碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

やはり、雑誌は人なんだなあ

2008年07月31日 | 本・新聞・雑誌・活字
そういえば、最近、『ぴあ』を買っていない。映画情報や上映スケジュールに関する情報の多くをネットで得ている。それは多分、私だけではないはずだ。今、部数はどうなっているんだろう。って、私が心配しても仕方ないが。

『ぴあ』の創刊は1972年。最初は月刊だった。翌年、大学生となって上京し、さっそく手に入れたが、今と違って、ずいぶん薄かったことを覚えている。表紙が及川正通さんのイラストになったのは75年、大学3年生のときだ。

当時、『ぴあ』のライバル誌だったのが『シティロード』である。後発だが、よりマニアックというか、映画コラムやエッセイなどの読み物が充実していた。

そんな70~80年代、大阪方面のカルチャー・シーンを、大いに盛り上げていた情報誌が『プガジャ』こと『プレイガイドジャーナル』だ。関西の友人から入手して読んでみたが、上映・上演情報だけでなく、メッセージ性のある特集記事が面白かった。

『ぴあ』よりは『シティロード』に近い。しかし、全体のまとまりよりも、編集者たちが自分の興味で、わさわさと記事を書いているような印象で、何やらエネルギッシュだった。

最近出版された『「プガジャ」の時代』(ブレーンセンター)は、歴代編集長たちが語る「プガジャ」伝説の真相。どんな人たちが、どんなことを思い、あの雑誌を作っていたのかがよく分かる。「やはり、雑誌は人なんだなあ」と思う。

各章ごとの詳細な脚注も含め、貴重な同時代史、カルチャー史だ。

「プガジャ」の時代 (新なにわ塾叢書1) (新なにわ塾叢書 1) (新なにわ塾叢書 1)
森 晴樹,村上 知彦,春岡 勇二,ガンジー 石原,山口 由美子,小堀 純
ブレーンセンター

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読めども読めども読み切れない

2008年07月30日 | 本・新聞・雑誌・活字
書評界(?)の巨匠、<狐>こと村山修さんが亡くなったのは2006年だが、先日、「単行本未収録書評を増補」した書評集が出た。『もっと、狐の書評』 (ちくま文庫)である。

「日刊ゲンダイ」に<狐>名義で書かれたものは、その後、何冊もの単行本になっている。この本では、それらから選抜した書評に「未収録もの」を加え、「オリジナル編集」しているのだ。その数、150本。

基本的には、それぞれ約800字1本勝負だ。決して長くはない。いや、短いはずなのに、かなり”読みで”がある。中身が濃い。

それは、本の内容を凌駕するような、山村さんの見識や博識が背景にあるからだ。もっと乱暴にいえば、選ばれた本、それ自体がもつ価値以上のものが、山村さんによって付加されたような・・・。

いつも、<狐>の書評の「書き出し」に唸っていた。どきどきした。書評の、その先が読みたくなった。

「おそろしい古典である」(小西甚一校注『一言芳談』)

「大学紀要的(アカデミック)ではない。ずっと実践的(プラクティカル)」 (田中優子『近世アジア漂流』)

「伝記文学の粋である」(ツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』)

「読めども読めども読み切れない」(山口昌男『「敗者」の精神史』)

山村さんの書評を読んで、そこで取り上げられている本を、ばりばり読んだかといえば、なかなかそうはいかない。

ジャンルや内容が、興味・関心から遠いものもあれば、難しそうで敬遠したくなるものも多い。でも、読みたくなったし、読んだような気なった。そういう本の存在を知るだけでも収穫だった。

この本の中の、初収録の文章の、次のような一節が好きだ。

   「書評者は伝達者だと思う。
    肝心なのは、
    本を閉ざして自己主張することではなく、
    本を開いて、
    そこに書かれていることを
    伝えることのはずです」

<狐>の書評は、まさに、そのようにして、ここにある。

もっと、狐の書評 (ちくま文庫 き 19-2)
山村 修
筑摩書房

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世間では、相変わらず、おかしな事件が続いている。前夜一緒にカレーを作って食べた父親を殺害する娘。駅で他人に斬りつける女性。そこへもってきて、熱帯のような暑さ。川で人が流される突然の豪雨。電車が止まる落雷。うーむ、自然もお怒りなのか。

そうだ、内田さんに聞いてみよう

2008年07月29日 | 本・新聞・雑誌・活字
毎日、もしくは頻繁にチェックするブログがある。神戸女学院大学教授の内田樹さんの「内田樹の研究室」も、その中の一つだ。

内田さんの本は、2002年の『大人は愉しい~メル友おじさん交換日記』あたりからリアルタイムで読んでいる。ただし、武術論・身体論方面はやや苦手です。すみません。

ブログという一種の「生放送」には、本とは違う分かりやすさ、楽しさがある。

新著『こんな日本でよかったね~構造主義的日本論 』(バジリコ)は、このブログがベースになっている。だから、ほとんどは、一度は読んだ文章のはずだが、そこは編集の妙。項目が整理され、再構成されると、「ブロック」としての意味を持ってくる。「なるほど」感が高まる。

この本の魅力、というか内田さんの魅力ってことかもしれないが、それは「言い切ってくれること」だ。

「***ではないか」とか、「***かもしれない」とか、「***とも考えられる」とか、そんな曖昧なことは言わない。内田さんは、「***なのだ」と潔い。

たとえば、「格差社会」とは何か? 内田さんはいう。〔金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会〕だと。なるほどなあ。

また、「少子化」については、こうだ。〔少子化は「問題」ではなく、問題に対する「解答」である〕。なぜなら〔日本政府の30年にわたる国策の成果〕だから。

さらに、この問題に楽観的だという理由を、〔明治末期の5000万人くらいまで減少すれば、日本社会は今より住みよくなるだろう〕と説明している。冗談みたいだが、確かにそうかもしれない。

大学生と就職に関しては、〔「適職」という概念を発明したことそれ自体がリクルートの奇跡的なサクセスの秘密なのである〕とキッパリ。さらに、〔人生はミスマッチである〕の名言が続くのだ。

うーん、深い。ミスマッチがマッチしていくプロセスが人生かもしれない。

さまざまなメディアから、あらゆるテーマについて、内田さんは「回答」を求められる。『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(朝日新聞社)という書名があったけど、あれは村上春樹さん。今や「内田さんに聞いてみよう」状態である。

そして、快刀乱麻のごとく内田さんは答える。「私はこう考える」と。

たぶん、その回答が正しいかどうかは問題ではない。私を含む読者にとって、「こう考えることができるんだ」という発見、または気づきが快感で、今日もまた内田さんの新刊に手を伸ばしてしまうのではないか。と、内田さんならぬ私は、「***ではないか」方式で書いておこう。

こんな日本でよかったね─構造主義的日本論 (木星叢書)
内田樹
バジリコ

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東京の街によって呼び覚まされる記憶

2008年07月28日 | 本・新聞・雑誌・活字

『靖国』のときも、「すごい書名だなあ」と思ったが、今度の『東京』っていうのもすごい。読めば、ずばりのタイトルだが、次は『日本』だったりしないかとバカなことを考えたりして。

坪内祐三さんの新刊『東京』(太田出版)は、東京の街を歩きながらの青春回想記だ。本の帯には「自伝青春譜」とある。ただし、歩いたのは2004年から07年にかけて(雑誌「クイック・ジャパン」での連載)だから、その時点での「現在」と「青春時代」が語られている。

目次を開いて、ランダムに読む。自分が好きな街。知っている街。気になる街。訳ありの街。一度も行ってない街。坪内さんが書くその街との関係と回想に、自分自身の街との関係と回想が微妙に絡み合う。読みながら、やけに内省的になっていることに気づく。

たとえば、赤坂。坪内さんにとっての赤坂を読みながら、自分のいた会社が長くあったあの街を思い出している。私の80年代は赤坂がベースになっていた。

まだ焼けていない「ホテル・ニュージャパン」の和室で行われた構成会議。一ツ木通りに面していた頃のTBSの地下にあった「ざくろ」で、先輩からごちそうになった「しゃぶしゃぶ」の味と値段に驚いた、駆け出しAD時代の自分。ここのカレーが大好きで、週に一度は食べていた「トップス&サクソン」。殿山泰司さんが座っている隣のテーブルで、文庫本を読みながらコーヒーを飲んだ喫茶店「一新」・・・こうしてすぐに挙げられる場所や店が、この本には全部出てくる。

他にも、神保町や早稲田や下北沢など、はやり読みながら勝手な回想に没入してしまう街がある。

街は変わる。変わってきた。そして、坪内さんも、これを読んでいる私も。その一方で、街にも、自分たちの中にも、どうしようもなく変わらないものがある。その両者を感じさせてくれる一冊だ。

文章との相乗効果を見せる北島敬三さんの写真もいい。まるで自分の記憶のワンシーンのようだ。

そうそう、巻末に坪内さんと北島さんの「エピローグ対談」が載っている。では、「プロローグ対談」はどこかと思ったら、何と、カバーの裏側に印刷されていた。ぺろりと脱がして、読む。でも、これって、図書館に収められた場合、どうなるんだろう。図書館では、本を必ず加工する。カバーを表紙に貼り付けたりするのだ。借りた人は、この大切な対談が読めるんだろうか。心配。

東京
坪内 祐三
太田出版

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靖国
坪内 祐三
新潮社

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公害、広告、野球にびっくり

2008年07月27日 | 本・新聞・雑誌・活字

ついさっき、町の各所に設置されているスピーカーが鳴り出した。ベランダに出て聴くと、「光化学スモッグに注意してください」という注意報だったので、びっくり。

「光化学スモッグ」自体が、何だか懐かしかった。どこか60年代、70年代のイメージがあったのだ。その危険性についてはともかく、そうか、まだこの「公害」は生きていたのか、と妙に感心してしまった。

その後、朝日新聞の朝刊を読んでいて、4面の下にある書籍広告が目に入った。幻冬舎新書『偽善エコロジー』のものだ。

ああ、もう17万部も行ったのかと驚きつつ眺めていたら、「各メディアで話題沸騰!」の文言があった。『産経新聞』『読売新聞』のコラムで、この本に触れた部分の抜粋の次に、先日、私が週刊誌に書いた書評からの引用もあって、またびっくり。


   今の日本はエコという一神教に支配された国。
   ならば本書は、神をも恐れぬ危険な書だ。
     『週刊新潮』2008年7月17日号「テンポブックス」


さすが幻冬舎。使えるものは、ちゃんと使っています(笑)。いや、これはこれで書評子としては光栄なり。

テレビで高校野球の北神奈川大会決勝、慶應vs東海大相模の試合をやっている。逆転、また逆転で、これまたびっくり。その展開をちらちら見ながら、『傷だらけの天使』の続きを読んでいる。

猛暑につきヒヤッとするものを求めて

2008年07月27日 | 本・新聞・雑誌・活字
引き続きの猛暑につき、昨日は涼しい映画館に避難した。見る作品も、ヒヤッとしそうな『ハプニング』を選んだ。正解。

M・ナイト・シャマラン監督である。『シックス・センス』『サイン』『ヴィレッジ』と見てきたが、いずれも涼しくなるものばかりで、この『ハプニング』も同様だった。

突然、街なかで異変が起こる。ニューヨークのセントラルパークで、行き交う人々の様子がおかしくなり、立ち止まり、そして死んでいくのだ。え、何? テロ?

それは、他の都市でも次々と発生する。原因は不明。そう、この原因不明が怖い。

主演は『ディパーテッド』のマーク・ウオールバーグだ。高校の科学教師。妻と、そして友人の娘と共にフィラデルフィアの街を逃げ出す。その逃避行で彼らが体験するのは・・・。

「見えざる敵」ほど怖いものはない。常識や、普通の知識で解明できない敵も怖い。しかし、そんな敵が「ありえなくない」と思わせるのも、シャマラン監督の映像センスと演出の腕だろう。

シャマラン作品に関しては、まったく受けつけない人もいるはず。でも、まあ、「オドカシ屋」としてはなかなかだと思うのだ。

見終わって、シネコンのロビーに出ると、子どもたちとその親であふれかえっている。もちろん、お目当ては『ポニョ』だ。「よかった、みんな無事だあ」などと半分映画の世界を引きずりつつも、『ハプニング』で少し硬くなっていた背中がほぐれる。


階下の本屋さんに入る。ここも涼しい。選んだのは、矢作俊彦さんの新刊『傷だらけの天使~魔都に天使のハンマーを』(講談社)だ。

1974~75年に、日本テレビで放送されていた『傷だらけの天使』。あのショーケンこと萩原健一主演のドラマの、「その後」の物語である。

30数年が過ぎて、現代の東京。「オサムちゃん」もいい歳になっている。しかもホームレスになってたりして。

70年代そのままの主人公・小暮修の目に映る、いまどきの東京と、いまどきの人間が面白い。ズレ。違和感。ときには衝突。矢作さんの「異議申し立て」を感じて、つい拍手する。

まるで30年の眠りから覚めたような修。しかし、ホームレス仲間の一人が殺され、それがどうやら自分の身代わりらしいと判り、ヒヤッとする。そして動き出さざるを得なくなる。さあ、懐かしき街の中へ・・・。



傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを
矢作 俊彦
講談社

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週末はビールと冷酒を往きつ戻りつ・・・

2008年07月26日 | 本・新聞・雑誌・活字

昨日、大学のホールで、NHKディレクターのリッキー・オコーネルさん、CM制作会社TYOのディレクターである友次彰さん、プロデューサーの馬場弘明さんたちによる、映像ワークショップが開かれた。

これは「NHKミニミニ映像大賞」関連の催しで、キャノンやホンダのCMや、NHKのエコキャンペーンで流れたパヒュームの3人を起用したものなどを実例に、CM制作のプロセスを解説して下さったのだ。なるほどなあ~が、いくつもあった。

夕方からは八王子のホテルで集まりがあり、ようやくビール。今日のような気温も湿度も高い日は、やはり美味い。完全な「ビール党」なので、夏でも冬でもビールだ。

でも、暑かった日の夜に飲む冷酒は、さすがに美味い!と思う。日本酒について、少し勉強しようと、小泉武夫さんの近著『こだわりの日本酒と酒肴』(アズ・ファクトリー)入手。

確かに、昔から「名酒在る処に名肴在り」の謂れあり、だ。この本では、全国の美味い地酒と、その味を引き立てる地元料理や、名物の肴が紹介されている。しかも、取り寄せ情報付き。

小泉さんは、醸造学や食文化を専門とする東農大教授だ。蔵元の人たちとの酒談義もまた深い味わいに満ちている。

ぱらぱらとページをめくっていると、週末はビールと冷酒を往きつ戻りつしてもいいかも、と思えてきた。

こだわりの日本酒と酒肴 取り寄せ情報付き 造り酒屋の女将が教える究極の蔵出しの味
小泉 武夫
アズ・ファクトリー

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純喫茶「顰蹙文学カフェ」でアイスコーヒーが飲みたい

2008年07月25日 | 本・新聞・雑誌・活字

暑いです、連日。八王子の郊外にあるキャンパスも暑い。広い構内を、研究室から教室に向かって歩くだけで大汗。だから、今日はアロハを着て大学に行った。1月にマウイで買った本場モノだから、正しく派手だ。もちろん、本学において、アロハで授業をする先生は珍しい、というか、いない。でも、ハワイじゃ正装だし。って、八王子はハワイか。

八王子は、暑さでは(湿気はともかく)ハワイ並みだが、先日の通り魔殺人で、ハワイどころか秋葉原になってしまった。中央大の女子学生、本当にむごい。こんな事件のたび、なぜだ、と思う。この国が、「あり得ないこと」が「普通にある」社会になっている事実は分かる。ただ、どうしたらいいのかが分からないのだ。

フジテレビさん、27時間使っての「お祭り」も結構ですが、専門家でも政治家でも宗教家でも何でもいいから、この国の英知をお台場に集結させて、27時間ぶっ通しで「どうしたらいいか」を考えてみたらどうでしょう。でも、視聴率はこないもんなあ。放送しないよねえ。

さて、気を取り直して(?)、『顰蹙文学カフェ』(講談社)である。高橋源一郎さんと山田詠美さん。コンセプトは、巻頭のご両所の対談のタイトル通り、<「顰蹙」買えたら、作家は一人前>ってことかな。

顰蹙買われる作家の方々、顰蹙の王者、顰蹙の権化をお招きして、「文学」の真髄に触れよう、という凄い企画。そういえば(関係ないけど)、「顰蹙」って文字を見るだけで、「挑戦者は顰蹙を買ってナンボ」と言っていた幻冬舎の見城徹さんを思い出す。強烈な刷り込みだ。

ゲストには島田雅彦さん、中原昌也さん、車谷長吉さん、古井由吉さん、そして大トリは瀬戸内寂聴さん。確かにヒンシュクの大量購入。豪華だ。

個々の鼎談(3人だから)は、それぞれ「ぶっちゃけトーク」みたいで、無類の面白さだ。話題になる作家の名前が、当たり前のように「実名」で出てくるだけでも、この本はすごい。またヒンシュクだろうに。

読んでよかったなあ、と思ったのは、この1冊で、いわゆる「ブンガク方面」の事情に、だいぶ明るくなったような気になれたこと。現状把握のための、自分なりの「見取り図」みたいなものを思い描くことができたってことだ。

それにしても、エイミー姐さんの「閉店の弁」によれば、『群像』誌上で営業していたこの素敵なカフェ、4月号でおしまいになっちゃったみたいで、残念。まさか、全く別の「顰蹙」を買っちゃったんじゃあるまいね。「顰蹙文学カフェ」、いい店だから、また来たかった。陰ながら、復活を望みたい。

ところで、ふと思ったんだけど、純文学の純と、純喫茶の純って、意味的にも、ちょっと似てるよね。ん、似てないか。いや、似てるぞ。ま、いいけど。

顰蹙文学カフェ
高橋 源一郎,山田 詠美
講談社

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なるほど、映画ファンのための「新書」ときたか

2008年07月24日 | 本・新聞・雑誌・活字
何しろ、映画ファンのための「新書」である。雑誌「スクリーン」の近代映画社が、「SCREEN新書」を創刊した。もちろん、大歓迎。

第1弾となる4冊のうち、さっそく2冊を入手。秋本鉄次さんの『映画は“女優”で見る! ~映画生活を楽しくするススメ』と、北島明弘さん『アメリカ映画100年帝国』 である。

これ、新書というけど、普通の新書版よりも、ひと回り大きい。タテが3ミリ、ヨコは11ミリのオーバーだ。ま、どうでもいいけど。

まず、創刊時に、秋本さんが入っているのが嬉しいじゃないの。秋本さんは、私が信頼している映画評論家の一人だ。あちこちの新聞・雑誌に書いていらっしゃるが、中でも「日刊ゲンダイ」週末版の連載「秋本鉄次が話題の新作映画を斬る!」が好き。

秋本さんの批評は、見るべきポイントがきっちり書かれていて、いいものはいい、ダメなものはダメ、はっきり、すっきり、断定していて、気持ちいいのだ。もしも、文末に「オジサン世代必見だ!」なーんてあれば、私は必ず見ることにしている。

秋本さんといえば、何てったって女優好き。特に外国映画を語る際に「パツキン」を連呼する、そのストレートさが嬉しい。

この新書でも笑ってしまった。第4章、わが愛しの女優たち。これが6つのカテゴリーに分類されていて、武闘派、知性派、喜劇派、肉体派、悪女派、一発屋、である。見事な分け方じゃないか。かつて、『昨日の夜は・・・』での清純ぶりに涙したデミ・ムーアが、一発屋に入っているのはショックだが(その後を見れば仕方ないけど)。

中でも「武闘派」は、いかにも秋本さん好み。『キル・ビル』のウーマ・サーマン(ユマじゃないのね)を指して「エロかっこいいパツキン摩天楼!」、キム・ベイシンガーは、「わが世界最愛女優、パツキン総本山の比類なき牙城!」って、これはもう、アブナイ領域に入っているオッサンだ。

独断、結構! 偏愛、上等! 読み進めれば、いつの間にか、秋本風「パツキン愛」に感化されているはず。

映画は“女優”で見る!―映画生活を楽しくするススメ (SCREEN新書 3)
秋本 鉄次
近代映画社

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アメリカ映画100年帝国―なぜアメリカ映画が世界を席巻したのか? (SCREEN新書 2)
北島 明弘
近代映画社

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昨日(22日)の「読売新聞」朝刊でのコメント

2008年07月23日 | テレビ・ラジオ・メディア
昨日(22日)の「読売新聞」朝刊、番組面の記者コラム「モニター」に、コメントが掲載された。この日のタイトルは「テレビ通販の危うい傾向」。

コラムでは、公正取引委員会が、乗馬型フィットネス器具を扱っていた通販番組に関して、テレビ朝日に「警告」したことに始まり、放送局がCM収入の落ち込みを埋めるべく通販事業などにまい進する状況を説明。さらにBPO(放送倫理・番組向上機構)でも、生活情報番組の一部として商品の通販をしていることについては「区別が明確でないのではないか」と疑問視する声が出たことを伝えている。

そして、特にテレビ局が直接制作にかかわっている通販番組では、視聴者に誤解を与えて商品を購入させた場合の責任は重いとした後、私のコメントが出てくる。もちろん、例によって、かなりの量を話した中から抽出されたものだ。

  「通販番組はテレビ局が発信元だけに、視聴者に訴えかける力が強い。
   視聴者を消費者と見なし、直接の商売相手とする傾向の危うさを自覚
   しなければならない」

このコラムが書くように、テレビ各局は、広告収入減少への対策として、放送以外の事業を大きく展開している。フジテレビも昨日、「ブライダル事業」への参入を発表した。営利事業者としては当然なのかもしれないが、一般企業との違いも多々あるのが「放送という事業」であり、その在り方については今後も議論が必要だ。

テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0
Joseph Jaffe
翔泳社

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本好きが「これが出るのを待っていた」と言える本

2008年07月23日 | 本・新聞・雑誌・活字

「これが出るのを待っていた」と言える本を手にした時の嬉しさといったら・・・。

倉本四郎さんが「週刊ポスト」で書いてきた書評をまとめた『ポスト・ブックレビューの時代~倉本四郎書評集 上巻 1976-1985』(渡邉裕之:編、右文書院)が出た。

あらためて知って驚くのは、あの「ポスト」の書評が1976年から97年まで、21年間も続けられたということだ。

毎週毎週、何冊もの本を読んだ上で、取り上げる1冊を決定し、著者にインタビューを行い、またはその本に関心をもつ人物たちと会話をして、1本の原稿としてまとめる。それを21年! 

上・下2巻本となる予定の1冊目であるこの本には、約1000本の書評原稿から100本が選ばれ、年代順に並んでいる。冒頭76年のページの、1冊目は、梶山季之さんの『小説GHQ』、2冊目が植草甚一さんの『いい映画を見に行こう』である。もう、これだけで嬉しい。

梶山さんは、この頃、すでに亡くなっていて、「架空インタビュー」という形になっている。もちろん、勝手な想像で書かれてはいない。梶山さんを知る方々への取材を経ての「架空」である。まさに倉本さんの”芸”。

植草さんの本は、当時刊行が始まった『植草甚一スクラップブック全41巻』の中の一冊だ。インタビューに答えているのは、紀田順一郎さんや久保田二郎さんたち。これまたゼイタクだ。

他にも、『怪しい来客簿』について語る色川武大さん。『死の棘』をめぐって冷静に(?)振り返る島尾敏雄・ミホ夫妻。まだ「知る人ぞ知るの時代」の荒俣宏さんと『図鑑の博物誌』などなど。

書き出すとキリがないが、倉本さん自身が「会いたい」と思った著者、「話したい」と思った書き手は、いずれも一筋縄ではいかない人たちであり、それを文章という縄で、見事に捕らえてしまう。やはり、倉本さんも只者ではないのだ。

また、倉本さんが選らんだ本を見ていると、いわゆるベストセラー系はほとんどない。巻末の解説で、松山巌さんが述べているように、「職人仕事、芸、技についての著作が多い」。私自身も、倉本さんの書評を読まなかったら、手にしなかったかもしれない「いい本」に何冊も出会えた。

これも松山さんがズバリと書いている。倉本さんの書評からは「人生の秘密が垣間見える」と。そうか、そうだったのかと、今さらながら、倉本書評の魅力が理解できた。

うーん、下巻の出版も待ち遠しい。上下併せることで、広大な<倉本ブックワールド>が少しは見てくるはずだ。

ポスト・ブックレビューの時代 上 1976-1985―倉本四郎書評集 (1)
倉本 四郎
右文書院

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ちゃんと作られた医療ドラマは社会派ドラマなのです

2008年07月22日 | メディアでのコメント・論評

『北海道新聞』から連絡が入り、「最近、医療ドラマが目につくようになった理由」について、コメントを求められた。確かに、この夏も、フジテレビ『コード・ブルー』、TBS日曜劇場『Tomorrow』など、いくつかの医療ドラマがスタートしている。

いろんなことが考えられるが、ざっと次のようなことをお伝えした。掲載予定は今週の金曜日、25日だそうだ。

もちろん、字数やスペースのことがあるから、ぎゅっと凝縮されたものが掲載されるはず。とりあえず、忘れないうちに、述べさせていただいた概要を、以下に記録しておこう。


(コメント概要)
医療ドラマは、どれだけエンタテインメントの要素を含んでいても、本質的には<社会派ドラマ>だといえます。なぜなら、医療システムとは、社会システムそのものでもあるからです。

安直な恋愛ドラマや、若者ばかりを狙った軽めのドラマに飽き足らなくなった視聴者にとって、現実を巧みに取り込こみ、起伏に飛んだストーリーの社会派ドラマは大歓迎なのです。たとえば経済問題をドラマ化して成功したNHK「ハゲタカ」もそうでした。

今や、医療は、経済と並んで、市民の大きな関心事です。現在ほど医療が危機に直面している時代はなく、市民の間に、医療に対する危機感・不安感が充満している時代はないといえます。

それでいて、医学の世界は、なかなか外部からはうかがい知れないものです。市民(視聴者)がもつ医療そのものへの関心が、医療ドラマを支持する要因の一つだといえるでしょう。

また、医療ドラマの主人公である医師は、「強き(病気)を挫き、弱き(患者)を助ける」のですから、本来「ヒーロー」の要素をもった職業です。ならば医療ドラマは、生と死という究極のテーマを扱う<ヒーロードラマ>だということになります。

さらに、医療ドラマが注目されるようになった背景には、<医療小説の隆盛>があります。山崎豊子「白い巨塔」のリバイバル・ヒットだけでなく、ここ数年、山崎作品や渡辺淳一作品以外にも、新たな書き手の、優れた医療小説が登場してきました。

たとえば、海堂 尊「チーム・バチスタの栄光」、東野圭吾「使命と魂のリミット」、久間十義「生命徴候あり」などです。荻原浩「明日の記憶」も一種の医療小説でした。医療自体がもつドラマチックな要素を、医療小説が証明した形となり、制作者が医療ドラマに向かっていく際の自信につながっていると考えます。

チーム・バチスタの栄光
海堂 尊
宝島社

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使命と魂のリミット
東野 圭吾
新潮社

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生命徴候あり
久間 十義
朝日新聞出版

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明日の記憶
荻原 浩
光文社

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オープンキャンパスをかける少女たち

2008年07月21日 | 本・新聞・雑誌・活字
20日(日)、21日(月)は、大学のオープンキャンパスだ。私も「講義ライブ」という短いレクチャーをしたり、「面談」を担当したが、大学事務局によれば、昨日の初日は約1000人の来場者があったそうだ。梅雨明けで、あんなに暑かったのに、嬉しいではないか。

思えば、私たちが高校生だった頃には、オープンキャンパスなどというイベントはなかった。高校3年の夏休みに、一人で上京し、親戚の家に1泊させてもらい、受験しようと思っていた4つの大学を回ってみた。いずれの大学も夏休み中だったからキャンパス内は静かで、のんびりと散歩をしたような”一人見学ツアー”だった。

ふだん信州で暮らす高校生にとって、受験雑誌などで見るだけだった大学のキャンパスを実際に歩くのは、結構いい刺激になった。その場に立ってみたことで、何となく雰囲気が気に入ったり、その逆だったりして、行きたい大学の順位も入れ替わったりした。しかし、最終的に受験したのは、このときに訪ねた4校のみだ。

昨日、炎天下のキャンパスに来てくれた大勢の高校生たち。女子生徒には制服姿も多く、土曜の夜にテレビ放映で見たばかりの長編アニメ映画『時をかける少女』(細田守監督)を思い出した。

これは公開時に見逃して、ずっと気になっていた作品だ。筒井康隆さんの原作とも、大林宣彦監督の実写版とも、かなり違う物語展開とテイストで驚いたが、いやあ、見てよかった。遅ればせながら、傑作でありました。

ヒロインの女子高校生(真琴)と二人の男子高校生(千昭と功介)。その日常的な言葉、会話、感情、しぐさ、身体全体の動き。いずれも、極めて繊細に、リアルに、彼らの「世界」をすくいとり、表現されている。3人が何も意識せずキャッチボールをしているだけの風景が、人生という時間の流れの中で、いかに貴重なものか。見ていると、ちょっと泣きたくなる。

そして、何より、絵の美しさ。たとえば夕焼けの遠景ひとつにしても、実写で粘っても偶然に左右され、思ったような映像は困難で、CGで理想的な夕景を描くことは可能だが、それもこの作品の映像トーンにハマるとは思えない。これが、やはり完成した世界なんだよなあ。

映画の中の、ヒロインの少女は走る。本当によく走る。思いっきりジャンプする。何度も転倒する。そして、転がるたびに成長していく、ひたすら多感な時期。

広いキャンパスの中央を占める、これまた広くて長い緩やかな坂道を行き交う高校生たちを眺めながら、映画の中のいくつものシーンを思い浮かべていた。

時をかける少女 (限定版DVD)

角川エンタテインメント

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時をかける少女 絵コンテ 細田守
アニメスタイル編集部
スタイル

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時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)
筒井 康隆
角川書店

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宮崎アニメはスピルバーグを超えたのか

2008年07月20日 | 本・新聞・雑誌・活字
迷っている。すぐに見るべきか、しばらくは待つべきか。問題は「ポニョ」だ。そう、宮崎駿監督の新作『崖の上のポニョ』である。

テレビからは、例の女の子の声で「♪ポーニョ ポーニョ ポニョ さかなの子」の歌が呪文のように流れまくり、すでに頭の中は”輪唱”状態。あ、そういえば、あの歌を歌っている少女歌手(?)って、顔を見るまでは、あの声や歌唱法から、もっと小さな、5歳くらいの子だとばかり思っていたけど、イメージより年上の風情でびっくり。なんか、だまされたような・・・。

さて、『ポニョ』である。見ないで言うのはヘンだけど、あれって「人魚姫」だよね。宮崎版の「人魚姫」。うーん、なぜ、今、人魚姫なんだろう。それに、「ニモ」って話もある。うーん、宮崎版「ニモ」かあ。正直言って、「ニモ」も「人魚姫」も、イマイチ食指が動かないのだ。困った。

いずれ見るにしても、しばし模様眺め、ということにして、手にしたのは、映画アナリスト(分析家)の斉藤守彦さんが書いた『宮崎アニメは、なぜ当たる~スピルバーグを超えた理由』 (朝日新書)である。

「宮崎アニメは、なぜ当たる」のタイトルはいい。出版のタイミングも、『インディ・ジョーンズ』の”復活”と『ポニョ』の”泳ぎ出し”に合わせて、どんぴしゃだ。ただ、副題の「スピルバーグを超えた理由」は、ちょっと刺激的だよね。宮崎アニメは、本当に「スピルバーグを超えた」のですか?

この本のキモは、「宮崎アニメVS.スピルバーグ」という設定、というか構造そのもの。そして、映画宣伝の3つの方法である、アドバタイジング、パブリッシング、プロモーションに焦点を当てて論じているのが特色だ。

意外なのは、スタジオジブリから「事実確認のための協力を拒否」されたという斉藤さんの告白。ということは、単純な「ヨイショ本」とは一線を画すってことかな? 

というわけで、この本で、約20年間の「宮崎アニメ」の流れを、世界的視野でおさらいして、再度、「ポニョ」問題を考えることにしよう。

宮崎アニメは、なぜ当たる~スピルバーグを超えた理由 (朝日新書 121)
斉藤 守彦
朝日新聞出版

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マッハ号で「シェーの時代」へGOGOGO!

2008年07月19日 | 映画・ビデオ・映像
私たちの世代だと、書名だけで思わず手を伸ばしてしまうのが、泉 麻人さんの新著『シェーの時代~「おそ松くん」と昭和こども社会』 (文春新書)だ。

『おそ松くん』は、いわずと知れた赤塚不二夫さんの漫画で、昭和37年の4月に「少年サンデー」でスタート。当時、私は小学校2年生だが、まだ「サンデー」を読んでいない。

毎週読み始めたのは、2年後の4年生くらいからだ。この頃から、毎朝、友人の福島直人君の家に寄り、一緒に登校するようになった。福島君は「サンデー」を毎週購入しており、私は、朝の準備にやや時間のかかる福島君を待ちながら、縁側に腰掛けて『おそ松くん』が載った「サンデー」を読んだ。

テレビアニメになったのは昭和41年のことだ。登場人物の一人であるイヤミが全身でやってみせる「シェー」は、アニメだと、当然、本人の「動き」を目にすることになる。

ただ、個人的な記憶でいうと、漫画の中のシェーのほうが、よりダイナミックというか、アナーキー(なんて言葉は当時知らなかったが)な印象があった。この年には、もう小学6年生だったから、漫画とは微妙に違うアニメの”ゆるさ”に気がついていたのかもしれない。

昭和40年の年末に公開された東宝映画『怪獣大戦争』で、ゴジラがシェーをしたのを、リアルタイムで見ている。当時、私の小学校では、映画は、学校が許可した作品以外は見ることが禁じられていた。

しかし、怪獣映画は、毎回「許可映画」となっており、このゴジラのシェーも、公開初日に見たはずだ。そして、ちょっとがっかり、かなりシラけた覚えがある。私たち子どもに、どこか媚びた演出というか、変に迎合しているというか、中途半端な現実(ここでは流行現象)を持ち込むことで、大好きな「ゴジラの世界」が壊されたような、そんな思いがあった。

ゴジラのシェーについては、泉さんも書いていて、「それを見て喜んだ印象はなく、むしろおどけ役に成り下がったゴジラに痛々しいものを感じた」とある。やはり、当時の少年たちの共通感覚だったのだ。

泉さんは、『おそ松くん』全巻を徹底的に読み込み、六つ子だけでなく、イヤミや、ちび太や、デカパンなど登場人物を、独自の視点から分析。また、連載が続けられた昭和30年代後半から40年代にかけて、「読者」だった子どもたちの暮らしや思いがどんなものだったのかについても語られている。いわば一つの「同時代史」となっているのだ。

シェーの時代―「おそ松くん」と昭和こども社会 (文春新書 642)
泉 麻人
文藝春秋

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『おそ松くん』の放送開始が昭和41年で、翌42年から始まったTVアニメが『マッハGOGOGO』だ。吉田竜夫さんとタツノコプロである。これは、マッハ号のカッコよさで忘れられない。このマッハ号と、『スーパージェッター』に登場した「流星号」は、当時だけでなく、今の私にとっても、カッコいいクルマ(流星号はタイムマシンだけど)である。

そんな『マッハGOGOGO』の”実写版”といわれる映画『スピードレーサー』を見てきた。監督が『マトリックス』シリーズのウォシャウスキー兄弟ときては、やはりチェックしておきたいじゃないの。

まあ、走ること、走ること。漫画やアニメのマッハ号が、目の前をぶんぶん駆けていく。レースシーンのスピード感、迫力、これは相当なものだし、全体が、まばゆいばかりの映像世界だ。

ただね、でもね、ハイレベルのCG技術であることは納得した上で、また、ウォシャウスキー兄弟ならではの映像マジックは十分に楽しんだ上で、ないものねだりかもしれないけど、やはり本当の”実写版”が見たくなったなあ。『ワイルド・スピード』みたいになっちゃうのかなあ。無理かなあ。

とはいえ、エンドロールと共に流れる、今風にアレンジされた『マッハGOGOGO』のテーマ曲。聴くのは約40年ぶりで、嬉しかった。

マッハGo Go Go 2
吉田 竜夫
ゴマブックス

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スピード・レーサー (扶桑社ミステリー ウ 30-1)
マイクル・アンソニー・スティール
扶桑社

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