京都市にも空襲被害があったという話題

2011-08-22 10:25:37 | その他

 毎年8月15日の太平洋戦争の終戦記念日が近づくと、戦争に関連した思い出話しの報道や展示会が開催される。今年は、立命館大学の国際平和ミュージアムで開催された「戦争展」で強制疎開の実態をマップで勉強(前報で紹介)し、東山図書館では強制疎開の様子を描いた絵画と東山区馬町の空襲被害の資料を見学した。

 私は、米国の日本歴史研究者であるウオーナー博士が文化財保護の立場から、京都市を空襲の対象から外してくれるよう進言したという古い知識しか持っていなかったが、戦後に米国極秘文書の公開で事実でないことが判明していた。これによると、京都市には20回に及ぶB-29機の飛来があり、東山区馬町と上京区西陣で爆弾が投下され、大きな被害があったという事実が数年前から新聞情報としてあったことをネット検索(京都空襲で数万件のサイト)で見付けた。
 さらに、京都が大規模空襲を免れたのは、原爆の投下候補地として温存されていたという記事もあった。馬町の空襲は昭和20(1945)年01月16日に警報なしに空襲があり、爆弾が投下されて、死者41名、300戸が被災し、西陣では同年6月26日(終戦の少し前)に空襲警報があり、爆弾7発が投下されて死者50名292戸が被災した。当時は機密事項として細部の報道もなく、手紙による連絡も禁止されたという。
 私は、数年来京都の歴史といえば琵琶湖疏水に集中していたので、地元に住んでいながら空襲の事実を知らなかったが、今年は東北大震災があったため新聞を読む範囲も広がり、疏水以外の京都の歴史に触れることが多くなった。私は空襲被害を軽減する目的で、道路の拡幅(建屋の強制疎開)のための住宅撤去や空襲による実被害など京都市が無傷でなかった事実を知り、改めて人災・天災の怖さを痛感した夏であった。
 私自身、三重県桑名市への勤労動員のとき、米機による機銃掃射の経験があり、故郷の伊勢市も焼夷弾攻撃の被害(我が家は無事)も経験した。金沢の旧制高校時代は、運動場に避難壕を掘り,敵機襲来に備えた。最近では世界各地で住民を巻き込んだ戦争が絶えない。その悲惨さを伝える戦争展を見て、いろいろと思い出させていただいた。