今度の講義は教室を飛び出して兼六園です。
兼六園の始まりは加賀藩5代藩主前田綱紀。
金沢城は小立野台地の先端にある為、小立野台地に大火事が発生した時に火がお城に及ぶことを恐れた綱紀は当時ここにあった作業所を城内に移しその後に庭園を整備した。百間堀(蓮池)の隣だったため、ここを「蓮池の上」と言った。綱紀の没後、ここを「蓮池庭」と呼んだ。
その後、11代藩主前田治脩(はるなが)がここに夕顔亭・翠滝・内橋御亭が造営される。
その後、蓮池庭の隣に有った藩校を移転し、12代藩主前田斉広(なりなが)の隠居地として「竹沢御殿」の造営。
斉広の没後、竹沢御殿は取り壊されてその跡に斉広の正室(真龍院)の為「巽御殿(今の成巽閣)」が造営される。
14代藩主前田慶寧(よしやす)は明治4年2月18日「与楽園」と命名して一般に開放した。その年3月3日に兼六園と改名される。
園内には幾つかの井戸があり台所の水として使われていた。
兼六園は庭園になる前には田圃や畑があった。
七福神山
12代斉広は竹沢御殿からこの庭を眺めていたと言う。
向こうには卯辰山、硫黄山から日本海まで見渡せる。
雁行橋
雁が列を作って空を飛ぶ姿に似ていることから、また石が亀の甲羅の形に似ていることから亀甲橋とも言う。向こう側に大きなお屋敷「竹沢御殿」があった。
地蔵堂
竹沢御殿の寝所に当り、ここに12代藩主斉広が寝ていたと思われる。
中には2体のお地蔵さんが安置されている。
西本願寺寄贈の松
日本武尊像の右側には東本願寺の松、左側には唐崎の松に勝るとも劣らぬ枝振りのいい松がある。
根上の松の二代目
日本武尊像の前には立派な根上の松があるが、ここ旧津田玄蕃の屋敷の中庭には根上の松の2代目と唐崎の松の代2目があるという。
日本武尊像の台座
鷺
鷺はおとなしいくカメラにおさまってくれた。
大正天皇がまだ皇太子のときここにお招きするため、護衛の為の門として作られたと言う。兼六園の案内にはどこにもない隠れた名所である。
龍の目
辰巳用水は園内を曲水として流れているが、龍が体をくねらせている姿をイメージしていて、この丸い所は龍の目をイメージしているそうだ。
今は 園内の池や川を清掃中で用水には水がない。
噴水の水源
兼六園には現在残っている日本最古の噴水があり、ここ霞が池から取り入れている。
瓢池の海石塔と翠滝
最初に出来た 蓮池庭にある池、形がヒョウタンの形をしていることから瓢池といわれる。右側の大きな木は昔、見事な枝垂れ桜だったが今は木が折れてしまい無残な姿になっている。
奥に見えるのは翠滝で今は用水、清掃中で水量が減っている。
海石塔は金沢城に有った物をここに移したと言う。
霞ヶ池
兼六園と言えばことじ灯篭と唐崎の松。どちらが欠けても兼六園の魅力は半減してしまう。
広坂側の真弓坂から登って行くと最初に目に付くのがこの大きな石。昔泥棒が竹沢御殿からここまで引いてきたがあまりにも重くて持ち出せずここに放置していったとか。
これらは何処にも説明されておらず、知らない事を一杯学んできた。