一処三会であっても、法華経の価値は微動だにせず、むしろさらに深い認識へと誘われるわけです。

どういうことかと言えば、世界はあらゆる生あるもの一つひとつに、それぞれの世界として備わっているもので、生あるものの数だけ世界は存在しています。パラレルに。

その世界はそれぞれに独立しているのだけれど、横断的に共通項を持っているわけです。その共通項は幾つもあるのですが、代表的なものは「言葉」です。

ことに宗教的な概念は、体験という強力な認識の道具・方法はありますが、概ね言葉で共通認識を持ちます。

例えば先ほどの映画館の話ですが、映画という共通項、その共通項=イリュージョンを理解するための映像と言葉(音も含めて)、それがそれぞれ一つひとつの世界と映画の世界とをリンクさせます。

観ているイリュージョンはたった一つですが、リンク先ごとにその相貌を変えていきます。つまり理解が少しずつずれてくるわけです。ところがそれこそが仏の狙いなのですね。受け取る生命の相貌(境涯)にあった理解しかなされない。そのズレの隙間に仏は入り込み、一つ一つの生命と向き合っていくのです。

十界互具論はそこで発動します。

十界互具は、ただ一念三千の百界を説明するためにあるものではなく、今様に言えば「フラクタルな世界」の説明なのですね。無限に生滅する世界とその世界を支える一つひとつの生命の形です。常に変化しているけれど、生命という本質的な形を生み続ける源。百界どころの騒ぎではないのです。無限界です。

そうなんですね、生命は際限もなく生滅し、永遠なんです。

法華経は、その生命を説明している経典。最近ボクはそう思っています。成仏の記別とは、生命が永遠であることを知ることなのではないか。それだけなのではないか、です。

だから仏とは永遠の別名、法華経はその解説書、ボクは最近そう理解しています。

何度でも言いますが、これはボクの勝手な理解ですからね。なにかを下敷きに書いていることでもなく、あくまでボクの勝手な解釈。

それだけは、理解しておいてくださいね。

あ~! スッキリした。



コメント
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