今年も来ました、モリッシーのお誕生日!!
59歳のお誕生日、おめでとうございます!
7月にはマンチェスター公演開催もアナウンスされたばかり。
いまだ現役で、声も大きく(歌声だけでなくw)、歌手として、ひとりの強い人間として
元気にいてくれることを、心より喜び、お祝いいたします!!
さて、今月モリッシーのお誕生月の5月、私は一本の映画を観ました。
昔から、音楽にしろ、文学にしろ、映画にしろ、モリッシーの影響ばかり受けているの
ですが、今回もそう。
ラウル・ベック監督、アメリカ黒人文学を代表する作家、ジェームズ・ボールドウィン
の未完成原稿“Remember This House”を基にしたドキュメンタリー映画
です。
ボールドウィンによる、公民権運動指導者のメドガー・エバース、マルコム・X、
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの回想を通してアメリカの人種差別の
歴史、そしてアメリカ史についての個人的な考察が描かれています。
今まで、マルコムXやキング牧師、ブラック・パンサー党、ロス暴動、
ケンドリック・ラマーの歌、映画『ゲット・アウト』の皮肉、近ごろバズっている
チャイルディッシュ・ガンビーノの“This is America” の真意…などなどのことは、
一個ずつ断片的に興味を持って見ていましたが、すべてが一本の太い串で
串刺しにされたような映画でした。終わった後に、ボールドウィン、これを作った
監督やスタッフにスタンディング・オベーションしたくなりました。
ボールドウィンと言えば、モリッシーが敬愛する作家であり、公民権運動家。
今年のツアーのバックドロップにも彼の写真は使われていました。
2012年のツアーのプレ・ショービデオでも彼の映像が流れました。
James Baldwin- Nonviolence vs. Violence
本当にめちゃくちゃ好きなんですよね!
モリッシーは1986年スミス時代、バルセロナのホテルで、生ジェームズ・
ボールドウィンに会ったそう。2017年のインタビューでは当時を振り返って、
「私の舌は、恐怖で口の上っ側に張り付いた。こんにちは、という勇気がまるでなかった。
私は当時、とても、とても鈍かったんだ。だからただ彼を見た。そして時が過ぎるのを待った。
私にとって、彼はアメリカ大統領より重要な人物だったんだ」
と、語っています。そこまでモリッシーが言う人物って…という興味が
ずっとありました。でも、この映画を観るまで、本当の凄さなんてわかって
いなかった!
(ボールドウィンとの出会い、自伝でも「1986年バルセロナ」って言ってるけど、
1986年、スミスは“The Queen Is Dead”ツアーで超忙しく、またスペインでは
ツアーしていないので1985年の5月のバルセロナライブの辺りのことなんじゃ
ないかと思うんですが、記憶力が鬼のように良いモリッシーがそう言うならそう
なんでしょうね、一応自伝でも“The Queen Is Dead”リリース後に出て来る
エピソードなので…てか細かいことはいいかw)
以下は自伝での、モリッシーのジェームズ・ボールドウィン評です。
この力の入った文を読んで『私はあなたの二グロではない』を観ると、より
ボールドウィンの凄さがわかるので、お誕生日スペシャルということでちょっと
長いけど日本語翻訳掲載します。
「1986年、アメリカ人の作家で社会改革者のジェームズ・ボールドウィンが
ひとりで座っているのを、仰々しいバルセロナ・ホテルのロビーで見た時には、
委縮してしまった。彼は渋く真剣で、その顔がどんなか表現するのにはどんなに
時間があっても足りないような顔をして自分自身の考えに没頭していた。
私は彼に見とれたが、それ以上何もできなかった。あまりにジェームズ・ボールド
ウィンの威光に釘づけになった私は、我が生命を賭け、危険を冒して彼に近づいて
みた。もし少しでも感づかれたら、首を吊って死んだろう。彼は、世に出し得る限り
の率直な、心を動かす言葉で、アメリカ人の本質に対してありのままの見解を示した。
そのため、歴史の本では、ジェームズ・ボールドウィンは無視されてきた。
彼の公の場でのスピーチは、人々を酔わせ、彼の動機に裏付けられた言葉のライン
ナップは、聞いていると微笑んでしまうような、才気のひらめきに溢れていた。
―微笑んでしまうのは、ユーモアからだけでなく、言葉に真実をこめることに
長けていたからだ。それは、一番骨が折れることなのに。男性の肉体を好むという
彼の趣味は、世間が、社会的に危険人物として彼を無視してもいいという完璧な
言い訳となっていた。そして彼は、彼の身の黒さを、すべての言い訳に利用して
いる者として消し去られてしまったのだ。実際、彼の純粋さが人々を怯えさせ、
男が他の男を殺すことでもらったメダルを身にまとい、お互いに愛し合うと刑務所に
入れられるアメリカで、彼の正直さは理性のない恐怖を奮起させるのだ。
悲しいことに、このバルセロナの日は、私はジェームズ・ボールドウィンに近づく
勇気がなかった。なぜなら私は馬鹿な質問を突き刺してしまって、彼の大きな感情を
込めた眼が残念なしろうとさんである誰かに顔をしかめそうなことをよくわかっていたのだ。
その後すぐに、彼は死んでしまった」
1987年12月、ボールドウィンは死んでしまいます。
モリッシーは自分の「遠慮」を嘆いたかもしれない。
当時はまだ、シャイで自意識も過剰気味な27歳。。。
そんな体験も経て30年以上後、堂々として何物にもひるまない、
59歳になって良かった!
もちろん、いまだファンで畏敬の念も抱いているから、ツアーで
映像を流したりバックドロップにその姿を使うのでしょう。
しかし、昨年2017年3月、大変な問題に見舞われました。
自身のオフィシャルツアーTにボールドウィンの写真を使用したところ、
「人種差別!」「不快!」
と大騒ぎに。メディアからもこぞって叩かれまくり。
黒人である彼の写真にザ・スミスが1986年に発表した“Unloveable”の
歌詞を付していたことが問題視され数々の批判を呼び、とうとうTシャツ
は発売中止になりました。
その歌詞は、
I wear black on the outside
’Cause black is how I feel on the inside
(私は外見では黒をまとう。黒は、私が内面で感じている色だから)
ボールドウィンのビジュアルとこの歌詞のぱっと見で、
「モリッシーひどい!嫌いになった!」
「黒人差別!」
「ほらね!やっぱレイシスト!」
…と、思う人が確かに(たくさん)いるわけで、そういう意味では
このTシャツの発売は賢明ではなかったのかもしれない…。
でも、本日、モリッシーの誕生日に、『私はあなたの二グロでは
ない』を観てこのことを改めて考えてしまった私より、
勝手に「弁明の贈り物」をしたい…
(って押し売り、本人べつに喜びもしないと思いますがw)
モリッシーがわざわざこのTシャツを発売したのは
「黒人の黒さを揶揄ってやろう、へへへ」
「わざわざ失礼で物議を醸すことをしてやろう、いひひ」
など思ってのことではないのは当然です。
なのになんで、誤解も批判もされるのに、
わざわざこんなもんを出すのか…?
2016年から2017年、モリッシーはトランプやアメリカの政治に関係する
本を読みまくっていたといいます。もしかしたら、『私はあなたの二グロでは
ない』は、アメリカではアカデミー賞の選考資格を得るために2016年12月
に上映され、その後2017年2月再度公開されているので、その情報を得たり、
観たりしたかもしれない。そこで、改めて、ボールドウィンのメッセージを
自分の過去の詩をミックスアップして伝えたかったのかもしれない…。
自伝でも、モリッシーはボールドウィンが「黒人であること」を言い訳に
薙刀をふるって権利ばかり主張している人のようにうがった見方をされて
きたことを憂いていました。
そこで使っていた「黒人であること」という表現は“blackness”。
ここで言う、“blackness”は、「世間から見える外見から定義された
もの」。本当のボールドウィンの“blackness”=「ボールドウィンの
持つ内面」とは異なるものです。
黒!黒人!差別!かわいそう!テーマとしてアンタッチャブル!という、
黒人ではないもの、もしくは黒人自身が外見から思う“blackness”は、
『私はあなたの二グロではない』のタイトルを借りて言えば
“your negro”であり、ボールドウィンが矜持とともに提示している
“blackness”は“my negro”ということになるのではないでしょうか。
「黒人」「黒」…という表現の並びで、これは不快!差別!と思うのは
もうそういう文化にどっぷり脳な私たちの言い分、社会や文化、歴史に
裏付けされた“blackness”でしか見られないのは、一種の視野狭窄に近い
のではないか…と、この映画を観て考えました。
『私はあなたの二グロではない』の冒頭、テレビ番組でいかにも
リベラルなインテリ風の司会者ディック・キャヴェットに
「『なぜ黒人は悲観する?』『黒人の市長も生まれたし』『スポーツ界や政界
にも進出している』『黒人を使ったCMもあるじゃないか』と言う人がいます。
これだけ世界が変わっても希望はありませんか?」
と問われたボールドウィンは最初笑っていたものの、表情を正してこう答えます。
「希望はないと思っている。問題をすりかえている限りね。これは黒人の
状況の問題ではない。それも大事だが一番大事なのは、この国そのものだ」
私は、冒頭のこのやりとりを見て、モリッシーがなぜわざわざ、誤解や批判を
承知で(もしかしたらヤバいと言われ取り下げるのも承知の上、確信の上で
ぶっこんだのかもw)
I wear black on the outside
’Cause black is how I feel on the inside
というフレーズを、ボールドウィンと共に使ったのかわかった気がしました。
ボールドウィンは自分自身が主体として、生きている。それを外見から黒だ
とか二グロだとか言うのはまわりの問題、差別でも擁護でも、取沙汰してくる
側の問題。このTシャツを不謹慎だ、不快だと思いモリッシーを批判する
人が間違えているわけではない。けれども、なぜ自分がそう思うのか、
その前提や社会について考えてみろという挑戦にも思えるのです。
このTシャツでボールドウィンに、自分の人間としての内なる“black”に
自信と矜持を持って、外も“black”をまとっている、と言わせている
(ように見せている)のではないでしょうか?モリッシーが檀上に挙げたいのは
もう人種とか色とか性別とかそういう「区別」の問題ではないのです。
でもそこを突っつかれるのは、世間常識からしたら仕方ないですね。
59歳になっても負けずにガンガンやってください、その度、(こちらは
勝手に)刺激を得ます。黙らないで!(頼まなくても黙らないだろうけど)
この映画を観るとわかるのですが、『私はあなたの二グロではない』の
「あなた」は私たちひとりひとりです。
「あなた」という私たちも、社会や文化によって囚わて持った認識によって、
「内面で感じる黒」=アイデンティティ を、ちゃんと外でもまとえるのか、
そんな問題提起にまで思えてきて、私は改めてこのTシャツ、買いたかったな~と
思ったのであります。
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