Action is my middle name ~かいなってぃーのMorrisseyブログ

かいなってぃーのMorrissey・The Smithsに関するよしなしごと。

「モリッシーは私たちに必要なロックンロールの反逆者だ」を読んで考えたこと

2022-10-28 14:40:28 | Morrissey Songs

前回のブログ、「モリッシーは私たちに必要なロックンロールの反逆者だ」by Brendan O’Neill / THE SPECTATORの続きです。

書く時は書くね。時間があっても、気力があっても書かない時は書かない。物理的な面倒だけでなく、突き動かしてくるものがないと書けない。

今日私を突き動かしているのは、ひと言で言って「モリッシーかっこいい」なのです。

何をいまさら!!でも、最近の自分はまったくかっこよくなさすぎてことさら刺さる…。生活の中で小さなカタルシスはある。血縁や親しい友人に満たされることも、「うれしい」「幸せ」と思う瞬間もある。でも、常に思っているのは「んなこと言っても、自分はなんてかっこよくないんだろう」ということ。

日常に追われ、諸々を流し、本気で「だってこうだろう!!」と思うことがとても少ない。そして、もしその主張があったとしても、「こっちより」の人に言えば「ほんとそうだよね!」と言ってくれる。50年以上生きてくる中でそういう心地の良いベースは作ってきた。で、「こっちよりじゃない」人たち(って誰かもよくわかんないけど)の所に行って、その人たちがそんなこと考えてもいないのに「だってこうだろう!!」と主張するなんて、とりあえず面倒だし、心地よくなさすぎだし、そもそも意味不明すぎる。

「このまま快適なものばかりに囲まれて、摩擦を受けないまま朽ちていくのかな」とか、お気に入りのカフェの快適な椅子に座ってつぶやいたりしている。お前は令和のスイートカクテルか!?←言いたいだけでわたせせいぞうさんは悪くありません 体力もあまりないし、とにかく面倒臭がりで貧血でくらくらしてくるのですぐ「閉店ガラガラ」としてしまう…ことが多い昨今。年齢的なせいもあるのか元々なのか、感情表現は豊かなので喜怒哀楽は激しい。いろんな意識も強い。でもすぐ寝てしまうので、いろいろ思ったことを何にも形にできないで、その結果上から「ジャッジメンタル子」(親友のヨネに聞いたジャンル)みたいなことが多い。

それがだよ?

モリッシー!?

61歳だよ?

更に恰幅もよくなり凄い声量で、しかもまだ怒っている。みんながよく覚えてないことにまで圧倒的な記憶力で「思い出し憤り」している。それを粛々と形にしている。たぶんたくさん寝てるけど、ちゃんと生産もしていて真のクリエイティブ。東京の中年女、どうした?? 言い訳しながら、何をしているんだ、という感じです。

どうでもいい自分語りが長くなり、令和のJUNONか!??(しかも求められてない)、、と心配になってきたので、Brendan O’Neillが記事で言及していたロンドン・パラディウムで演奏した”Bonfire of Teenagers”前の「問い」シーンと歌、続いて歌詞の訳を貼ります。

Morrissey-BONFIRE OF TEENAGERS-Live-The Palladium-London-Oct 9, 2022

Bonfire of Teenagers

ティーンエイジャたちのかがり火
5月の北西の空に高く舞い上がる
ああ、君はアリーナに向かう彼女を見送るべきだったよ
途中で振り返って手を振って微笑んでたんだ、「さよなら」って
さよなら

そしてバカどもは歌う、"Don't Look Back in Anger(怒りで振り返らないで)"
そしてバカどもはスイングしながら言う、"Don't Look Back in Anger" 
私は死ぬその日まで怒りを込めて振り返る、そう請け負うよ

ティーンエイジャたちのかがり火
5月の北西の空に高く舞い上がる
ああ、君はアリーナに向かう彼女を見送るべきだったよ
ただ消されに行っちゃった
消されに

そしてバカどもは歌う、"Don't Look Back in Anger"
そしてバカどもはスイングしながら言う、"Don't Look Back in Anger" 
私は死ぬその日まで怒りを込めて振り返る、そう請け負うよ

殺人犯に手加減してやれよ
殺人者に寛容に
殺人犯に手加減してやれよ
殺人者に優しく…

 

Brendan O’Neillが記事の中で

「2,000人の観客が、この歌詞と、マンチェスター・アリーナでの残虐行為を集団意識に留めておけない現代のイギリスを叱責するモリッシーの言葉に合わせて体を揺らすのを見て、奇妙で不安な気持ちになった。しかし、高揚感も覚えた。ついに、マンチェスターの犠牲者たちに敬意が払われるた。ついに、死者たちに代わって怒りが表わされたのだ」

と言っていましたが、モリッシーの言いようもない良い声で、まさに鎮魂されていると思いました。これは何かに似ている。お盆の時に比叡山延暦寺の法要で聴いたお経かもしれない。スミスの“Suffer Little Children”にも似ていると思った。モリッシーは「私は言論の自由の厳格な信奉者だ。しかし私の場合、言論の自由とは、私に同意する人たちだけでなく、すべての人のためのものだ」と言論の自由について言及していましたが、死者たちまで含めて彼らの思いや言葉をレぺゼンしているのだと思います。ただ「かわいそうだね、安らかに、RIP…」でなく、「おおムカつく、忘れまじ、死ぬその日まで憤怒の火に薪をくべ、その守り人になる!!」という感じです。死者の中には「もういいよ、モリッシー…」という人もいるかもしれないけど、モリッシーはべつに個人に対する同情のみで怒って、歌っているのではないと思います。

Bonfire of Teenagersという、そんなにたらたら長くもない1曲がすごいのは、Brendan O’Neillも言っていますが、

 

・マンチェスター・アリーナでの虐殺に対する怒りを音楽に乗せることで、風化しつつある恐ろしい記憶を呼び起こした

・イスラム教徒の暴力問題を取り囲む、冷ややかで検閲的な風潮にも狙いを定めている

・テロや社会的問題について率直に、公けに語ろうとしない我々の背後にある、奇妙な道徳的な臆病心をとらえている

Brendan O’Neillが指摘するように、マスコミは「ほらまたイスラム過激派のことわざわざテーマにして差別!」「右翼すぎる通常運転!!」と騒ぐでしょう。でも、彼がテーマにしているのって一事が万事表層的なのではなく、「相手が誰であろうと、やばいことした人たちが面倒くさい『過激』な人だからって腫れ物に触るように敬遠して、みんなでだんまり決め込んで、言及する人は『なんてKY!!』『やっぱレイシスト!人でなし!』と迫害するのって良くなくなくない!?」ということではないかと。世の中「木を見て森を見ないどころか葉っぱと茎を見てる」人が多いですよね。モリッシーは「木を見て森を見て、また1本1本の木に戻って歌う」から「葉っぱガ―!」「茎ガ―!」と標的にされやすいんだと思います。

そうそう、この事件(アリアナ・グランデのコンサートが行われていたマンチェスター・アリーナのロビーで爆発が起きて、22名死亡、59名負傷。爆発時は多くの観客が会場を出るところで、多くの子供も含まれていた。爆弾犯も現場で自家製爆弾によって死亡。容疑者はマンチェスター出身リビア系のサルマン・ラマダン・アベディ)が起きたのは2017年の5月22日で、なんとモリッシーの58歳の誕生日当日だったんですよね。モリッシーは翌23日にフェイスブックで声明を発表しました。あまりにショックで…というより、とてつもない怒りからでです。

「マンチェスターで自分の誕生日を祝っていると、マンチェスター・アリーナでの爆発事件のニュースが入ってきた。とてつもない怒りに襲われている。この悲劇の連鎖は、一体どうすれば止められるのだろう?

テリーザ・メイ(英首相)はこのような攻撃では『我々は傷を負わない』と言うが、彼女自身の生活を銃弾から守っているのは泡のように脆いもの。そしてどうやら、彼女にとってはマンチェスターで犠牲となった若い命の身元を確認する必要もないようだ。そもそも、『我々は傷を負わない』の『我々』というのは、彼女自身、そして彼女の政治、もしくは彼女の移民政策を指しているのみだ。マンチェスターの若者たちはすでに傷を負ったのだから。テレサ、どうもありがとう。

そしてサディク・カーン(ロンドン市長)は『ロンドンはマンチェスターと共にある』と言っていたが、彼はISに対して何も行動を起こさない。今回の爆発事件はISによるものだと言われているのにも関わらずだ。

それに、事件に対しての『力強い発言』がバカバカしい賞賛を受けている女王も、バッキンガム宮殿で行われるティー・パーティを中止しようともしない。イギリスの報道の自由においては批判的な態度が認められないからだろうか。

そしてマンチェスター市長アンディ・バーンハムは、この事件は『過激派』によるものだと発言していたが、そもそも『過激派』とは『過激』な何なんだ?過激なウサギか?

現代のイギリスにおいては、プライベートで話していることを公の場に持ち込むことに対してやけに臆病になっている。政治家たちは『恐れることはない』などと言うが、それは自分たちが被害者になったことがないからだ。戦火から防御されたところでそれを『恐れない』などというのは、全くもって簡単なこと。しかし一般人には、そんな防御などないのだ。                                           

モリッシー 2017年5月23日」2017年5月24日rockinon.comより)


ここでもモリッシーは、政治家や権威のある(とされている)人々が、安全な場所から的外れな発言をしていることに怒り、一般人が言論の自由を去勢されている、もしくは自主規制していることに怒っていました。爆撃犯がムカつく、罪びとだっていうのは当たり前で、怒りの深掘りがすごい。ぶれない。かっこいい。昔も今も、そしてこれからもだろうと確信して胸アツなのでした。

ブログを書いてる自分に戻すと、こういうかっこいい人を好きなことをエキスに、書ける時には書いて、日々地道に生きるしかないと思ったのでした(すごい普通)。だって急にかっこよくなれるわけないし、そもそもあんなかっこよくなれるわけないし、でもかっこいいものにかっこいい!!と突き動かされる系一般市民で十分幸せなので、健やかにそれで行く。

はやく(ジャケも決まっているし収録曲も決まっているのに出ない)アルバムで、思う存分(他の曲も)聴きたいですよね。それまで、がんばろう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「モリッシーは私たちに必要なロックンロールの反逆者だ」by Brendan O’Neill / THE SPECTATOR

2022-10-28 12:31:35 | Morrissey News

9月24日のアイルランド・キラーニー公演を皮切りに10月14日のブライトン公演まで、モリッシーはアイルランド&UKツアーを行い、元気な姿を披露していました。

ちょうどこのお彼岸くらいから10月半ば、激務で魂が死にかけていました。それでもSNSや各報道でモリッシーの姿と情報にすがるように追う中、「こ、これは!」という記事がありました。Morrissey Centralでも紹介されていたので、モリッシーもご満悦な内容なのではないかと思います。

読みながら、感動で泣いちゃった。冷静と情熱の深いところにある思いと、それを支える鋼のような筆力!!すぐにライブ映像で“Bonfire of Teenagers”歌うモリッシーを確認してみたらまた、泣いちゃ…いそうになったけど、かなり考えちゃって泣かず、「ブログに書かなきゃ」と思ったのでした。アギオに「ブログ書かないかいなってぃーなんて存在価値ない」(←とは言っていない)くらいのプレッシャーを受けたからではなく。書く時は突然来るのです。だからこのgoo blogも「60日間ログインないから、ブログトップに広告表示しますからね」とかうるさいこと言わないでほしい。

で、この文章読んだ後、かなり「考えさせられた」って書いてると、「おいおい、『考えさせられた』って便利なキラキラ感想ワードだよね!考えるだけかよ!」と自分の中のもうひとりの自分に突っ込まれるんだけど、「いや、マジで考えさせられるんだもん、そんな考えさせられることって日常によくある!?貴重なモーメントだよ!!」と反論しながらまだ考えているので(うるさい)、とりあえずまずは内容を紹介しますね。

THE SPECTATORのチーフ政治ライターBrendan O’Neill の記事です。そんな長くないので、全文翻訳。でも長くなったので、考えさせられたことは次回に続く。

「モリッシーは私たちに必要なロックンロールの反逆者だ」by Brendan O’Neill

 

昨夜、ロンドンのパラディアムのモリッシーのライブで、かなりビビビッと衝撃の走る瞬間があった。モズは新曲“Bonfire of Teenagers”を紹介していた。22人が死亡したマンチェスター・アリーナの爆弾テロ事件を題材にした曲だ。彼は観客を見渡しながら、私たちに問うた。

マイラ・ヒンドリー(60年代にマンチェスターで起きた「ムーア殺人事件」の犯人)という名前は知っていても、マンチェスター・アリーナを爆破した男の名前を知らない人が多いのはどうしてか?

観客は唖然とした表情を浮かべた。少し恥じているように見える人もいたと思う。モリッシーのコンサートで静寂が訪れるのは極めて稀なことだが、その時はそうだった。

それは、答えを求める質問だ。少し感情的になりながら、モリッシーは2017年のアリーナ爆破事件を、故郷であるマンチェスターで起きた最悪の出来事のひとつと表現した。5人を殺害した毒毒カップル、ヒンドリーとイアン・ブレイディ(同じく「ムーア殺人事件」の犯人)が行ったものよりも、さらに悲惨なマンチェスターの若者たちに対する虐殺だった。サルマン・アベディという名前は、今では多くの人の記憶から不思議と消えてしまっている。しかし彼は、ムーアの殺人の4倍の人数を殺したのである。最年少は8歳の少女、サフィー・ルーソス。ヒンドリーとブレイディの最年少犠牲者、レズリー・アン・ダウニーよりも幼い。ダウニーの名前も、もちろんルーソスよりよく知られている。

爆破事件から5年、モリッシーは今もなお、そのことに怒り続けている。そして、犯人や被害者の名前がほとんど出てこないほどの、この事件を取り巻く記憶喪失の文化について。彼の新曲は"Bonfire of Teenagers(ティーンエイジャーたちのかがり火)"という荒々しく不穏なタイトルだ。シングルとしてリリースされれば、タブロイド紙やガーディアン紙でまで、多くの「モリッシー叩き」を誘発しそうな曲だ。しかし、この曲は信じられないほど心に響く、感動的な曲だ。モリッシーは、マンチェスター・アリーナでの野蛮な行為に対する社会の、気持ち悪いほど受動的な反応についてこう歌っている。

そしてバカどもは歌う、"Don't Look Back in Anger"
そしてバカどもはスイングしながら言う、"Don't Look Back in Anger" 
私は死ぬその日まで怒りを込めて振り返る、そう請け負うよ

この曲は、何度も繰り返される“Go easy on the killer(「殺人犯に手加減してやれよ」)という歌詞で終わるが、イスラム教徒のテロについて率直に、公けに語ろうとしない我々の背後にある、奇妙な道徳的な臆病心を見事にとらえている。

2,000人の観客が、この歌詞と、マンチェスター・アリーナでの残虐行為を集団意識に留めておけない現代のイギリスを叱責するモリッシーの言葉に合わせて体を揺らすのを見て、奇妙で不安な気持ちになった。しかし、高揚感も覚えた。ついに、マンチェスターの犠牲者たちに敬意が払われた。ついに、死者たちに代わって怒りが表わされたのだ。

私は“Bonfire of Teenagers”が素晴らしいプロテスト・ソングであることに気づかされた。まさに今、私たちが必要としているプロテスト・ソングだ。モズがイスラム教徒に扇動された大量殺人行為についてあえて歌ったという事実は、アンチたちから、彼が今や「ガチ右翼」であることのさらなる証明として掲げてくることは間違いないだろう。どうやら、イスラム過激派を懸念するというのは、右翼的であり、さらにイスラム恐怖症の可能性があるようだ。かつて世俗主義的な左翼たちは、宗教的ヒステリーによる殺人行為を非難する最前線にいたはずだ。ところが今やそんな左翼たちが、イスラム過激派について語りすぎる人たちに対してイライラするすることが多くなった。「前へ進もうぜ、怒りで振り返らずに」

アリーナでの虐殺に対する怒りを音楽に乗せることで、モリッシーはあの恐ろしい日の記憶のために立ち上がった。しかしそれだけでなく、イスラム教徒の暴力問題を取り囲む、あまりにも頻発する、冷ややかで検閲的な風潮にも狙いを定めているのだ。

でも、これからやるモリッシーのショーのチケットを持っていても、心配無用だ。これはギグであって、モリッシー講演会ではないから!マンチェスター・アリーナのことばかり言ってるわけではないから。モリッシーは、確かに、かつてないほどいい声を聞かせていた。スミスやソロの名曲を演奏し、観客は熱狂した。この数年、教養気取りペラペラお喋り層が、モリッシーがブレグジット支持で、右翼で、移民に関する発言などをするからと、彼を排斥しようとしてきたことが、新たな自己認識と活力を与えたように感じられる。モリッシーに関しては、キャンセル・カルチャーは裏目に出た。ターゲットを手なずけることはできず、道徳的なアドレナリンを与えてしまい、ザ・スミスの時代以来最高のパフォーマンスをさせることになったのだ。

モリッシーは、現代に必要なロックンロールの反逆者だ。多くのポップやロックのスターが一律の、魂を揺さぶるような政治的台本から歌う中、モズはその流れに逆らっている。彼はブレグジットを「お見事」と表現し、“Fuck the Guardian”と書かれたTシャツを着用し、広く「ウォークネス」(社会的不公正、人種差別、性差別などに対してする高い意識を持っていること)と呼ばれるもの、特に言論の自由や代替的な考え方に対して不寛容なものを嫌悪している。

「私は言論の自由の厳格な信奉者だ。しかし私の場合、言論の自由とは、私に同意する人たちだけでなく、すべての人のためのものだ」

と、モリッシーは述べている。

すごい人だ。これこそ、我々がポップスの世界に取り戻すべき文化的自由の精神だ。どんより目をした糾弾野郎たちがモリッシーを追い回すのは勝手だが、我々を彼から背かせることはできやしない。

国宝は、見ればわかるのだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする