Action is my middle name ~かいなってぃーのMorrisseyブログ

かいなってぃーのMorrissey・The Smithsに関するよしなしごと。

ザ・スミスがかかりまくる映画、『ザ・キラー』(“The Killer”)を観て

2023-11-13 16:04:19 | 映画

9月に知って以来、楽しみにしていたデヴィッド・フィンチャーの新作『ザ・キラー』(“The Killer”)観ました!

11月11日からNetflixでの配信も始まったので、「玄関開けたら2分でごはん」のごとく、「玄関開けてネトフリつけたら3分(とちょっと)でスミス」です。

『ザ・キラー』ティーザー予告編 - Netflix

!!!何がどんなとこでかかるか含めネタバレしかない今回のブログですので、まだ観てない方はご注意ください!!!

かかるスミス曲はなんと11曲。まず、なんの曲がかかるのかと、そのシーンです。緑色は私の感想です。

●ザ・スミス曲とシーン

1 "Well I Wonder" 

主人公の殺し屋、標的が来るであろう正面の建物から偵察下見中。猫のえさやりや親子連れなど、パリの人々の日常を観察しながら人の生き死にの話をしている。

いくらスミスがかかるっていっても、こんな“Meat Is Murder”収録のマイナー曲はが1曲目とはびっくりしました。

「俺は俺」

「人は生まれ、人生を歩み、いずれ死ぬ。それまでは“汝の意志することを行え”だ」

なんて、なんかかっこつけた長いモノローグの直後、「さてひょっとしたら、君は眠っている時に僕がしゃがれ声で泣くのが聞こえるのだろうか?」というモリッシーの声が流れます。こっちが本音なんじゃないんですか…ね? と、思いつつ進む。

2 "I Know It's Over" 

主人公のルーティーンらしきヨガをしながら、まだまだ長いモノローグ中のシーン、イヤフォンごしにかすかに流れる。

これまた地味曲、とは言え私の大好き曲。ほぼ聞こえませんが、これを入れてくるってこの主人公、どんだけかわいそうな人ってことにしたいのかなと思いました。お前の頭にもそんな汚物が降ってくんの?「笑うなんて簡単。憎むのも簡単。優しくて思いやりあるようになるのは、ちょっとした努力が必要」なんて聴きながらヨガって、どうしてあんたは殺し屋なの?と早速悲しくなりました。

3 "How Soon Is Now?" 

標的を待ち続けた後、この曲で心拍数を下げて確実に命中できるようにする集中ツールとして、イヤフォンで聴いている。「俺は国にも神にも仕えない、誰も代表しない」と言いながら。

この曲で心拍数が下がるからだの仕組みがいまいちわかりません。むしろ上がってしまいそう。これ、人を殺す時に本当にこの曲でいいです??と思ってしまった。「僕だって人間、他のみんなと同じように愛されたい」「もう待ちくたびれた。すべての希望は消え失せた」という歌詞に孤独な魂が癒される…ということはあるかもしれないけど、ヘヴィーなギターに長々煽られ過ぎて、むしろ標的外しそう…と思ったらなんかボンテージ女王様に直撃の悲劇。

私なら殺しの1曲は何にするかな?(※殺しません)短気なので、“Still Ill”の前奏で一気に…ってそれじゃあ10秒だわ。「身体が心を支配しているのか心が身体支配しているのか、わかんねぇ~~~!!」と歌いながらズドン(※やりません)。

4 "Hand In Glove" 

目的が外れ、パリからドミニカ共和国の隠れ家へ逃亡。道中の飛行機で心を落ち着かせるシーンで聴いている。

“I'll probably never see you again!!”と飛び立ったものの、そうは問屋が卸さなかったですね。復讐劇の幕開け。物語はここから。

5 "Bigmouth Strikes Again" 

隠れ家襲撃の復讐を始める。ドミニカ共和国からどうやら殺しの黒幕がいるニューオーリンズへ向かう。道中の飛行機で聴いている。

観ている間はわからなかったけど、これからとてつもないことをしに行く時、「俺なんて人間の仲間入りをさせてもらう権利すらない」というこの曲聴いて士気が高まるのはわかりますね。

6 "Heaven Knows I’m Miserable Now" 

主人公は、武器、ナンバープレート、クレジットカード、パスポートなどが装備されているトランクルームを訪れる。いろいろな準備の最中、車のスピーカーから流れる。

主人公は確信して準備を進めており、イキイキして見えます。そんな時「仕事を探して見つけた。でも間違いない。なんて惨めなこの姿」って歌が流れているという皮肉。人間は自分で変にイキイキしている時こそ、「メタ視点」が必要なのかもしれない。そして全編通して主人公がブツブツブツブツ言い続けているのは、全オッケーなんて思ってないのかも。でももう、どこにも早くたどり着けない(それは違う歌)。

7 "Girlfriend In A Coma" 

主人公が殺しの黒幕らしき弁護士ホッジスに会う準備をしているらしき、ホームセンターに必要品をいろいろ揃えに行く時、車のスピーカーから流れる。巨大リサイクルボックス、ネイルガン、電動工具などを入手。

明るい"Girlfriend In A Coma"流れながらホームセンターでいろいろ買ってると、平和なDIYおじさんみたいだけど、文字通り「昏睡状態のガールフレンド」がドミニカにいるんです、やるしかないんです。ここで巨大ゴミ箱、ネイルガン…釘??なんか痛いことする?する??と怖い。

8 "Shoplifters of the World Unite"

ニューオーリンズのダウンタウンにあるホッジスの法律事務所の外で、アシスタントのドロレスが歩いているのをバナナを食べながら眺めているシーンで、車のスピーカーから流れる。

パリの朝マックに引き続き、ジェームス・ボンドとかデューク東郷とかにはあり得ない、はりこみしながらバナナ。。。何はともあれ、ここ何?ホッジスって誰?ドロレスって?この歌の歌詞には"My only weakness is a list of crime"ってある。主人公の犯罪の陰にはどんな黒幕がいて、どんな仕組みで殺しが行われるのか、ここからだんだんわかってきます。

9 "Unhappy Birthday"

ドロレスから、主人公が失敗した殺人の依頼者、ドミニカ襲撃者の情報を聞き出した後首を折って殺し、遺体を階段から突き落とす凄惨なシーンに流れる。

「情け無用」であることを、何度も何度も、自分に言い聞かせる経文のように言う主人公。ここは今までのハシゴはずしみたく、ドロレスを助けるのかなと思ったら、さらなる非情なことをします。ドロレスは脅されながら「私は悪人ではないのよ」と言っています。この歌の、「君は悪人、そしてウソつき。死ななきゃならなとしたらちょっと悲しいかな(でも泣くほどではない)」という歌詞と呼応しているように感じます。ホッジスの手下だったばかりに、Unhappyすぎる、ドロレス。

10 "This Charming Man"

ホッジスとドロレスを殺し、処分するために遺体を載せた車でカーフェリーに乗り込むシーンで流れる。

聴こえた時、ものすごくぞっとしました。「このチャーミングな車に、このチャーミングな男」って、釘2発ぶち込まれて死んでるがな…。まったく笑えな過ぎて恐ろし過ぎて、笑ってしまいました。私の英国人友達にこのことを言ったら「あそこで笑うなんて、さすがモリッシーファン。ひどすぎる!」言われました。


11 "There Is a Light That Never Goes Out" 

終章、ドミニカの隠れ家のテラスで、コーヒーを淹れて恋人とゆっくり過ごすエンディング直後のクレジットシーンで流れる。

「安心を求めることは、負の連鎖を引き起こす。“運命”なんて気休めだ。自分の未来は予測不能。与えられた短い時間の中でこれを認められないのなら、あんたは数少ない人の中のひとりではなく、数多くの人の中のひとりなんだ。俺のように」

というモノローグの後に、「君のそばで死ねるのは、天国みたいな死に方だ」という"There Is a Light That Never Goes Out" が流れるのは、結局言い方悪いですけど、この殺し屋は「凡人」だったということだと思います。海辺の素敵な家でコーヒー淹れてテラス…ですが、このシーンもボンドみたいにグラマラスにおっぱじめたりキザなことはなし。まったり、運命に抗い、安心や、愛、感情に突き動かされる「凡人」であることは決して、悪いことではないんじゃないかというメッセージな気がします。

"There Is a Light That Never Goes Out" が流れて最後キスシーンででも締められたら興ざめだったけどあえて(?)エンドロールにしてくれたのはよかった。

 

●ザ・スミスファンに、この映画をおすすめする理由

正直言って、スミスファン脳で観始めて、欲求不満で死にそうになります。なぜなら、スミス曲はあくまでも、主人公がイヤホンやカーステで聴いているのが聞こえてくるだけなので、途切れまくり、部分的、よく聞こえない。スミスファンの皆さん、「そこ切らないで!!」とか思うと思います。でもザ・スミスを聴く映画ではなく(当たりまえ)、ザ・スミスを聴く、聴いてしまう主人公を見つめる映画だと思うんです。

フィンチャーも、ザ・スミス曲を起用した理由として「ザ・スミスほど、皮肉さとウイットを同時に備えた音楽はないと思う。観客は、この男(主人公)が誰なのか、よく知り得ない。彼の選曲する音楽が、彼を知る窓口になれば面白いと思ったんだ」とインタビューで答えています。ということは、フラストレーションを感じる可能性は多いにありつつ、ザ・スミスを世界観まで含め、よく知るファンこそ、深読みできておもしろい映画だと言えます。

 

●今まで知っている「殺し屋」と違うおもしろポイント

■ひとりがたり、多すぎ

この映画、しつこいくらいに、主人公のモノローグが反復されます。

「計画通りにやれ」

「誰も信じるな」

「感情移入するな」

「予測しろ」

「即興はするな」

「修行するぞ修行するぞ」と自分に言い続けさせられていた某団体のような自己暗示を感じます。そもそも私たちがフィクションの中で知っている「殺し屋」は「感情移入は弱さ。弱さは無防備」とか、言う???「弱さ」に怯え、抗っているという前提すらないです。

これは、自分は本当は違うということだと解釈します。誰かを信じてしまいそうになる、優しさを出しそうになる、その場その場で計画とは違うことをしそうになる。だって人間だもの。私たちと同じ、「数少ない人の中のひとりではなく、数多くの人の中のひとり」。サイコパスでも、スーパーアンチヒーローでもない、ただの人間だもの。だから失敗もするし、愛のための復讐にも狂う。そしてザ・スミスをしつこく聴くんだと思います。じゃなきゃ、保てない。

観終わった後すぐには、「これ、いちいちザ・スミスにする必要ある?ポーティスは良かったな」と思ったんだけど(ひど)、よくよく考えて、やはりどうしてもスミスじゃなきゃいけなかった理由はこれだと思うんです。フィンチャー、ごめん

■買い物、多すぎ

あと私が気になったのは買い物www 私たちが知ってる「殺し屋」、ホームセンターで工具買ったり、スーパーでひき肉買う?フィンチャーはインタビューで、「作品を見た人がホームセンターで同じレジ列の後ろに並んだ人に対して緊張感を覚えてくれたらいいな、と望んでいる」と言っていました。後ろの人が天馬のデカい衣装ケースを買っていても、もう怖いです!

■食、こだわらなさすぎ

お金はいくらでもあるだろうに、効率を重んじるのか世界中でタンパク質補強にはマクドナルドを愛用しているようです。パン食べないのは糖質制限してるのか…そういうとこすごく細かい!その後出てくる、ティルダ・スウィントン演じるエキスパートの殺し屋の美食っぷりが対照的でした。そう言えばホッジスんとこ行く前に食べてたバナナはいつ買ったのかな(笑)。

■車、借りすぎ

あとレンタカーですね。借りすぎwww ボンドはアストン・マーチンだし、ジェイソン・ボーンもベンツとかアウディとかだったはず。アシがつかないよう、また偽装や便宜上ではあると思いますがあまりにdown-to-earthというか「普通」を描いている。

その他、

■潔癖、消毒しすぎ

■ファッション、こだわらなさすぎ

■偽名、ありすぎ

…などいろいろおもしろポイントありますね。皆さんのおもしろポイントもあれば教えてください。

フィンチャーはまたインタビューで、「表現したいのは悪の陳腐さ、平凡さ」と言っていました。そうそう、もう勧善懲悪はもちろん、善悪を描いても新鮮みもない。こういう主人公の内面の「言わずもがな」の表現はものすごく面白いし、それにザ・スミスが使われていることもうれしくなる作品でした。


映画『ノマドランド』にモリッシー・スミスの歌詞が!

2021-04-22 21:57:55 | 映画

お久しぶりです。去年から今年にかけて、色々激動でしたが元気です。

まだ激働中ですが、ようやく時間ができて『ノマドランド』を観たので、忘れないうちに書こうと思って出てまいりました。


この映画には、スミスの“Rubber Ring”の歌詞と、モリッシーの“Home Is a Question Mark”の歌詞が引用されています。

それを今年のお正月に、従妹から聞いて、「え、どうしてその歌詞なんだろ。はやく観たい!!」と思っていたのでした。

以下、ネタバレありです!

・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年、ネヴァダ州の企業城下町エンパイアに暮らす、夫に先立たれた60代のファーン(フランシス・マクドーマンド)は、工場の業績悪化による閉鎖とともに住み慣れた家も失います。夫に先立たれた独り身の彼女は、キャンピングカーに荷物を詰め込んで仕事を求めてアメリカ西部に旅立ち、まさに現代版「ノマド」=遊牧民として漂流し始めるわけです。

アマゾンで働き始めたファーンは、同僚アンジェラ(この映画に出てくるキャストは、ファーンとデヴィッドという登場人物以外は実際にマクドーマンドが撮影にあたりノマド生活する中で出会ったリアルな人たち!!)にタトゥーを見せられます。

思った以上にすぐに出てきた!! そのスミス&モリッシー歌詞は、以下。

 

When you're dancing and laughing and finally living hear my voice in your head and think of me kindly

君が踊ったり笑ったり、ついに君として生きる時、頭の中で僕の声を聞いて、僕を優しく思い出して

(The Smiths “Rubber Ring”)

 

Home is it just a word? Or is it something that you carry within you"?

居場所、それって単なる言葉? それとも君と一緒にあるもの?

(Morrissey "Home Is A Question Mark”)

 

このアンジェラのタトゥーは、偶然とは思えないほど、この映画の「肝」を示唆していると思いました。

(監督は事前にアンジェラのタトゥーを見て「これだ!」と思って、どっかからアマゾンにお招きして仕込んだのか…?w)

"Home Is A Question Mark“は「ホーム」という言葉から考えてもそのものだし、“Rubber Ring”は、ゴムの輪っか、つまり救命用の浮き輪。

漂流者の、命のよりどころです。

 

映画中何回か、ファーンにはノマド生活を抜け出すチャンスが訪れます。

でも、自分の「居場所」であり「よりどころ」を心の中に持っているファーンは強く、自分の意志でノマドであることをやめません。

「仕方なく」やっているわけでなく、その暮らしをしていることは、自分の選択であり、矜持なのです。ボロボロのキャンピングカーを、自分が手をかけてここまで育ててきたもの…との思いから買い替えないことにも、表れています。

 

始めの方で、かつて臨時教員をしていた時の教え子に会い、「先生はホームレスなの?」と聞かれ、かっこよくこう答えます。

 

「『ハウス』レスだけど、『ホーム』レスじゃないわ」

 

物理的に家がないだけで、自分の居場所やよりどころは自分の中に持って移動しているわけです。

ファーンの生き方はそのまま、モリッシーの"Home Is A Question Mark“の中での問いかけの答えになっています。

(「モリッシーと居場所」のことは、拙著『お騒がせモリッシーの人生講座』133ページあたりに詳しく!興味ある方は立ち読みしてね)

 

この映画を観て帰ってきて、旦那に「おもしろかった?」と聞かれました。

おもしろいか、おもしろくなかったか、と言えば、おもしろくはないので、「おもしろくなかった」と答えました。

(自分的にかなり、ほめてます)

「オチがないの?」と聞かれたので気づいた。「オチ」がないのは、我々の人生そのものではないかと。

 

普通、映画やドラマは2時間といった限られた時間の中に、凝縮したオチを見せ、私たちはカタルシスを得る。

でもこの作品は違いました。きっとファーンのああいう人生はこれからも、オチもなく、淡々と続く。

まわりのノマドのみなさんの人生も、続く。そして、いちいち結論もハイライトもなく我々の人生も、続いている。

 

この映画は、どこかの誰かが居場所をなくして転々としている話ではなく、この星に生きる物たち全員の心の漂流を描いているものではないかと思いました。

「自分ごと」として観てしまうんで、おもしろくなんかないのか。

(「貧困とかホームレスなのは自己責任」とか、ファーンの義兄のように「あんたらみたいに気軽に動き回って」とか言ってる人は、また別の意味でおもしろくないでしょうw それって心が硬直している!?)

ファーンが出会う、高齢の漂流者たちには一見なんの救いもない。でも、彼や彼女たちは、別れや病気や貧困があっても、淡々と車で移動し続ける。続ける。意味や論理ではなく、続けていく。

実は、それこそが実は「救い」なんではないかな、と思ったんです。人間という生物の営みとして、普通のこととして、地上の上で動き続ける。なんか、ものすごく生きてる。広大な大地の中、それが全身でわかる。

ノマドのみなさんは、ゴミを出さないようにしたりDIYしたりエコですけど、自分たち自身が「循環型」だと思いました。

日々、地球という星の上で息をする生物として地の上で動き、眠り、起き、食事し、排泄し、動き、いつか死に、地に戻る。それまで、生きてる。

 

何を言っているんだかわからなくなりました。

 

でも死ぬまで、とにかく続けて、続けて、生きている中で、大切な光景(ツバメがたくさん飛ぶ場所、家の後ろのドアを開けると

さえぎるものなく続く砂漠、昔家族と囲んだ食卓のアンティークのお皿、何光年も経てやっと地球に届いた星の光…美しいものがいっぱい出てくる)や人との出会いがある。

それが漂流している自分のつかまる筏のような、よりどころになるのだとよくわかりました。

 

踊ったり、笑ったり、ついに自分として生きる時、頭の中で聞こえる声は誰のものでしょう? 優しく思い出すのは何でしょう?

 

だから、おもしろくはないけど、観終わって頭の後ろから「ぐわーーーっ」となるし(なんかが入ってくる感じ)勇気もわいてくる映画です。


【後編】映画『mid90s ミッドナインティーズ』でモリッシー!その背景・理由とは?

2020-09-16 23:55:10 | 映画

大好評上映中の『mid90s ミッドナインティーズ』を観て、モリッシーの曲が映画の本当に美しい「肝」シーンで使われていた背景・理由についての続きです。前編はこちら

 

前回は監督ジョナ・ヒルの田中正造的直訴が、モリッシーを動かした…というところまで書きました。しつこいですが、あのモリッシーが即許可するなんて!!!それは、この映画の内容を気に入ったに違いない(そうでなければあり得ない)と思い、そんなこの映画の内容について触れたいと思います。

★前編は平気だけど、後編はここからネタバレも含まれそうなのでお気をつけください。

 

④「男の世界」の痛みを、ありのままに描いた映画

この映画では、シングルマザーに育てられ、5歳上の屈強な兄に力で抑圧されている13歳のスティ―ヴィーが主人公。彼がスケボーショップでたむろする、年上のかっこいいお兄さんたちに会い「仲間入り」「背伸び」しつつ、自分の居場所を見つけていこうとする姿を描いています。

まず、これを観て私が最初に思い出したのは、イギリス映画『ディス・イズ・イングランド』です。設定も背景も違いますが、ひとりの少年が、年上の仲間たちの集団に出会い、その中の「一員」となることで今までの世界を抜け出し、新しい世界を知っていく中で酸いも(8割方酸いかも)甘いも体験する映画。

すると!!またまたパンフレットで田中正造…じゃなかったジョナ・ヒルが

「ディスイズイングランドは全員に見せました」

と言っているからびっくり!!やっぱり!!今回の映画の役者たちはまだ子どもなので、感情的に遠慮せずにリアルな表現をしてもらうため、映画のトーンを理解してもらいたい、と思って見せたそう。

 

このシーンなんて似てますね。

 

そしてもうひとつ思い出したのは、この前試写で観た『アウェイデイズ』。

やはりこの主人公も、「パック」と呼ばれるサッカーの遠征に行くフーリガングループに入り「一員」になりたくてたまらない…。でも「空気」とか、やはり「同じ種類の人間かどうか」という、見えない壁や制約もあって簡単にはいかないという。

 

どうして男性は成長の段階で、このような「ホモソーシャル」(同性同士の性や恋愛を伴わない絆や繋がり)なコミュニケーションに惹かれることが多々あるのでしょうか?女性ももちろんつるむのは好きだと思うけど、何かもう少し制約から自由な気がする。立場上や活動上の「集団」(いわゆる「オタ友」とか「ママ友」とか)には所属しやすいけど、ともかくつるむとか、その美学とか、「裸のつきあい」とか「絆」とかに縛られるケースは少ないような??

 

「男同士の絆」と言えば聞こえはいいですが、昨今は過剰になると女性蔑視やセクハラを生んだり、仲間意識からエクストリームな同調圧力のきっかけになったり…と「男の生きづらさ」とか「男性性の有毒性」の象徴にもされています。同調圧力が強い、日本の企業社会とかに特有のものかと言えばそうではなくやはり人間は孤独であり、「居場所」がほしいのではないか。確かに当座の居場所を得ることは幸福だけど、結局「集団」において自分がなりたい自分にはなれないというジレンマも生まれる。。モリッシーの発言でもありますが、集団に依存や耽溺せず、己の「個」に対峙していく葛藤こそが、おとなになっていくことではないか、、とも思ったのであります。

 

映画の中でも、ちっちゃいスティーヴィーが体を張ったエクストリームな行動を!!でもそれをお兄さんたちに称賛されたりおもしろがられたりすると、心からうれしそうに笑う。その笑顔が、とてもつらい(涙)。一概に「それあかんやつ、やっちゃダメ」「家に帰りな!!」「そんな小さいのにまだ早いよ!!」とも言えない(映画館だから言わないけど)。たとえ悪いことであっても、同じことをし、年上の兄さんたちと同じ目線で語り、認められることが彼にとってどんなに誇らしく嬉しいことかと思うと胸が苦しい。けれどもこの映画でジョナ・ヒルは、スティーヴィーやスケボー少年たちの姿を美化したり「青春ていいよね★」ときれいごとを言っているわけではないのがいいな、と思いました。

 

音楽ジャーナリストの高橋芳朗氏は、ラジオ番組『ジェーン・スー 生活は踊る』の中で、

 

「この映画にはそういう有毒な男性性、トキシックマスキュリニティについてのジョナ・ヒルの自戒や反省が込められていて、彼はあえて少年たちをありのままに、未熟なままに描いているんです。それと共に、そういうマチズモな空間で生きる少年たちの痛みや悲しみもすくい上げている」

 

と語っていました。しびれる指摘!!ジョナ・ヒル自身、「僕が育った時代の歪んだ男性性を見つめ直したかった」と語っているそう。

そんなジョナ・ヒルの自己批判とも受け取れる選曲が、この映画のここぞ!というシーンに流れるモリッシーの「We’ll Let You Know」だと。

 

実はこの「男性性の有毒性」は、モリッシーが心から嫌悪し、問題視しているテーマです。たとえば自伝の中では

 

「男らしさとは、多くの我慢できない徹底的なガイドラインによって定められている。山ほどたくさんのだめ出しによって定義されているガイドライン。男同士の友情は、よそよそしいルールのゴタゴタによって身動きをとれなくなれる」(『モリッシー自伝』270ページより)

 

と書いています。モリッシーが嫌うこの社会の、そして彼が育ったマンチェスターの労働者階級の、マッチョな力で物を言わせ合って群れているホモソーシャルは、決して男同士本当に「仲がいい」ことではない。モリッシーもそれでもそんながんじがらめの世界やコミュニケーションの中で生きなくてはいけない者たちの悲しさ、やる方なさもよく歌います。この映画で流れる「We’ll Let You Know」もそのひとつ。実はこれは、フットボール・フーリガンの愛国心を歌ったものだとか、スキンヘッド小説をモチーフにしたものだとか、モリッシーとバンドメンバーを歌ったものだとか…今までいろいろな解釈がありましたが、この映画で後半を切った形で以下の部分を使ったジョナ・ヒル監督の解釈は、「こんな風でしかないけど、ありのままの俺たちはこうだ。見てくれ」ということではないかと。だからあのシーンに使ったのではないかと。だからモリッシーも「お、ハマっている。OK」となったのではないかと。これは、「昨日や今日」でできる解釈でも、利用の仕方でもない。監督、かなりモリッシーを聴いているとみた…←それもわかってのまさかのモリッシー「OK」だったのではないか!?

 

映画から帰ってきて、聴き直したら、余計にあの映画でジョナ・ヒル監督が言いたいことを感じられた気がしました。あのシーンでは確かに、男同士のしがらみを離れ、夕暮れの中、すごく自然に「ありのまま」でスイスイすべっていた。ちょっと、夕暮れに、空を自由に飛んでいる鳥を見ている気分に。実際には劇場で、イントロが聞こえた瞬間に、ひとりでおいおい泣いていたのですが(泣)。

 

対訳をつけたので、ぜひ聴いてみてください。1992年のアルバム、『ユア・アーセナル』に収録されています。

 

We’ll Let You Know


How sad are we?

ぼくらがどんなに悲しいか

And how sad have we been?

どんなに悲しかったか

We'll let you know, we'll let you know

教えてあげようか 教えてあげるよ

Oh, but only if you're really interested

あ、でも、本当に知りたければね

You wonder how

僕らがどうやって今まで生きのびてきたのか

We've stayed alive 'til now

不思議に思うよね

We'll let you know, we'll let you know

教えてあげようか 教えてあげるよ

But only if you're really interested

でも、本当に知りたければね

We're all smiles

僕ら上機嫌なのにさ

Then, honest, I swear, it's the turnstiles

マジで、くるっと回る扉のせいなんだ

That make us hostile

そいつをくぐると嫌なヤツになるんだ

We will descend

身を守れない奴ら誰にも

On anyone unable to defend themselves

飛び掛かってしまう

And the songs we sing

そして僕らが歌う歌は

They're not supposed to mean a thing!

何も意味なんかありゃしない!

La-de-dah-dah la-de-dah-dah

ラディダラディダ…

(映画の中では歌詞部分はここまで。「僕らこそ最後の英国民~」など原曲の最後の下りは省略)

Morrissey - We'll let you know


【前編】映画『mid90s ミッドナインティーズ』でモリッシー!その背景・理由とは?

2020-09-16 21:19:36 | 映画

2度のオスカーノミネートを果たした人気俳優ジョナ・ヒルの監督としてのデビュー作『mid90s ミッドナインティーズ』


本国では2018年公開でしたが、日本でもこの9月4日から始まりました。大好きな『ムーンライト』や『レディ・バード』などを制作した映画スタジオA24の青春映画だと聞いて、何となく観ようかな~と思っていたら、劇中でモリッシーのあの曲が使われていると聞いて!!本日やっと行ってきました。

私の編集担当M氏によると、「なぜ今こんな昔話を」「ノスタルジーが過ぎる」「昔を懐かしむ系に拒否感」「むず痒い」「なんで今さら」…とのことでしたが(だんだんモリッシー本担当者だからか??否定語のバリエーションが増えている…)「モリッシーのかかるシーンはいい」とのことで、「そこが良ければいいじゃん!」とワクワクしながら行きました。結論から言って、M氏ほど「スケボーカルチャー」との距離が近くない&ノスタルジーをあまり感じない自分は、素直に良かった!!(M氏も「結論はいい」と言ってるので、まあ好きだからこそ言うんだと思うんですけどねw)

ところでネットでは、「スケボーとモリッシー…なんで?」「モリッシーだけ90年代アメリカ感なくない?」という声も見ました。M氏は「シュプリームがらみでモリッシーがスケボーカルチャーの中で人気だからじゃないですかブツブツ…」と言ってたのですが、そもそも、なぜシュプリームがモリッシーを起用したのかもあるのでそれはおいておいてw(興味ある方はこちらに関連記事も)今回の背景にあるのは以下のことではないかと。

 

①90年代 アメリカでのモリッシー人気

90年代くらいからスミスやキュアー、ソロとしてのモリッシーはアメリカでも大人気。モリッシーの『ユア・アーセナル』が1992年にビルボード100のチャートで21位になった時には「巨大な爆発」(本人曰く)が起きたそう。ハリウッド・ボウルのライブは、マウスを1クリックする間に売り切れたそう(本人曰く)。

 

「どのアメリカの都市でも、モリッシーへの集団ヒステリーが起きた。あまりにもすごかったので、ありそうもないこととして記憶のファイルに閉じ込めてしまった」

(『モリッシー自伝』232ページより)

 

まあ、そんな感じで90年代といったらアメリカのユースに、すでに「ロックの教養」のようにスミスは浸透し、またモリッシーもソロアーティストとして確固とした地位を築き始めた頃。90年代にカリフォルニアにいた友人は、「特に好きでなくても、グランジのようにシーンを席巻!みたいな感じでなくても、スミスだかモリッシーは(←区別がつかない)お店やダイナーで自然に鳴っていた音楽。そしてけっこうみんな好き」とも言ってました。

モリッシー自身はそんな90年代のアメリカでのスミス人気には、他人事のように呆れ気味でしたけどね。自伝では、もうどこにも見えないのに、ないのに、「ザ・スミスやは『よく効く』言葉だった」と自嘲気味に当時を振り返っています(239ページ)。スミスが終わってはじめて、イギリスの若者だけに限らない青春の慟哭や世界への失望や怒りを歌ったスミスの普遍性が、少し遅れてそのまんまアメリカにも(そして世界にも)本格的に派生してきたということでしょうか。

 

②スケートボーダーからの人気

先述での「シュプリーム」での起用(そのおそろしい経緯はこちら)もしかり、モリッシーはスケボーカルチャーと親和性があります。

けっこうスケートボーダーは自分たちの技ビデオのBGMにスミスやモリッシーの曲を使ったりもしてます。カリフォルニアの老舗的スケーターブランドFLIPも、1994年にライダーを引き連れてカリフォルニア・ハンティントンビーチに拠点を移し、様々な映像作品をリリース。そのBGMにはスミスの曲を使っています。

カリフォルニアに本社を置きスケボー用シューズを主に製造してる「ラカイ」の販売した、こんなTシャツも!

他にもモリッシーモチーフのボードも売っているのを見ました。

 

何じゃこりゃ…

 

2015年ですが、サンフランシスコのスケーターマガジン「スラッシャー・マガジン」のサイトはモリッシーの独占インタビューを掲載していました。リーダー層にニーズがあるからなんですよね。

 

③監督ジョナ・ヒルの直訴

ジョナ・ヒルはLA出身。ということは、ここでサンフランシスコ生まれのボーダーでミュージシャン、トミー・ゲレロも語っていますが、アメリカでの主流モリッシーガチ勢、ヒスパニック系が支えている彼の絶大な人気を十分承知。ある意見では、「ジョナ・ヒルは若い頃、近所のヒスパニックのボーダーとつるんでいて、モリッシーやら彼らの音楽志向の洗礼を受けたのではないか」とのことでしたが、彼は比較的裕福なエリアの出身なので直接的にそんなつるんだりしたのかどうか…。

パンフレット内のインタビューでジョナ・ヒルは、インタビュアーに「音楽について聞きたいことがあります」と言われると、即座に

「モリッシーですか?」

と答えています。即座にモリッシーのことかと思ってしまう監督www 交渉での気苦労がうかがえます。

「モリッシーの曲は最初に許可を取りました。たくさん手紙を書きました。あまり音楽にかけられる予算がなかったのですが、僕がモリッシー宛に手紙を書いたら、返事が来て、曲を使用する許可をくれました」

って、ジョナ・ヒルの田中正造的直訴が、モリッシーを動かしたようです。モリッシーが許可するなんて!!!それは、この映画の内容を観たのか観なかったのか(きっと見せろとは言ってきたに違いない)、、、気に入ったのだと思います。自分の歌が「おや、ぴったり⇒OK!!」と思ったのだと思います。

おっと長すぎるので…映画の内容に関しては後編で!


なかなか辿りつかない、モリッシー“好き”の終着地-木ノ下裕一氏のコラムを読んで

2019-07-08 16:51:28 | 映画

東京での『イングランド・イズ・マイン モリッシー, はじまりの物語』の上映が終わりました。

わたしは今回、こちらの映画の字幕監修、映画パンフマニアとしてかねてからの夢のひとつだったパンフレット解説執筆をさせていただき、光栄であると同時にたいへん楽しかったです。


一緒に仕事をさせていただいた映画の宣伝担当の方は、初対面の最初から「パンフレットはNMEみたいな形にしたい」「プロモーションはこうしたい」「監督を呼ぶ」という熱い明確な思いを語ってくれました。「本当にそれ全部できたらすごくないですか?」…と、当初はちょっと「本当にできるの?」感もあったことまですべてやってのけてらして、その熱意と有言実行力に上映前からずーっと感激しっぱなしでした。

また急遽マーク・ギル監督にインタビューもできて、それを記事化するにあたっては信頼している某編集長と一字一句、監督のスミスやモリッシーを「好きという思い」をもらさずに伝えようと、もの凄い勢いでの共同作業もできて大変勉強になりました。

上映前から、3カ月くらいの間にいろいろなことがあったのですが、やはり「映画」ってすごいなと思ったのは、すそ野や解釈の広がり方。まったくモリッシーもスミスもイギリス音楽にも興味ない知人や近所の方々、70代の母の友人たちまでも「映画なら観に行こう」と劇場に足を運んでくれたことは驚きでした。それでもちろん「モリッシーいいね!音楽聴きたい♪」なんて単一的な結論にはならないのがおもしろかった。ある人は「あんなお母さんになれないよね」と悩み、またある人は「最後に出てきた男の子となんかやるんでしょ?(←かなり「なんか」やる・・・)はやくやればいいじゃんね」といら立ち、またある人は「何も起きないから、集中力使い過ぎなくていいね。アンビエント」と言い…w

そしてここからが今回ご紹介したい話。知人のSさんは、モリッシー…というより、そんなにわたしが「好き」になるってなんで!???、と興味を持ってくれました。これが音楽だと好みやジャンルの壁もあるし、もしくは聴き流せてもしまえるけれど、「映画」だとある一定の時間暗闇で対峙しなくてはならないので、逃げられずw なんでこんなに「こういうもの」を好きなのか?という部分を心に留めてくれた模様。そこで彼女は、自分はそこまで「好き」があるかと考えたそう。そして探究熱心な彼女は、「好きになるとは、何か」を掘り下げたいと思ったのでしょうか、まったく興味もないはずのわたしの本まで読んでくれました!

おととい、その感想のお手紙をもらいました。その中の「モリッシーみたいな人を好きでいられるあなたは素敵です」という一文は、深いな、と思いました。「モリッシーみたいな」ヤバいw人をわざわざ好きでいなくても、もっと別な道はあったのかもね…でも「好き」に落ちるって不可避だし。。と思っていたら、「本を読んでてこれ、あなた的な感覚なのかなと思って切り抜きました」という新聞切り抜きが同封されていました。

日経新聞に掲載された、木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一氏による「“好き”の終着地」というコラム。彼はよく「好きなことを仕事にできていいですね」と言われるが、実は好きなものを“正しく”好きでいつづけることはとても難しいと書いていました。


「好きなものがものが好きな、自分が好き」という不純な自己愛にすり替わった瞬間、純心であったはずの“好きのカタチ”はたちまち醜く歪んでしまう。坂口安吾の小説『夜長姫と耳男』の、

 

 「好きなものはのろうか殺すか争うかしなければならないのよ。……」

 

というセリフを引き合いに、好きなものとの戦いは自分との格闘だが、その時に支えとなってくれるのが、好きなものの向こう側にある“感情”だとも書いていました。なぜ好きになったのか、折に触れて気持ちをアップデートすることで、見慣れたはずの“好きなもの”がまったく新しい様相を見せてくる。そしてそれが不思議なことに、“新しい自分の姿”でもあると。

よく「好きになるのに理由なんてない」と言われますが、確かに、エモーションとしては理由がないかもしれない。でもそこにコンテクストを加える、加える続けて育てることでいろんな理由やら納得の枝葉ができる。エモーションが幹なら、その枝葉がロジックなのかも?

わたしはこの枝葉を毎日なめるように愛で←変態  「ああ、わたしはこんなに好きだ。今のわたしはこんなだからやっぱ好きだ、更に好きだ」と思うんです。自分のアップデートにあわせて枝葉の繁りを再び確認する。そしてエモーション幹はどんどん太くなる。もうこのまま止むこともないのでしょう。“好き”の終着地には辿りつけず、むしろ執着地w

この新聞コラムを読んで、さらにモリッシーを始めとする「好きなもの」を好きでいることの茨の道を歩む決意を新たにしました。

そうやって自分の「好き」と歩む人生はめちゃくちゃ幸福なんだけど、結果今の「自分」を突き付けられることも多くちょっと面倒でつらいこともあるから、こんな風に誰かに興味持ってもらえてとってもうれしいし面白いですと、またSさんとお話ししたいです。

★ネット版にも出ていました

日経新聞 6月29日 夕刊

“好き”の終着地  木ノ下裕一

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46635080X20C19A6FBB000/