きのふの我に飽くべし
大島蓼太(おおしまりょうた)の『俳諧無門関(はいかいむもんかん)』という俳書の中の言葉。「俳聖」といわれた松尾芭蕉が、常々口にしていたと言われています。
蓼太は、「蕉門十哲」(しょうもんじゅってつ)のひとり服部嵐雪(はっとりらんせつ)の弟子であり、『世の中は三日見ぬ間の桜かな』の作者です。
“きのふの我に飽くべし”――。解釈など必要なく、これほど解かりやすい言葉もないでしょう。思うに、このメッセージは、総てのクリエイティブな事柄に共通のスピリットではないでしょうか。文学や美術といった芸術分野にかぎらず、政治・行政や科学・医学、スポーツ、さらには学問・教育や遊びなどにも共通する普遍的な哲理と思います。
要は、日々精進を重ね、固定観念や一面観的な「ものの見方」を排し、たえず新たなるものを求め続ける……。現状に安住することなく、たゆみない自己改革を実践する……。その積み重ねの結果、芭蕉は俳句における革命家となりえたのであり、子規、虚子そして四Sをはじめとする豊饒な俳句人脈を成す礎となったのでしょう。
……とはいえ、相当なエネルギーと持続力が求められることは言うまでもありませんが……。
芭蕉の言葉として、私も好きな一言です。私は俳句をひねったことはありませんが、下手の横好きの墨絵を少々。そのある作品に対して、知人の俳狂子が放った一言が「きのふの我に飽くべし」でした。
俳狂子は、おそらくいかんともしがたい拙筆の一枚を叱りつける意味で、この一言を用いたのでしょう。
要するに『下手は下手なリに日々努力せよ』との意を伝えたかったのだと私は判断し、今も心に刻んでおりますが……。
花雅美様は如何様に解釈なさるのでしょうか。ふと脳裡に閃いた次第です。妄言非礼の段、お赦しを。
芭蕉の真意は、俳狂子さんと同じでしょうし、それを受け止められたYYOOの気持にも通じるのでしょう。
日々精進せよであり、日々新たなり、そしてたえず変化を求めつつ、また変化を恐れることなく……ということではないでしょうか。
「不易流行」にも通じるものがあるのですか、この「不易流行」については、稿をあらためて論じてみたいと思います。
墨絵、日々精進で頑張ってください。私も「墨絵もどき」を少少々々。