碓井広義ブログ

<上智大学教授のメディア時評> 見たり、読んだり、書いたり、話したり、時々考えてみたり・・・

花盛りの「健康・医療番組」について考える

2015年03月06日 | 「月刊民放」「民間放送」連載の放送時評



日本民間放送連盟(民放連)の機関紙「民間放送」に連載している「メディア時評」。

今回は、「健康・医療番組」について考えてみました。


花盛りの「健康・医療番組」
見せ方に妙味、不安増幅に留意を

プロデューサー時代に、「健康クイズ」(フジテレビ系)という番組を手がけたことがある。80年代半ばのことだ。タイトルにクイズとあるが、得点争いを見せたいわけではなく、あくまでも健康情報の提供が狙いだった。

毎回、「腰痛対策」や「風邪予防」といったテーマを決めて、各部門の専門医に事前取材を行う。そこで聞いた内容を整理し、問題を作成する。スタジオでは回答者たちと医師の質疑応答に重点を置き、取り上げた分野における最新情報を伝えることを目指した。民放では、これ以外に健康情報番組がほとんどなかったからだ。

あれから30年。最近は、いわゆる「健康・医療番組」が花盛りだ。ゴールデンタイムに放送しているものだけでも、「駆け込みドクター!運命を変える健康診断」(TBS系)、「たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学」(テレビ朝日系)、「主治医が見つかる診療所」(テレビ東京系)などがある。いずれも視聴率は好調だ。

では、健康・医療番組がなぜ視聴者から支持されているのか。まず、現在こうした番組の主な視聴者が中高年層であることだ。この世代の大きな関心事は、経済と健康である。ある程度の年齢に達したら、あまりお金の心配をすることなく過ごしたいと誰もが思う。さらに家族を含む他者に迷惑がかからぬよう、健康でありたいと考える。各番組は、見事に視聴者の欲求に応える内容となっている。

次に、視聴の背景には日進月歩の健康・医療情報を手軽に得たいという思いがある。もちろん書店に行けば、一抱えでは収まらない数の健康・医療本が並んでいる。選択に迷うほど情報が氾濫しているからこそ、有益な最新情報を選んで伝えてくれる、一種のキュレーターの役割をテレビに託したいというわけだ。

番組の作りにも工夫が凝らされている。テーマは健康であり医療であるとはいえ、どうしても病気を扱うことになる。そのままだと重くて暗い印象を与えてしまう。そこで見せ方の妙が必要になってくる。

あまり深刻にならないための配慮として、軽い笑いを散りばめ、広い意味でのエンターテインメントにしているものが多い。健康・医療情報は知りたいが、深刻な気分になりたくはない。こうした視聴者の気分に寄り添う形で、番組が作られている。

そんな健康・医療番組での“当たり企画”に、タレントが実験台となって行う健康チェックがある。実際に病院で健康診断を受けてもらい、その結果を公表するのだ。

たとえば2月2日放送の「主治医が見つかる診療所」では、人間ドックに行ってきた複数のタレントをスタジオに集め、診断結果を元に順位付けした「深刻度」をその場で本人に伝えていた。

「第3位のAさんは、すでに脳梗塞を発症しています」「第1位のBさんは、脳動脈瘤と脳血管の腫瘍が見つかりました」といった具合だ。本人の超音波エコーの映像や、MRIで輪切りにされた脳の画像も駆使して詳細な説明が行われていた。

出演者の許諾を得ているとはいえ、病気は究極の個人情報である。早期発見や予防を理由に個人のプライバシーを暴くかのような印象を与えることも事実だ。

一方で、健康診断自体はドキュメントであり、そこには具体性があり、説得力をもっている。視聴者は自分に引き寄せて、「思い当たること」を考えたり、逆に「安心感」を得たりもするのだ。

こうした「健康診断企画」が支持される背景には、見逃せない側面もありそうだ。人間には他人の「小さな不幸」を垣間見ることで、自分の優位性を確認したいという感情が少なからずあるように思う。制作者はそんな「他人の不幸は蜜の味」に迎合していないか、煽っていないかについて、常に自覚的であるべきだろう。

もう一つ、制作上で留意して欲しいことがある。広い範囲の視聴者を獲得しようとする余り、必要以上に「テレビを見ているアナタも該当するかもしれません」という語り口になる傾向だ。注意喚起という名目のオーバーな脅かしは視聴者にとって影響が大きい。

健康・医療番組が放送された直後、医師に対して「テレビで見たのですが・・・」という形で相談する患者が増えるそうだ。病気ではないかという不安や、受けている治療に対する疑念の増幅。番組が伝えた情報によって現実に人が動くことの怖さもまた、制作側はより意識することが必要だ。

(民間放送 2015.02.23号)


あらためて、7~9月期の連続ドラマを振り返る

2014年10月18日 | 「月刊民放」「民間放送」連載の放送時評

民放連の機関紙「民間放送」に連載している「メディア時評」。

今回は、あらためて夏ドラマを振り返ってみました。


7~9月期の連ドラを振り返る
主役を輝かせた巧みな脚本
「HERO」「昼顔」「聖女」


●「HERO」

夏クールで注目したドラマを振り返ってみたい。1本目は「HERO」(フジテレビ)である。全話の平均視聴率は21.3%。最近のドラマとしては好記録を残した。

まず主演の木村拓哉について。どんな主人公を演じても変わらない。役柄よりキムタクであること。それが“キムタク・ドラマ”と揶揄される所以だ。

確かに「安堂ロイド」の未来型ロボットも、「月の恋人」のインテリアメーカー社長も、「PRICERESS」の貧乏男も、みんなキムタクにしか見えなかった。

だが、それ自体が悪いわけではない。役柄がキムタクに合ってはいないのに、“キムタク・ドラマ”の一点だけで押し通そうとしたことに無理があった。 

しかし、「HERO」は違う。キムタク自身が「かくありたい」と思うキムタクと、久利生公平との間の誤差が少ないのだ。だから見る側も安心して「久利生≒キムタク」を楽しむことができた。

それを可能にしていたのは、主役を立てながらも群像劇としての面白さをしっかり組み込んだ福田靖の脚本だ。シリアスとコミカルのバランスも絶妙だった。また、そんな脚本を体現した役者たちにも拍手だ。

トータルで言えば、「HERO」は単なる“キムタク・ドラマ”ではなく、“優れたキムタク・ドラマ”だったのである。

●「昼顔」

2本目は同じフジテレビの「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」だ。「男性からキレイだと思われる女と、そうじゃない女の人生って、ぜんぜん違うと思います」だなんて、いいのか、そんな本当のコトを言ってと驚いた。ヒロインの一人、吉瀬美智子のセリフだ。

始まる前、「上戸彩が浮気妻?白戸家のお嬢さんにしか見えないけど」と思っていたら、“オトナの女性”担当の吉瀬がいた。

女性雑誌編集長を夫にもつ美人妻、良き母親、瀟洒な一戸建てに住むセレブ主婦でありながら、一方ではバリバリの「平日昼顔妻」。この吉瀬が、偶然知り合った普通のパート主婦・上戸を禁断の世界へと誘い込んだ。

吉瀬の相手は才能があってアクの強い画家(北村一輝)。上戸のそれは生真面目な生物教師(斉藤工)。この対比も実に巧みだった。

だが、いずれもすんなりと不倫に走るわけではない。特に上戸は自分の気持ちを疑ったり、押さえたりしながらの一進一退が続いた。

いや、そのプロセスそのものがドラマの見所だったのだ。不倫は成就してしまえば、後は継続か別離のどちらかしかない。

また前述のようなドキリとさせるセリフをはじめ、妻や夫がもつ“別の顔”の描写など、井上由美子の脚本が冴えていた。このドラマを夫婦そろって見るのは、互いのハラを探り合う事態を招くから止めたほうがいいとさえ思った。

その意味では視聴率と同様、最近話題の「録画再生率」も高かったのではないか。

●「聖女」

最後がNHKドラマ10「聖女」だ。高校生だった晴樹(永山絢斗)は、家庭教師の女子大生(広末涼子)に恋をする。勉強にも力が入り、東大に合格。だが、なぜか広末は姿を消していた。

10年後、弁護士となった永山は連続殺人事件の容疑者と化した広末と再会する。果たして彼女は、つき合った男たちを次々と殺した犯人なのかという物語だった。

一種のラブ・サスペンスであり、大森美香のオリジナル脚本がいいテンポで見る側を引っ張っていく。いや、それ以上に広末の妖しさと怪しさから目が離せないのだ。

広末が主役を務めると聞いた時、上戸彩の不倫妻とは違った意味で、一瞬「大丈夫か?」と思った。

昨年の主演ドラマ「スターマン・この星の恋」(フジテレビ)も、主演映画「桜、ふたたびの加奈子」も、はっきり言って不発だったからだ。それに最近もワイドショーを賑わせるなど、やや落ち着かないイメージがあった。

しかし、そんな広末の“崖っぷちパワー”が今回は活かされていた。ベッドシーンも堂々たるものだったし、普段からやや嘘くさい広末の微笑も、このドラマでは有効だった。悪女か聖女か、そもそもそれは逆の存在なのか。

「信用できますか?私のこと」というドラマの中のセリフも、まるで広末が視聴者に向かって自分のことを問いかけているように聞こえた。信用できるかどうかはともかく、18年前、ポケベルのCMで話題をさらった少女も、さすがにオトナの女性を演じられる年齢になったということだろう。

女優・広末涼子にとって、確実に起死回生となる1本だった。

(民間放送 2014.10.13)



『明日、ママがいない』 フィクションを描く想像力と創造力

2014年03月08日 | 「月刊民放」「民間放送」連載の放送時評

日本民間放送連盟:発行「月刊民放」に連載している放送時評。

今回は、ドラマ『明日、ママがいない』(日本テレビ)について書きました。


フィクションを描く想像力と創造力

気がつけば、この冬最大の話題作になってしまった『明日、ママがいない』(日本テレビ)。番組ウエブサイトには次のようなメッセージが掲げられている。

「物語の舞台は、児童養護施設。親の愛から見離された少女たちが集まる。児童養護施設。そこは、親のいない子どもたちが暮らす場所。その数は全国で約600件、生活する児童の数は3万人を超えている。子どもたちがやってくる理由のほとんどは――虐待だ」。

実の親に養育してもらえない子どもたちが懸命に生きていく姿を描くドラマなのだ。

ところが、初回放送直後に熊本の慈恵病院などが放送中止や内容改善を要求。視聴者の批判の声も高まり、全スポンサーがCMを見合わせるという事態となった。

もしも取りやめになったら、テレビ全体のダメージになる、というのが当初の実感だ。小説やドラマでは極端な表現で普遍を描くこともある。登場人物が皆いい人では表現の幅を狭めてしまう。ある部分を見て作品を断罪されるのは作り手にとってもつらい。

2月上旬、日本テレビが文書で謝罪を表明し、内容を改善する方向を示したことで騒動はひとまず沈静化したように見える。

あらためて放送分を見直すと、主人公(芦田愛菜)のニックネームが「赤ちゃんポスト(正式名称=こうのとりのゆりかご)」からとった「ポスト」だ。施設長(三上博史)に「ペットショップの犬と同じだ」と言わせるなど、見る側にショックを与える内容に問題がなかったわけではない。

特に「赤ちゃんポスト」は実在の取り組みであり、全国で一ヵ所だけという慈恵病院がこの名称の使われ方に抵抗を示したのは当然だろう。

また、舞台となっている「コガモの家」は明らかに「児童養護施設」であり、「グループホーム」だ。現実の存在であるだけに、「誤解、偏見、差別を生む」「施設の子どもたちが傷つく」という当事者からの批判もうなずける。

しかし、その一方で、こんなことも思った。親が子をあやめてしまうニュースが珍しくない世の中で、その解決策は一向に示されていない。虐待など児童問題に意識を向けさせる点においては、意義のあるドラマだといえる。

「ポスト」という過激なニックネームも、ドラマをよく見れば、主人公が自分を捨てた親との関係を断ち切るために、自らの意志で名乗っていることがわかる。このドラマは、一般的に“弱者”と見られがちな子どもの強さも描こうとしているのだ。

とはいえ、今回のように現実性と物語性の入り交じった表現をする場合、制作側は想像力と創造力をフル稼働しなくてはならなかったはずだ。

実際に養護施設で暮らしている子どもたちや彼らと真摯に向き合う人たち。さらに里親・里子の関係から出発して、新たな家庭を築こうとしている人たちもまた視聴者だからである。

たとえばNHK『あまちゃん』では、東日本大震災の被害の衝撃を、壊れたジオラマに加え、変わり果てた風景を目にした駅長(杉本哲太)とユイ(橋本)の表情だけで表現していた。

それはもちろん被災地の皆さんを思ってのことだが、同時に被災地以外の場所にいる視聴者をも納得させる見事な演出だった。

その点、『明日、ママがいない』は、当事者も含む視聴者に対する想像力と思慮に欠けていたのではないか。

最も問題視された第1話は、脚本監修である野島伸司のテイストに満ちていた。きわどい設定、きつい言葉遣い。子どもに手を上げる場面もある。親に捨てられ、入った施設も安住の地ではない。

「家なき子」や「高校教師」もそうだが、登場人物を追い込み、圧をかけるのが野島伸司の得意とするパターンである。

だが、今回ドラマの舞台とした児童養護施設はあまり知られていない世界だ。一般の視聴者が現実と物語を混同する可能性があった。また、実際にそこで暮らす子どもたちも実にデリケートな存在だ。単に親子の問題として片づけることのできない複雑な背景もある。

センセーショナルな内容でスタートして視聴者の心を揺さぶり、騒がれても最終的にはいいお話でした、で決着させる手法は、かなり乱暴だったのではないか。

打ち切りではないが、「抗議があれば企業はCMを見合わせ、局はフィクションであるドラマの内容も修正する可能性がある」という前例を作ってしまったことは事実だ。今後、局や制作者が萎縮し、扱うテーマや表現において自主規制しないか。それをとても危惧する。

(月刊民放 2014年3月号)

“半沢直樹のいた夏”を振り返る

2013年11月11日 | 「月刊民放」「民間放送」連載の放送時評

「月刊民放」に連載している放送時評。

今回は、この夏、テレビ界の大ヒットというだけでなく、一種社会現象化したドラマ「半沢直樹」を総括しました。


半沢直樹のいた夏

もう忘れかけているが、今年の夏は暑かった。夜になっても気温は下がらず、外で遊ぶ気にもならない。できれば早く仕事を終えて家に帰り、クーラーの効いた部屋に避難したい。そんなふうに思いながら暮らした人も多いのではないか。

夏ドラマが始まった時、初回視聴率の高さに驚いた。テレビ朝日「DOCTORS2」19.6%。フジテレビ「ショムニ2013」18.3%。そしてTBS「半沢直樹」が19.4%。一瞬、高視聴率の原因は連日の猛暑か、と半分本気で思ったものだ。その後、「半沢」は単独でモンスター級ドラマへと成長していく。

7月の放送開始直後、「半沢」を次のように分析した。ポイントは2つあった。まず主人公が大量採用のバブル世代であること。企業内では、「楽をして禄を食む」など負のイメージで語られることの多い彼らにスポットを当てたストーリーが新鮮だ。池井戸潤の原作「オレたちバブル入行組」「オレたち花のバブル組」は、優れた企業小説の例にもれず、内部にいる人間の生態を巧みに描いている。第2のポイントは主演の堺雅人である。フジテレビ「リーガルハイ」とTBS「大奥」の演技でギャラクシー賞テレビ部門個人賞を受賞したが、シリアスとユーモアの絶妙なバランス、特に目ヂカラが群を抜いている。まさに旬の役者だ。

8月に入っても、「半沢」は順調に数字を伸ばしていく。銀行、そして金融業界が舞台の話となれば複雑なものになりがちだが、「半沢」は実にわかりやすくできていた。銀行内部のドロドロとした権力闘争やパワハラなどの人間ドラマをリアルに描きつつ、自然な形で銀行の業務や金融業界全体が見えるようにしている。平易でいながら、奥行きがあった。また、銀行員の妻は夫の地位や身分で自らの序列が決まる。社宅住まいの妻たちの苦労を見せることで女性視聴者も呼び込んだ。8月11日放送の第5回、視聴率は前週の27.6%を超えて29.0%に達した。この頃、すでに「半沢」は堂々のブームとなっている。

ところが、なんと次の日曜日、18日は「半沢」を放送しないというではないか。その理由が「世界陸上」だ。独占生中継とはいえ、このタイミングで「半沢」を1回休むのはもったいないという声も多かった。しかし、結果的には視聴者の飢餓感を刺激し、また話題のドラマを見てみようという新たな層も呼び込むことになった。

前半(大阪編)がクライマックスを迎える頃、このドラマが「現代の時代劇」であることに気づいた。窮地に陥る主人公と、損得抜きに彼の助太刀をする仲間、際立つ敵役。勧善懲悪がはっきりしていて分かりやすい。威勢のいいたんかは「水戸黄門」の印籠代わりだ。主人公は我慢を重ね、最後に「倍返しだ!」と勝負をひっくり返す。視聴者は痛快に感じ、留飲が下がるというわけだ。

さらに半沢はコネも権力もない代わりに、知恵と友情を武器にして内外の敵と戦う。その手法は正義一辺倒ではなく、政治的な動きもすれば裏技も使う。巨額の債権を回収するためには手段を選ばないずるさもある。そんな「清濁併せのむヒーロー像」が見る人の共感を呼んだ。

9月、東京編に移っても「半沢」の勢いは止まらない。半沢の父を死に追いやった銀行常務の香川照之はもちろん、金融庁検査官を演じた片岡愛之助など脇役陣も自分の見せ場を作っていく。そして最後に用意された、運命の対決。半沢を正面からとらえたアップを多用する演出も、ぞくぞくするような臨場感を生んでいた。最終回の視聴率は今世紀最高の42.2%。録画で見た人を加えると膨大なものになる。

こうして振り返ってみて、このドラマが2つの小説を原作としていたことに再度注目したい。やろうと思えば大阪編だけでワンクールの放送は可能だった。しかし、それだと「半沢」が実現した密度とテンポの物語展開は無理だ。それは北三陸編と東京編の2部構成で成功した『あまちゃん』にも通じる。1話に詰め込まれている話の密度が極めて高く、またスピーディだ。それなのにわかりづらくないし、置いてきぼりもくわない。それは脚本や演出のチカラであると同時に、視聴者の情報処理能力のおかげでもある。つまり、2013年の今を生きる我々が日々体験している現実社会の情報量とテンポに、「半沢」は見事に合致していたのだ。やはりドラマは社会を映す鏡のひとつだと、あらためて思う。

(月刊民放 2013年11月号)


月刊民放で、「あまちゃん」のこと

2013年07月14日 | 「月刊民放」「民間放送」連載の放送時評

民放連(日本民間放送連盟)が発行する専門誌「月刊民放」。

連載している放送時評で、朝ドラ「あまちゃん」の前半戦を中心に書かせてもらいました。


クドカン脚本
「あまちゃん」の先進性

4~6月期の連続ドラマも全部見てきた。そのなかで評価していたのは、『ラスト♡シンデレラ』(フジテレビ)と『雲の階段』(日本テレビ)だ。

前者はテンポが小気味よく、笑い飛ばして見るにはうってつけだった。昼ドラほどドロドロせず、かといってトレンディドラマのような恋愛の重さもない。“ちょっとエッチな”シーンも下品というほどではないので、OLやママ友が「昨日見た?」と会話のネタにできたことも人気が出た理由だろう。

後者の見どころは、長谷川博己が演じる無免許医師の葛藤だった。違法ではあるが人の命を救っているという自負。底辺から抜け出し、陽の当たる場所へ行きたいという欲求。また、稲森いずみと木村文乃が演じる、立場もタイプも違う女性2人をめぐる三角関係も複雑だ。自分の中で湧き上がってきた人生に対する野心と欲望をどこまで解き放つのか。破滅への階段とわかりながら登っていく“内なるせめぎ合い”は見応えがあった。

しかし、毎回リアルタイムで見たうえに、録画して繰り返し見るのは、NHK『あまちゃん』だけである。NHKの連続テレビ小説(以下、朝ドラ)は1961年に始まった。今期の『あまちゃん』で88作目になるが、これは半世紀以上の歴史を塗り替える、画期的な1本だと言っていい。その理由の一つは過去に例のない「トリプルヒロイン」の朝ドラだからだ。もちろん主役は天野アキ(能年玲奈)だが、その母親・春子(小泉今日子)も、祖母・夏(宮本信子)もいわゆる脇役ではない。3人が三つの世代のヒロインとして物語の中で拮抗しているのだ。「あまちゃん」の面白さ、楽しさの源泉はそこにある。

なかでも、このドラマの小泉は必見だ。80年代に聖子ちゃんカットで家出し、24年後に娘を連れて帰郷するまでの“女の軌跡”を全身に漂わせている。しかも、それが元アイドルにして現在は個性派女優の小泉と重なって見えるのだ。ノーメークに近い顔。ややふっくらした体型を包む服装。そしてスナック「梨明日(りあす)」のカウンターのなかから、「あんた、ばっか(馬鹿)じゃないの!」とヤンキー風タンカを切る小気味良さ。昨年の『最後から二番目の恋』(フジテレビ)でも光っていたが、今回の小泉は40代女性としてよりパワーアップしている。

能年の天然、小泉のヤンキー、宮本の頑固と、それぞれの素の持ち味が十二分に生かされているのは、クドカンこと宮藤官九郎が手がける脚本のおかげだろう。劇団「大人計画」の役者として出発し、やがて演出・脚本でも頭角を現した宮藤。ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』などで見せたコメディのセンスが朝ドラという舞台でフル稼働している。すでに流行語になっている「じぇじぇ!」をはじめ、登場人物たちのユーモラスな会話で全体のトーンが実に明るい。

クドカン脚本のポイントはほかにもある。一つは異例のナレーションだ。朝ドラでは、局のアナウンサーが第三者的な「神の視点」で展開を補足する客観ナレーションか、あるいはドラマの登場人物が回想としてナビゲートするかの、どちらかが多い。後者の場合、話し手が見聞きして感じたことは話せても、自分以外の感情は表現しないのがドラマの“お約束”だ。ところが今回、宮本信子演じる祖母・夏が他の登場人物の気持ちも代弁する、型破りの語りも見受けられる。宮本が、いわば神も役も超えた存在になっているのだ。

例えばヒロインのアキが妄想するシーン。片思いの先輩に憧れるあまり、夢の中で先輩から告白される様子が淡々と描かれたのだが、視聴者の心理を逆手にとり、宮本の語りは「もう先に言っちゃいますけど、これは夢です。いまさらびっくりしないと思いますが」とネタばらしをして笑いを誘う。一歩間違えば、出しゃばり過ぎと視聴者が違和感や不快感を抱く危険で挑戦的な技だが、クドカン脚本を体現する宮本の語りの力と相まって、物語を重層的かつスピーディなものにしている。

また、『あまちゃん』が試みているのは母娘3代の家族論だけではない。過疎の町をめぐる地域活性化論や、アイドルの誕生と広がりのメカニズムを探るメディア論まで展開している。全都道府県から地元アイドルを集めた、AKB48ならぬGMT(じもと)47。秋元康を連想させる、スーツに黒メガネのプロデューサー(古田新太の怪演)。ドラマが時代を映す鏡であり、時には社会批評でもあることを意識した仕掛けが満載である。

今後、東日本大震災をどう物語に取り込んでいくのか注目だ。

(月刊民放 2013年7月号)


「月刊民放」の放送時評 テレビ60年をめぐって

2013年03月08日 | 「月刊民放」「民間放送」連載の放送時評

「月刊民放」3月号の放送時評。

今回は、テレビ60年をテーマに書いています。


再スタートとしてのテレビ60年

NHKと日本テレビが共同制作した『TV60 日テレ×NHK 60番勝負』が、2月1日から2夜連続で放送された。1953(昭和28)年2月1日にNHK、8月28日に民放テレビ第1号の日本テレビが放送を開始。2月でテレビ60年だ。

この特番の目玉企画は「24時間でドラマを作る」。1夜目で課題が出され、両局を代表する演出家がシナリオ作りから仕上げまでを24時間でやってみせた。厳しい条件下で、それなりのショートドラマを作った制作陣には敬意を表すが、当然のことながらやや寒い内容だった。

それよりも、見ていて釘づけになった場面が2つある。1つはNHKが放送した第1夜、28年ぶりの出演だという明石家さんまがスタジオに現れ、過去のいきさつをネタに展開した爆笑トークだ。出演した「クイズ面白ゼミナール」で、さんまが生あくびをしていたと視聴者からの抗議が殺到。以降、本格出演はなかったというのだ。裏話だけでなく、当時の視聴者とテレビの関係性が興味深かった。

もう1つの釘づけシーンは第2夜の冒頭、日本テレビの画面にNHKの有働由美子アナウンサーが登場した時だ。CMに行くタイミングで有働アナがカメラに向かって、「はい、コマーシャル!」とやった。この状況なら当たり前の演出かもしれないが、見ていてドキドキしたのは事実だ。

この2つの場面の面白さを支えていたのは、まず生放送というスタイルだろう。わが家とは別空間であるはずのスタジオの空気や時間を、画面を通じて共有しているという感覚。つながっているという気分である。次に、NHKにいるはずのないさんま、日本テレビで見るはずのない有働アナを目撃したという驚きだ。テレビという日常の中に異分子が混入したことによる非日常性が見る側を興奮させた。人はそこにあるはずのないもの、見るはずのないものに遭遇したら目が離せなくなるのだ。

60年前の草創期、現在とは比べようもないレベルの画質や音質だったにも関わらず、テレビが見る人たちを惹きつけた。それはスポーツ中継であれバラエティーであれ、何が起きるか(飛び出すか)わからない生放送による特別な時間と、テレビでなければ見られないものを目撃する特別な体験だったからではないか。そして、こうしたテレビの力は現在も失われてはいないし、逆にテレビ60年をきっかけに、原点に返るという意味で再考に値するのではないか。この記念特番を見ながら、そんなことを思った。

もちろん、現在のテレビはのんきに還暦を祝っていられる状況ではない。ネットの台頭。視聴者のテレビ離れ。広告収入の減少。加えて原発事故をめぐって広まったテレビ報道への不信感もある。しかし、もしもテレビが劣化していると言うなら、それはテレビそのものではなく、テレビに関わる人たちの劣化かもしれないのだ。あえて青臭いことを言えば、テレビに関わる人間の志の問題である。

ここで思い浮かぶのが、1974年の秋から翌年3月まで放送された、フジテレビのドラマ『6羽のかもめ』のことだ。その最終回「さらばテレビジョン」の劇中劇で、政府は国民の知的レベルを下げることを理由に(セリフでは「これ以上の白痴化を防ぐために」)、国民に対してテレビ禁止令を出す。テレビ局は全て廃止。各家庭のテレビは没収。禁酒法時代の酒と同じ扱いとなるという設定だ。ドラマの終盤、山崎努演じる放送作家が酒に酔った勢いでカメラに向かって自分の思いをぶつける。あの伝説の名セリフが飛び出すシーンだ。脚本は倉本聰さん。

「だがな一つだけ言っとくことがある。(カメラの方を指さす)あんた!テレビの仕事をしていたくせに、本気でテレビを愛さなかったあんた!(別を指さす)あんた!――テレビを金儲けとしてしか考えなかったあんた!(指さす)あんた!よくすることを考えもせず偉そうに批判ばかりしていたあんた!あんた!! あんたたちにこれだけは言っとくぞ!何年たってもあんたたちはテレビを決してなつかしんではいけない。あの頃はよかった、今にして思えばあの頃テレビは面白かったなどと、後になってそういうことだけは言うな。お前らにそれを言う資格はない。なつかしむ資格のあるものは、あの頃懸命にあの情況の中で、テレビを愛し、闘ったことのある奴。それから視聴者――愉しんでいた人たち」

倉本さんが、ドラマの中のドラマという二重構造に仕込んで投げつけた時限爆弾は、テレビ60年を迎えた現在も、そのカウントダウンを続けている。

(月刊民放 2013年3月号)

「月刊民放」(2012年11月号)での放送時評 

2012年11月22日 | 「月刊民放」「民間放送」連載の放送時評

日本民間放送連盟が発行している「月刊民放」。

発売中の11月号から、「放送時評」の連載が始まりました。

複数の執筆者の持ち回り形式なので、今後、数か月に1度の割合で、順番が回ってくるはずです。

今回は最初ということもあり、このところテレビに関して思っている
ことを、どどどっと(笑)書かせていただきました。


「大人」にとってのテレビドラマ

前クールの連続ドラマはやや寂しかった。特に大人の男が見続けたいものが少なかった。周囲からも「なぜ自分たち大人の見るドラマがないんだ?」と度々聞かれた。まさか「ドラマは若者を相手に作られているんです」とか、「テレビはあなた方をターゲットにしていません」などと言えるはずもない。

その一方で、若い人たちがテレビを、中でもドラマを見ていない。それは、たとえばNHK世論調査部の「20代男女と30代男性の1割以上がテレビを全く視聴していない」「20代女性のテレビ視聴時間は10年前と比べて25%以上も減っている」といった調査結果を見なくても、日常的に接している学生たちに聞いてみるとよくわかる。しかも制作側がまさに「若者向け」として作っているものほど、当の若者たちが素通りしている。送り手が考える「受取り手」と、実際のそれとの間が、かい離しているように思えてならない。

もう一つ、気になるのが視聴形態だ。地デジになって、以前よりも録画で見る人が明らかに増えている。何しろ、あの番組表も、ワンプッシュの録画予約も、どんどん放り込めるハードディスクも実に便利だ。しかも、かつての録画機はいかにも「録画したものを見る」という画質だったが、今は地デジ効果でオンエアと見間違えるほどだ。「自分の都合」に合わせて、オンエアと変わらない「高画質」で、「自分が選んだ番組」を見られる快適さは誰も否定できない。

しかし、テレビの側はあくまでも「リアルタイム視聴」を前提とした長年のビジネスモデルを堅持している。録画して見ている視聴者を「頭数」から外した番組作りを行っている。「タイムシフト視聴」という視聴者(スポンサー企業から見れば消費者)の動向を無視しており、ここにもまた大きなかい離があるようだ。

乱暴なことを言えば、テレビは戦争末期の軍部のようになっていないだろうか。現実を正確に見ることを避け、自分たちが描いたストーリーに固執し、白を黒と言い続けて多大な犠牲者を生んだ戦争指導者たち。NHKスペシャル「終戦なぜ早く決められなかったのか」の中で、「無理だと思っていたが、自分からは言えなかった」と語る彼らと今のテレビが重なってくる。

テレビも、そろそろ現実と向き合ったほうがいい。「消費活動の主役は若者層で、彼らは送り手の都合に合わせてテレビの前に待機しており、番組を見るだけでなく、そこで流されるCMに刺激されてモノをばんばん買ってくれる」というストーリーが、自分たちの思っているほど成立してはいない現実と。

今テレビを見ているのは、若者より遥かに多数の大人たちだ。生活における携帯電話やスマートフォンの重要度が高い若年層をテレビに向ける努力は必要だが、テレビの重要度が高い年齢層をもっと大切にすべきではないか。ドラマに関しても、「若者にウケたい」「(見たけりゃ)大人も見ていい」ドラマだけでなく、「大人が見たい」ドラマを意識して作り出すことが必要だと考える。


・・・・以下、略。

続きは、ぜひ本誌をご覧ください(笑)。