3月末に、大津市瀬田川沿いの「アクア琵琶」で琵琶湖歴史倶楽部主催の講演会があり、
「歩いて学ぶ“琵琶湖疏水の歴史散策”」と題した講演を実施したが、講演後の質問の中に
「琵琶湖疏水工事に沖島産出の石材の使用」に関するものがあり、私自身も平成20(2008)年6月に沖島訪問した記録(ホームページ http://www.geocities.jp/biwako_sosui/biwakokanren2.htm#16)A-02-16/2008-06-11)の中で少し触れたことがあり、簡単な説明を実施したが、改めてネット調査した結果、もう少し詳しい情報があったので、質問者への返答を兼ねてまとめたのが本報である。
1) 近江八幡観光物産協会「沖島」の石材記事の要旨
享保19(1734)年の記録に、“沖島の住人が石を採って之を売る”と記されている。採取した石材は、明治期には琵琶湖疏水・南郷洗堰、東海道線の鉄道工事に使用され、島の経済に大きく貢献したが、時代の流れでコンクリートブロック時代に入り、沖島の石材産業は昭和45(1970)年の組合解散で幕を下ろした。
2)ビワズ通信34号(2002年夏号)
明治に入ると、石材採掘は島の大きな産業となり、各地からも石工が来て賑わった。島で切り出された石は、丸子舟で浜大津港に運ばれると、琵琶湖疏水や東海道本線の鉄道建設、南郷洗堰など多くの土木工事に使用された。
3)「琵琶湖疏水100年」誌・叙述編 130~131ページ記載の要旨
琵琶湖疏水工事用石材は、事前に主任者を派遣し、京都と滋賀での石材産地の調査を実施し、疏水幹線に近い「藤尾官山と疏水分線の浄土寺官山の2山から主に採掘することにした。このほかに、滋賀県蒲生郡奥ノ島村および岡山村(今の近江八幡市)の花崗岩を採掘し、湖水を利用して運搬し、大津から木馬や運搬車に乗せ、牛に引かせて現場に運んだ。
琵琶湖疏水工事の完成後、疏水を通って沖ノ島などから大量に運び込まれ、インクライン、哲学の道、鴨川や高瀬川の石垣、京都大学周辺の石垣に使用された。
4)その他の資料
ホームページやブログなど複数の資料に、“琵琶湖疏水の工事では、約80%が沖島の石”の記事が存在するが、データの出所の記載はない。また、最盛期には石工は50人ほどいた。はじめは瀬戸内などから集まったが、島民も技術を身につけていった。沖島の集落の中心部に「おきしま資料館」が存在するそうである。
5)まとめ
以上を総合すると、“琵琶湖疏水の建設に主として使用されたのは、藤尾(大津市)と浄土寺(京都市)の石材で、その一部に沖島の石も使用されたが、建設終了後に疏水の水路を利用して運搬船が大量の沖島石を京都市内の工事用に運んで使用された”と解釈される。おそらく、沖島の採石出荷量と琵琶湖疏水建設に使用した採石とを比較して80%という誤
った値が出たと推定される。今回は数値確認のための統計データまで追求していない。
推定であるが、“琵琶湖疏水の最初のルートの大津運河に必要な石材は、沖島の石材が立地的に有利であり、南郷洗堰や東海道線など湖南の鉄道工事にも大量に使用された模様”である。