Action is my middle name ~かいなってぃーのMorrisseyブログ

かいなってぃーのMorrissey・The Smithsに関するよしなしごと。

なかなか辿りつかない、モリッシー“好き”の終着地-木ノ下裕一氏のコラムを読んで

2019-07-08 16:51:28 | 映画

東京での『イングランド・イズ・マイン モリッシー, はじまりの物語』の上映が終わりました。

わたしは今回、こちらの映画の字幕監修、映画パンフマニアとしてかねてからの夢のひとつだったパンフレット解説執筆をさせていただき、光栄であると同時にたいへん楽しかったです。


一緒に仕事をさせていただいた映画の宣伝担当の方は、初対面の最初から「パンフレットはNMEみたいな形にしたい」「プロモーションはこうしたい」「監督を呼ぶ」という熱い明確な思いを語ってくれました。「本当にそれ全部できたらすごくないですか?」…と、当初はちょっと「本当にできるの?」感もあったことまですべてやってのけてらして、その熱意と有言実行力に上映前からずーっと感激しっぱなしでした。

また急遽マーク・ギル監督にインタビューもできて、それを記事化するにあたっては信頼している某編集長と一字一句、監督のスミスやモリッシーを「好きという思い」をもらさずに伝えようと、もの凄い勢いでの共同作業もできて大変勉強になりました。

上映前から、3カ月くらいの間にいろいろなことがあったのですが、やはり「映画」ってすごいなと思ったのは、すそ野や解釈の広がり方。まったくモリッシーもスミスもイギリス音楽にも興味ない知人や近所の方々、70代の母の友人たちまでも「映画なら観に行こう」と劇場に足を運んでくれたことは驚きでした。それでもちろん「モリッシーいいね!音楽聴きたい♪」なんて単一的な結論にはならないのがおもしろかった。ある人は「あんなお母さんになれないよね」と悩み、またある人は「最後に出てきた男の子となんかやるんでしょ?(←かなり「なんか」やる・・・)はやくやればいいじゃんね」といら立ち、またある人は「何も起きないから、集中力使い過ぎなくていいね。アンビエント」と言い…w

そしてここからが今回ご紹介したい話。知人のSさんは、モリッシー…というより、そんなにわたしが「好き」になるってなんで!???、と興味を持ってくれました。これが音楽だと好みやジャンルの壁もあるし、もしくは聴き流せてもしまえるけれど、「映画」だとある一定の時間暗闇で対峙しなくてはならないので、逃げられずw なんでこんなに「こういうもの」を好きなのか?という部分を心に留めてくれた模様。そこで彼女は、自分はそこまで「好き」があるかと考えたそう。そして探究熱心な彼女は、「好きになるとは、何か」を掘り下げたいと思ったのでしょうか、まったく興味もないはずのわたしの本まで読んでくれました!

おととい、その感想のお手紙をもらいました。その中の「モリッシーみたいな人を好きでいられるあなたは素敵です」という一文は、深いな、と思いました。「モリッシーみたいな」ヤバいw人をわざわざ好きでいなくても、もっと別な道はあったのかもね…でも「好き」に落ちるって不可避だし。。と思っていたら、「本を読んでてこれ、あなた的な感覚なのかなと思って切り抜きました」という新聞切り抜きが同封されていました。

日経新聞に掲載された、木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一氏による「“好き”の終着地」というコラム。彼はよく「好きなことを仕事にできていいですね」と言われるが、実は好きなものを“正しく”好きでいつづけることはとても難しいと書いていました。


「好きなものがものが好きな、自分が好き」という不純な自己愛にすり替わった瞬間、純心であったはずの“好きのカタチ”はたちまち醜く歪んでしまう。坂口安吾の小説『夜長姫と耳男』の、

 

 「好きなものはのろうか殺すか争うかしなければならないのよ。……」

 

というセリフを引き合いに、好きなものとの戦いは自分との格闘だが、その時に支えとなってくれるのが、好きなものの向こう側にある“感情”だとも書いていました。なぜ好きになったのか、折に触れて気持ちをアップデートすることで、見慣れたはずの“好きなもの”がまったく新しい様相を見せてくる。そしてそれが不思議なことに、“新しい自分の姿”でもあると。

よく「好きになるのに理由なんてない」と言われますが、確かに、エモーションとしては理由がないかもしれない。でもそこにコンテクストを加える、加える続けて育てることでいろんな理由やら納得の枝葉ができる。エモーションが幹なら、その枝葉がロジックなのかも?

わたしはこの枝葉を毎日なめるように愛で←変態  「ああ、わたしはこんなに好きだ。今のわたしはこんなだからやっぱ好きだ、更に好きだ」と思うんです。自分のアップデートにあわせて枝葉の繁りを再び確認する。そしてエモーション幹はどんどん太くなる。もうこのまま止むこともないのでしょう。“好き”の終着地には辿りつけず、むしろ執着地w

この新聞コラムを読んで、さらにモリッシーを始めとする「好きなもの」を好きでいることの茨の道を歩む決意を新たにしました。

そうやって自分の「好き」と歩む人生はめちゃくちゃ幸福なんだけど、結果今の「自分」を突き付けられることも多くちょっと面倒でつらいこともあるから、こんな風に誰かに興味持ってもらえてとってもうれしいし面白いですと、またSさんとお話ししたいです。

★ネット版にも出ていました

日経新聞 6月29日 夕刊

“好き”の終着地  木ノ下裕一

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46635080X20C19A6FBB000/


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