
TBSのドラマ『歸國(きこく)』を見た。
ずいぶん前から期待していた。
リアルタイムで見ようと、海外旅行の日程も調整し、まさにこれに合わせて“帰国”したのだ。
何しろ、「脚本:倉本聰、演出:鴨下信一」という組み合わせは、ドラマというジャンルを超えて、ちょっとしたテレビ的イベントに近い。
期待して当然なのだ。
見終わってみて、まず、このドラマが訴えたかったこと、伝えたかったことを思った。
テーマだ。現在の日本に対する一種のアンチテーゼ。
また、1本のドラマとして、それも“倉本ドラマ”として、あれこれ思うところがあった。
倉本さんは、番組サイトで、こう言っている。
「戦後十年目の日本人と、戦後六十余年たった現在の日本人の生き方、心情は、それこそ極端に変わってしまった。戦後十年目に帰還した英霊は、日本の復興を喜んだかもしれないが、あれよあれよという間に、経済と科学文明の中で己を見失って狂奔している今の日本人の姿を見たら、一体、彼らは何を想うのか。怒りと悲しみと絶望の中で、ただ唖然と立ち尽くすのではあるまいか」
そう、このドラマの底流には、倉本さんの、今の社会への憤りや怒り、さらに悲しみがある。
時には、そうした思いを盛り込んだドラマがあるべきだと思う。だから期待していたのだ。
ただ、とても残念なことに、このドラマの中の英霊たちは、倉本さんがいう「経済と科学文明の中で己を見失って狂奔している今の日本人の姿」を、ちゃんと見せてもらってない。
彼らは、深夜、人気のない街を歩き、眺め、自分と関係のある人には会った。
しかし、英霊たちが「怒りと悲しみと絶望」を感じるような「今の日本人の姿」は、目にしていないと思うのだ。
言葉では出てくる。
「(物質的には)豊かになったけど、(精神的には)どんどん貧しくなってる」といった意味の台詞もある。
舞台劇(このドラマの原作は戯曲だ)ならそれでもいい。だが、ドラマでは説明に聞こえてしまう。
つまり、ドラマ『歸國』のシナリオの多くの部分が、戯曲『歸國』と重なっていたため、どこか違和感があったのではないか。
特に、生瀬勝久が演じた狂言回しともいえる立花元報道官が、何でも言葉で説明しているように見えてしまうのだ。
もしかしたら、舞台とは違う見せ方が、ドラマのシナリオや演出にあってもよかったのではないか。そんなふうに思う。
全体として、前述した倉本さんの「今の日本への憤り、怒り、悲しみ」を、ストレートな形で提示したにも関わらず、見る人たちに十分伝わっていなかったようなモドカシサがあった。
また、何人かの兵士にまつわる、いくつものエピソードが、今の「日本人」の代表や象徴というより、あくまでも個々(個人)のケースに見えてしまうのも残念だった。
繰り返すが、英霊たちに、「経済と科学文明の中で己を見失って狂奔している今の日本人の姿」を、言葉だけでなく、ビジュアルとして見せて欲しかった。
もちろん、午前1時すぎから4時すぎまで、という英霊たちの“時間制限”では難しいのだが。
映像では、闇に浮かびあがる靖国神社の鳥居に向かって兵士たちが歩いていくロングショットなど、とてもよかった。