主祭神 大山咋神・大巳貴神
合祀神 天照大神・春日四柱神・天満天神
滋賀県鎮座日吉大社を勧請元社とし、長徳3年(997)平安時代に創建し、「浅野三王社」と称す。
一向一揆のため社殿・文庫はことごとく灰となるが、その後再興春4月の祭礼は御輿が渡御し、秋9月には流鏑馬を催し、その盛況ぶりは遠近に聞えたりという。
藩政時代の馬場は即ちその遺跡にして、浅野川の辺りに門を構えこの川を御手洗として、当時は社地2万坪に及んだ神殿内、大絵馬は『ひらがな盛衰記』を描いたもので、徳田秋声著『穴』にて浅野神社拝殿にて見た、この大絵馬のことが書かれている。
浅野神社は浅野川の辺にあるのではなく一寸奥まった分かりにくい所にある。
浅野川から結構距離があるが、昔は浅野川辺りまで境内が広がっていたと言うのだか、昔の神社は大きかったのだ。
浅野稲荷社 別名 弥右衛門稲荷
「わしは小幡の白狐なり、わしを山王社(浅野神社)へ祀れ」神懸った者の進言により、浅野村の長老が山王社(浅野神社)神主に、この旨を願い出て、この白狐の祠を浅野神社の境内に遷す事となった。
宝永4年(1707)4月28日遷座祭の夜、加賀の国は光が射し神変を示したと伝えられている。
この白狐の稲荷社は浅草寺内にあった『熊谷稲荷』が元ではないかと思われる。しかし「熊谷稲荷は、先の大戦で焼失してしまい、今では当時を偲ぶことはできない。『熊谷稲荷』は『一願成就の稲荷』と言われていた。
この『浅野神社稲荷社』もまた、『一願成就』と言われている。
どこの神社もお稲荷さんがいるが、ここのお稲荷さんは結構作りがいい。
可愛いキツネさんがいたので罰当たりにもパチンと無断撮影。
子供を抱いているお猿さんに見えると言うのでいろいろ角度を変えて眺めて見たが、美術的感覚のない私にはお猿さんには見えなかった。
同じようなことを書いてある石がもう一つ、これも幾ら眺めてもお猿さんには見えず。信心が足りないのかなあ。
当家13代宮司が、室生犀星に師事し、犀星と親交を深めた。
犀星没後も敬慕の念強く、昭和57年浅野神社境内に全国で12基目となる犀星の句碑を建立。
弧の句碑は犀星とも交流のあった名造園師『植宗』の作で、『亀作り』という目出度い作りとなっている。
碑文は、大正15年11月付、犀星よりの手紙から写されている。
『竹むらや ややにくぐるる 軒ひさし』犀星
また、句碑の裏側には13代宮司の詩集に犀星が寄せた序文の原稿からの一文が刻まれている。
『厚見君の家を二度ばかり訪ねたが、二度とも夜で秋であった』 室生犀星
13代宮司が室生犀星と親交があったらしい。
徳田秋声も小説の中で浅野神社を登場させているというから泉鏡花も近くに生家があるからおそらく来ていただろう。