明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

しじゅうにしてまどう

2011-06-10 12:49:55 | 友達
一昨日は、久しぶりにこうちゃんと飲みに行った。
酒飲み同士が家の近くで飲むとエンドレスになるので怖い。
結局、8時間以上飲んでいて、タクシーで3時前に帰宅。

1軒目でビール2杯と日本酒4杯。
2件目でウイスキー2杯とビール1杯。

8時間という時間にしたら、たいした量でもないのだけど、歳のせいか真夜中まで飲み続けるとキツい。
ずーっとテンションが上がってるからか、翌日はぐったりしている

いつも思うけど、「ブレがない人」っていいなと思う。

私が言う「ブレがない」とは、自分の意思を貫くとか、自己主張するとか、そういう意味ではない。
言い方を変えれば、「自信がある」というのか。

「自信がある」という表現も人によって定義が若干異なる気がするが、
私の定義で言うと、私は「自信のない人」だ。
たまに「自信満々に見える」と言われるけど、それは「私はこうです」という意見をきちんと持っているし、
それを表現する力もあるからそう見えるだけだと思う。
でも、それは「自信」というのとは違うのだ。

本当に「自信がある人」というのは、ブレがない。
たとえば、人と自分を比較しない。
人の意見に左右されない。
人の目や「どう思われるか」を気にしない。
それは別に傍若無人にふるまうというわけではなく、むしろその逆で、
「私!私!」と主張しなくても、静かにじっくりと腰を据えて、人との関係を作っている。
動じない、というのか。

そういう意味で、私は本当に自信がない。
上に書いた人物像の真逆。

「私!」の自己主張はやたらとするし、傍若無人にふるまうくせに、
いつも心の中で人と比較していて、「あの人はいいな」とうらやましがったり、
「私はこういうところが劣ってるんだな」と落ち込んだり、
時には行き過ぎると、「だから私はダメなんだ」と必要以上に自分を責め立てる。
人のちょっとした言動にもすぐびくびくする。
20年も30年も友達関係を築いていても、いまだにちょっとしたことで「もう見捨てられるのでは?」と不安になることすらある。

こうちゃんとももう30年近くも友達をやっているのに、
2月頃、メールして遊ぼうと言ったのに返事が来なかったことを私が少し責めるようにメールしてしまったことがあった。

「正直、あれはちょっとびっくりした」と言われた。

私がそのときの心情を細かく話した。
怒ったとかではなく、まず思ったのが、「きっと前に会ったとき、私は嫌われるようなことをしてしまったんだ」と。
それで、前に会った後のメールを見直したり、酔っ払って傷つけたりしなかったかと、必死に思い返したりしていた。
夜寝るときも、よくこのことを考えた。
そういえば、小学校も中学校も、こうちゃんが東京に行った後も、ずっと追いかけていたのは私だったなと思ったりもした。
そうか、私が追いかけていたから友達関係は成り立っていたけれど、
私が連絡しなければ、この関係はすぐに終わるのだ。
考えてみれば、私という存在は、それくらいのものだよな・・・

最終的にはそんな結論に落ち着いて、しょぼくれていたりもした。

この時期、少し人間関係で落ち込んでいたから、よけいにネガティブになっていたところもある。

そして、今度はこんなことでしょぼしょぼしてる自分って、なんでこんなに暗いんだろうとか、
なんでこんなマイナス思考で、なんでこんなに器が小さいんだろうかと、もう関係ないことまで責めるようになっていた。

それを話すと、こうちゃんは「ちょっと病的やな」と言いつつも、「そんな気持ちにさせてごめんな」と言ってくれた。
そんなことを言わせた自分にまた落ち込んだ。

子供の頃からずっと、自分の存在意義ばかり考えて生きてきた。
生まれてきてよかったのか?
生きていていいのか?
自分の存在は人の役に立てるのか?
自分は生きているだけで人を傷つけてばかりじゃないか?

だから、いつもびくびくしている。
びくびくしているから、それを悟られないように、「私!」を主張したがる。
人との関係を密にしたがる。
いつも誰かに囲まれていないと、自分の存在などすぐに消えてしまいそうで恐ろしかった。

臆病者の代表みたいな人間である。
怖がりの犬みたいなもんで、大きな声で吠える。
いつも虚勢を張って生きている。

自分の友達を見ていると、みんなブレがないな、と感じる。
自信があるということは、人より優れているということではないことを普通に知っている。
人と比較をしない。
自分は自分でいいのだと、特にそれを主張することもないけれど、確かにそういうものを持っている。

私が大きな声で吠えているとき、優しく「そうやなー。わかるけどなぁ」と言ってくれる友達もいれば、
「ふーん、そんなん思わんでいいんちゃうん?」と厳しく言う友達もいる。
優しく言ってくれると、少しホッとする。
厳しく言われると、またそれを取り繕うために必死に声を上げてしまう。
どちらにしろ、後で反省する。

40歳になったって、なーんも変わりゃせん

いろんなことを一生懸命やったり、人にサービスしたり、優しくありたいと思ったり、
きちんと生きようとしたり、仕事を頑張ったり・・・
そういうことは、きっと劇的な「自身の変化」にはつながらないのだとぼんやり思う。
ずっと空回り。

きっと根本的に、何かが違うんだろうな。

静かに自信をもって、ブレることなく生きるには、どうすればいいんだろう。
たぶん「自分を好きになる」ということと繋がっているとはわかるんだけど・・・

こうちゃんと話しているとき、
無理して人や世間に合わせず、自分がいいと思うことをしてたらいいんじゃないのか、という意味のことを言われた。
無理に自分を変えることに何の意味があるのかと。(成長する変化ではなく)
そんなの楽しいか?と。

そうやなーと、またぼんやり思う。

孔子は『論語』の中でこう言った。

「四十而不惑」(しじゅうにしてまどわず)

私はまだ不惑の域には達しない。
自分の生き方に確信もなく、自信もなく、心は迷ってばかりだ。

もう少しなんとかならんのかね。