亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

黒壁山薬王寺(天台宗)

2010-05-19 | 散歩道

Photo

    黒壁山 薬王寺(天台宗)

九萬坊大権現

御本尊 八万坊大権現

    九万坊大権現

    照若坊大権現

由来記

 開創は、奈良時代養老2年(718)、越の泰澄大師に依しものである。

当時祥定にて御修行の折、祝福に現わ給うた権現が、九万坊・八万坊・照若坊の三聖であった。大師は直ちに祠をもうけ拝されたという。今、そのあたりを「御山」と称し、また、「九万坊王御出現之地」と呼ぶ由縁である。元々は「白山三所権現」に縁あるものとされ、安土桃山時代に入り、一向一揆が起こりこれをさかいに、医王・戸室の寺はことごとく廃され、黒壁だけが残った。その間理由は定かではないが、天文8年(1539)眼下に伏見川を見下ろす山腹の岩洞に祠が移された。これが今の「奥の院」である。

 一時、冨樫の祈願所であったとも言われているが、加賀藩前田利家公の頃からは代々国主並びに広く士民の祈願所として知られるに至った。これが、新たに三権現の天地四方を守護する六天狗「眼神通善神・耳神通善神・鼻神通善神・舌神通善神・身神通善神・意神通善神」の内、三人を満願寺山より、三人を金沢城より呼び寄せたという由来の元である。爾後(いご、特に武士道を学ものにあっては、その神前にて剣を磨のみならず、春秋2回の大祭で大試合を行ない黒壁の名を遠国にまで轟かせた。「三州奇談」(江戸中期堀坎木著)によれば、修験者が刻んだか「数百丈の絶壁に不動の尊像」が遠く拝まれたといい、「亀の尾記」(幕末・柴野美啓著)にも社祠に神酒の絶えたることなしと述べられている。明治の初年に始まった全国的廃仏毀釈は、特に権現信仰に対して苛酷この上なく、明治7年にあった白山復古事件(白山奥宮の廃仏)を省みるまでもなく、明治6年、一方的に淫祠としてその破却を宣せられている。漸く明治31年に至り、金沢・松本米二郎なる人、その社祠の復興を計り、同36年、天台の学僧青木良随氏を招き新たな開山となった。これが今日みる黒壁山薬王山である。あらゆる魔障を払い、すべての心願を叶えるとされる。なかにも火伏・商売繁盛の霊験でよく知られている。~当寺看板より

Photo_2

    黒壁山大竜不動明王

 お寺の正面に鎮座しているが、当寺の留守居をしている方によると、奥ノ院より更に奥にあったのを持ってきたとのこと。

Photo_3

       地蔵の由来

 昭和49年(1974年)9月22日早朝奥ノ院参道ノ崖くずれにより出現なされ1年後ある信者の子供が交通事故にあい着衣が見る影もないのにかすり傷もなく帰宅された その晩その母親の夢枕に 地蔵様が立たれ 私は黒壁へ行く道すがらの地蔵や お前の息子を救ったぞ私をにぎやかで多くの人より手を合わして もらえる所へ安置してほしいとのお告げにより昭和50年10月22日この地に安置するものなり 合掌

 奥ノ院はお寺の裏手から長い階段を下りて行くが、その降り口にこの地蔵さんがある。

昭和49年と言えばわりと新しい時代だ、こんな時代にこんな話が有るとは驚きだ。

 階段を下りて、伏見川のせせらぎを横に見て20分ぐらい歩くとお堂に登る階段に出る。

P1010779

お堂へ上る階段は勾配がきつく恐い階段だった。

鎖をつかんで怖々と登っていくとお堂に出る。

階段の数を数えたら71段あった。

下を覗くと、あまりの急斜面でしかも、天然の石で足元が悪く、はたして無事に下りて行けるのか不安だった。

P1010780

      奥ノ院

 この岩穴からさらに上へ登った所に祠があるそうだが、現在は道が無くなっていて登れないとか。

黒壁山薬王寺は金沢の竹の子名産地にあり、沿道では、臨時の竹の子販売所がずらりと並んでいる。

美味しい竹の子を食べさせてくれる料理屋さんの幾つかある。

竹の子だけでなくぜんまいわらびなど山菜も沢山食べさせてくれる。

5月いっぱいはやっていると思う。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする