木宮泰彦
およそ国旗は国家の標号であるから、その国の歴史を語り、その国の国体を表し、その国の国民精神の理想を示すものでなくてはならぬ。世界いずれの国と雖も、国旗の制のない国はないが、我が日章旗のように鮮明で純一、端正で雄大なものはない。
しかし我が日章旗が国旗として制定されるまでには幾多の曲折があったもので、それについても思い出されるのは、水戸烈公の功績である。
嘉永6年6月米艦4隻が浦賀に来て交通を求めた時、我が国の上下驚愕してなすところを知らず、幕府は水戸の烈公を起こして事に與らしめた。その年の9月幕府は烈公の議を用い、初めて大船建造の禁を解いたのであるから、各藩に於いても、大きな船が漸次建造され、中には蒸気船すら造るものもあった。従って我が国に於ても、外国船と紛れない為に、国旗を制定して船印とする必要が起った。当時これを国旗とはいわず、總船印と称していた。そこで幕府は有司に命を下し、意見を奉じせしめたところ、評定衆は旭日を以て總船印となすべしと論じ、大目付、目付等は中黒を用うべしと主張し、衆議粉々して何等決するところがなく終わった。
翌安政元年5月、再び国旗制定の論が起って大目付、目付等は總船印には中黒を用い、幕府の旗には日の丸を用うべしと主張した。当時烈公はこれに反対して、中黒は新田2の中黒など称して、古来源氏の旗印であるのに、これを我が日本国の標号たる總船印の用い、日の丸に似て幕府の旗印とするのは、大小軽重を顛倒したもので、その当を得ぬ。苟も国意を代表して威を万国に輝かす国旗には日の丸でなくてはならぬ。幕府は中黒を以て印とすべしと論じて、その旨を幕府に建議せられた。けれども大目付、目付等は前議を固執して動かない。そこで烈公は7月1日再び建議案を奉り、中黒を以て国旗とするの不可を論じ、日章旗の円まで添えて意見を述べられたので、幕府も遂に烈公の議を用い、衆議を拝して、7月11日次の如き発令があった。
大船製造につきては、異国船に「不紛様、日本總船印は白地日の丸幟相用候様、被仰出候。且つ又公儀御船の儀は、白紺布交の吹貫、帆中柱に 相建て、帆の儀は白地中黒に被仰出候條、諸家に於ても白地は不相用、遠方にても見分り候帆印、銘々勝手次第相用可申候。尤も帆印、其家の 船にても、かねて書出し置候様可被致候。右大船の儀、平常廻米外運送に相用候儀、勝手次第に候へども、出来の上は、乗組人数並びに海路乗筋運送方等、猶取調可被相伺候。右之通可被相触候」
かくの如く烈公の努力によって、我が旗印は光栄ある日章旗と定まったのである。
後数年を経て安政7年、外国奉行新見正興等が北米合衆国に使わし、条約の批准交換を行った。この時初めて堂々日章旗を翻して、彼の国に行ったのであるが、彼の国人はその。壮烈な意匠を見て驚嘆したということである。
国旗はかくの如くにして定まったが、その紋章の由って来たところは甚だ遼遠である畏くも皇祖の御名は、天照大神、または大日孁貴と申し奉り、大神一たび天岩戸に隠れさせ給へば、天地爲に晦冥になったというのは、天日とその徳を等しくし給へることを物語るのである。従て天皇の御位を天つ日嗣と申し、皇太子を日嗣の御子、日並皇子など申し奉っている。聖徳太子が小野妹子を隋に遣わし給うや、その国書にいわく、「日出づる所の天子、書を日没する所の天子に致す。」と。またいわく、「東天皇敬みて西皇帝に白す。」と。げにや我が国はアジヤの東方に位し、日出づるところの国である。旭日の輝々たる光は熱烈活動のさまを示し、その真紅の色は皓潔至誠の情を示している。我が日本の標号とするに日章を措いて他に何があろう。 ―面白い日本史―
昭和5年の中学校の教本を書写しているが、読んでいても気付かなかったことがいろいろ発見できて勉強になった。徳川家康が写経に熱心だったと聞いていたが。その理由が分かったような気がする。
日章旗も幕末のころ外国船と区別するために掲げられていたという簡単な知識しかなかったがかなり大変だったようだ。